第十一章 主人公、本出計画
第十一章 主人公、本出計画
「その子、来てない?」
藤井は本から顔を上げた。
淡い桃色のドレスを着た少女が、こちらをのぞき込んでいた。
柔らかな栗色の髪。大きな瞳。唇には、控えめな微笑み。
藤井は一度、膝へ目を落とした。
表紙に、同じ顔があった。
「……リディア?」
「そう。で、来てない?」
「誰が?」
「セラフィーヌ。紫の服の、背の高い子」
藤井は表紙の奥を見た。
銀髪の青年と寄り添うリディアの後ろで、紫のドレスの女が睨んでいる。
「この人?」
「その子」
「まだ来てないけど」
「よし」
少女は笑った。
「じゃあ、隠れさせて」
*
「かくれんぼですか」
佐伯が来ると、リディアは首を振った。
「本出」
「ほんで?」
「家出の、本のほう」
藤井は膝の本を閉じた。
「本から出てきたのは、見れば分かるけど」
「今度は帰らないの」
リディアは腰に手を当てた。
「もう、あんな話、やってられない」
藤井は、黙って表紙を見た。
そこでは彼女が、青年にそっと手を重ねていた。
藤井が好きな場面だった。
「どうしたの?」
リディアが尋ねる。
「いや。俺、君、好きなんだけど」
「知ってる。表紙が擦れるほど見てたもの」
藤井は本を裏返した。
佐伯が、横から顔をのぞき込んだ。
「どうなさいました?」
「……声に出すと、こんな感じなんだなって」
*
セラフィーヌは、間もなく来た。
紫のドレス。長い黒髪。すらりとした背丈。
ただ、つり上がった目は不安そうに伏せられ、両手は胸元で小さく重なっていた。
「あの。こちらに、リディアさんは……」
藤井は少女のすぐ隣を見た。
リディアは細い柱の陰に立っていた。
ドレスの半分と、両肩が出ている。
「いません」
「いるでしょう」
藤井が言うと、リディアは顔を出した。
「あんた、口堅そうに見えたのに」
「隠せてないから」
「よかった。見つかって」
セラフィーヌが、ほっと息をついた。
「皆さん、心配なさるわ」
「させとけばいいのよ。たまには」
「でも、殿下も」
「その人が、いちばんすればいい」
藤井は、もう一度表紙を見た。
冷たい顔で睨む悪役令嬢。
かばわれながら微笑む主人公。
二人を見る。
「……逆じゃない?」
「何が」
「何でもない」
佐伯だけが、いつもどおりだった。
「立ったままでは何ですので、少し、お話を伺いましょうか」
「座れるの?」
リディアがすぐに藤井の椅子を見た。
「そこは俺が」
「今、立ってるじゃない」
座られた。
*
「まず、婚約者」
リディアは膝の上で指を一本立てた。
「私が誰かと話すたびに、嫉妬するの」
「殿下、一途だからね」
「話が長くなるから、いちいち褒めないで」
藤井は口を閉じた。
「騎士と話せば、誰だと聞く。庭師に花の名前を聞けば、不愉快そうな顔をする。花の名前、あの人、ひとつも知らないくせに」
「そこは、書いてなかったな」
「だから聞いたのよ、庭師に」
リディアは二本目の指を立てた。
「それで私が危ない目に遭うと、護衛もつけずに出歩くからだって怒るの」
「心配なんじゃない?」
「護衛と親しくなると、その護衛を替えるのよ」
藤井は佐伯を見た。
「……それは、困るね」
「でしょう?」
リディアは、初めて満足そうに頷いた。
セラフィーヌが、そっと口を挟む。
「殿下も、あなたのことになると、余裕がなくなってしまうの」
「自分の余裕くらい、自分で用意してほしいんだけど」
佐伯が小さく咳払いをした。
藤井は本を開いた。
少し前まで、胸がときめく台詞だった。
誰にも見せたくない、と殿下が囁く場面。
今、その本人は、堂々と本屋の椅子に座っていた。
「ここ、好きだったのに」
「私、翌日、庭にも出られなかったのよ」
藤井は、そっとページを閉じた。
*
「それから、作者」
リディアは三本目の指を立てた。
「あの人、私が泣けば何とかなると思ってる」
「よく泣いてるよね」
「転んでも泣く。誤解されても泣く。助けてもらっても泣く。そんなに水分ある?」
藤井は笑いかけた。
「笑っていいわよ。こっちはずっと、泣かされてるんだから」
「ごめん」
「次は、舞踏会で靴を隠されるらしいの」
セラフィーヌの肩が動いた。
藤井は彼女を見た。
「君が?」
「……はい」
セラフィーヌが小さく頷くと、リディアが口を挟んだ。
「一応、頼んだのよ。せめて両方隠してって」
「え?」
藤井の声が裏返った。
リディアは頷いた。
「片方だけ残ってたら、探すでしょう。両方なかったら、今日はもう帰ろうってなるじゃない」
「作者は、それで帰してくれるかな」
「くれない。裸足で踊らせるつもり」
深いため息が落ちた。
「靴、買ってくれればいいのに。毎回毎回、殿下が私を抱えて、みんなの前へ」
「見せ場だから」
「その人、さっき私を誰にも見せたくないって言ってたわよね?」
佐伯が、本の表紙へ顔を伏せた。
肩が、少し揺れていた。
*
「でも、戻らないと、お話が」
セラフィーヌが小さく言った。
「進まない?」
「ええ」
「たまには、あんたと殿下で進めておいて」
「私では、その……」
「婚約者でしょう。もともとは」
セラフィーヌは目を伏せた。
「でも、私が殿下とご一緒していたら、あなたがお戻りになったとき、余計に揉めてしまうのでは……」
リディアは少し考えた。
「そうね。戻ったら二人が親しくなってて、私が身を引こうとして、また泣くのね」
セラフィーヌが、おずおずと頷いた。
「じゃあ、駄目だわ」
藤井は二人を見比べた。
「仲いいの?」
「普通」
リディアが答えた。
「お茶をかけるとき、冷ましてくれるし」
「熱いと、危ないですから」
セラフィーヌが真面目に頷いた。
藤井は本の該当箇所を探した。
「……これ、冷めてるんだ」
「ええ。少し早めに、カップへ注いでおきます」
「準備があるんだね」
お気に入りの場面が、またひとつ、知らない姿になった。
佐伯が、やっと顔を上げた。
「それでも、かけないわけにはいかないんですね」
「そう書かれてしまうので……」
セラフィーヌは小さくなった。
「だから、私は本から出てきたの」
リディアは椅子の上で背筋を伸ばした。
「少なくとも、今ここでは泣けって書かれてない」
藤井は本を見た。
それから、彼女を見た。
「笑ってるところ、好きだったよ」
リディアが眉を寄せた。
「それも、何か言いたいの?」
「いや。泣いてるとこだけが好きなわけじゃないから、一応」
「……そう」
返事は短かった。
「でも、椅子は返して」
「今、いいこと言ったのに」
「立ちっぱなしだと、俺も疲れる」
「分かったわよ」
リディアは立った。
セラフィーヌが、ほっとしたように一歩近づく。
「では、帰りましょうか」
「何でそうなるの」
止まった。
「椅子は返すけど、まだ帰らない」
「……はい」
悪役令嬢のほうが、困っていた。
佐伯が藤井を見た。
「ひとまず、今夜はここでお休みいただいては」
「うん。俺に帰す役、求められても困るし」
「話が早いわね、あんたたち」
リディアは、初めて表紙に似た笑顔を見せた。
藤井は少し見とれた。
「で、ここ、何か飲むものないの?」
「本屋なので」
佐伯が答えた。
「お茶の写真でしたら、ございますが」
「写真じゃ喉は潤わないでしょ」
「泣かなくても、喉は渇くんだね」
藤井が言うと、リディアは笑顔のまま、こちらを見た。
「いま、何て?」
藤井は本を開いた。
「何でもないです」
本文の中のリディアは、今日も優しかった。




