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三日月書店、本からのお客様。――利益は一切ございません。  作者: もちむぎ


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第八章 名探偵の異議

第八章 名探偵の異議


「そっちじゃない」


 藤井は本から顔を上げた。


 通路の先に、男が立っていた。

 細身の体に、仕立てのよい灰色のスーツ。銀の持ち手の杖をつき、もう片方の手には帽子を持っている。


 誰かに似ている、と思った。


「……何が?」


「君が今、開こうとしているページだ」


 男は藤井の膝を杖の先で示した。


「結末を先に読むな。まず見取り図を見たまえ」


 藤井は本を閉じた。


「まだ誰が死んだかも知らないんだけど」


「それなら、なおさらだ。私の推理を聞く前に、確かめておくべきことがある」


 藤井は表紙を見た。

 古い洋館の窓辺に、帽子をかぶった男の影がある。


 杖の持ち手が、銀色だった。


「……まさか」


「察しがいいな」


「榊条怜司?」


「いかにも」


 男は帽子を胸元へ引き寄せた。


「名探偵、榊条怜司だ」


 藤井は思わず立ち上がった。


「読んだことある。『水曜日の訪問者』と、『六人目の証言』」


「ほう」


「六人目の、あの最後の台詞、よかったなあ」


「当然だ。証言の矛盾は、最初から私の目には明らかだった」


 榊条は顎を上げた。


「それを踏まえて聞いてほしい。私は、あのような初歩的な見落としはしない」


 藤井の笑顔が止まった。


「……どのような?」


 榊条は、藤井の手元の本を指した。


「この建物では、あのトリックは実現不可能なのだ」


     *


 佐伯が来たのは、その直後だった。


「お探しの本は見つかりましたか」


「それどころではない。私の名誉に関わる問題だ」


「さようでございますか」


 佐伯は藤井を見た。

 説明を求める顔だった。


「この本の探偵。推理が間違ってるって」


「私が間違えたのではない」


 榊条が訂正した。


「あいつが、私に間違った推理をさせた」


「作者が?」


「ほかに誰がいる」


 藤井は佐伯を見た。


「こういうのって、確認するよね。編集の人とか、校閲とか」


「確認されるとは思いますが、私も制作の現場まで存じ上げているわけではありませんので」


「でも、無理だって分かったら、そのまま出すかな」


「聞こえているぞ」


 榊条が杖をつき直した。


「私の訴えより、顔も知らない校閲者を信じるのかね」


「まだ読んでないから、どっちも信じてないよ」


 藤井は本を開いた。


「確かめるって。だから、先に答え言わないで」


「私が犯人を言う必要はない。問題は方法だ」


「方法も言わないで」


 名探偵は、不満そうに口を閉じた。


     *


 本の題名は、『硝子の回廊』だった。


 榊条怜司が、郊外の古い洋館を訪れる。

 集まった一族。遺産の行方。夜の物音。


 藤井の好きな要素が、いくつもそろっていた。


 読み始めると、すぐに引き込まれた。

 玄関の真鍮の取っ手や、階段の手すりをなぞる描写が、妙に手に馴染む。

 廊下の途中には、庭を眺められる硝子張りの一角があった。


 藤井はそこで顔を上げた。


「この家、いいな」


「住んでいる連中は、ろくでもないがね」


「家の話してるんだけど」


 榊条は、ふん、と鼻を鳴らした。


「冬は、あの回廊だけ暖かい。客間は底冷えするくせに」


「行ったんだもんね」


「当然だ。私が解決した事件なのだから」


 藤井は続きを読んだ。


 深夜、書斎で当主が死んでいるのが見つかる。

 扉には内側から掛け金が下りていた。窓は閉じていたが、施錠はされていなかった。


 窓の外は、二階分の高さがある。

 庭の柔らかな地面に、はしごの跡も足跡もない。


 藤井は巻頭の見取り図へ戻った。


 中庭を囲むように、翼棟が延びている。

 書斎のある南側と、客間のある北側。その間へ、東の翼棟が大きく張り出していた。


 榊条が、一歩近づいた。


 藤井は本を胸元へ引いた。


「まだ」


「分かっている」


 分かっている人の距離ではなかった。


 佐伯が、棚からもう一冊を取った。


「私も、拝見します」


「君は見取り図からだ」


「順番に読ませてください」


 榊条は二人を見比べ、深いため息をついた。


「読者というものは、実に悠長だな」


     *


 かなりの時間が過ぎてから、藤井は最後の章へ入った。


 榊条が関係者を集め、密室の仕組みを解き明かす。


 細い糸を、書斎の掛け金へ結ぶ。

 糸を窓から出し、中庭を挟んだ客間へ渡す。

 犯人は書斎を出て扉を閉めたあと、客間から糸を引き、掛け金を落とした。


 糸は、あらかじめ仕掛けた方法で回収できるという。


 藤井は、見取り図へ戻った。


 もう一度、解決の場面へ。


 それから、また見取り図へ。


 榊条は何も言わなかった。

 ただ、杖を握る指に力が入っていた。


「……この線、どこ通るの?」


 藤井が言うと、榊条は目を閉じた。


「そこだ」


 佐伯も、見取り図を開いた。

 指先を、書斎の窓から客間の窓へ移動させる。


 途中で止まった。


「建物に、当たりますね」


 張り出した東の翼棟が、二つの窓の間に入り込んでいた。

 本文では、糸をまっすぐ張ると説明されている。


 その線を図の上に引こうとすると、客室の壁を突き抜けた。


「見取り図の描き間違いとか」


 藤井は言いながら、建物の説明を探した。


 翼棟の長さ。

 それぞれの窓の位置。

 中庭の幅。


 本文でも、同じ配置だった。


「窓から、身を乗り出せば?」


「人の腕は、そこまで伸びん」


「じゃあ、糸を角に回して」


「張った糸で、掛け金をこの方向へ引く、と私は説明している。壁の角にかければ、引く向きも変わる。しかも、その角には糸を導く仕掛けもない」


 藤井は解決の場面を読み直した。


 ほかの経路を使うのではなく、二つの窓の間へ、直接一本の糸を渡す。

 それがこの推理の前提だった。


「……通らないね」


「通らん」


 榊条が目を開いた。


「壁だ」


「うん」


「二階の、煉瓦の壁だ。幽霊でもあるまいし、糸がすり抜けるものか」


 藤井と佐伯は、顔を見合わせた。


 名探偵は気づかず、続けた。


「それを私は、さも完璧な推理であるかのように披露したのだ。胸を張って! 全員を集めて!」


 藤井は該当箇所を見た。


 確かに、胸を張っていた。


     *


「作者に、聞いてみた?」


 藤井が尋ねると、榊条は窓のほうを見た。


「このところ、書斎にいない」


「出かけてるとか」


「さあな。以前から、しばらく姿を見せないことはあった」


 苛立った声だった。


「ようやく出た新しい事件だと思えば、この始末だ」


 藤井は本の奥付を見た。

 発行日は、まだ新しかった。


「家の形を、少し変えればよかったのに」


「そのとおり」


「この翼棟が短ければ、通るんでしょ」


「あるいは、客間の位置を変える。窓を移す。それだけで済む話だ」


 榊条は、見取り図を睨んだ。


「なぜ、そうしなかった」


 佐伯は別のページを開いていた。


「家の描写が、細かいですね」


「無駄にね」


 榊条が答える。


「階段の三段目の傷など、事件には何の関わりもない」


 藤井はその場面へ戻った。


 少年のころ、木の馬を落としてつけた傷。

 当主の弟が、帰郷した夜にそこへ触れている。


「俺、ここは好きだけどな」


「好き嫌いの問題ではない。私の推理を犠牲にしてまで残す必要があるのか、という話だ」


 佐伯はすぐには答えなかった。


 藤井も見取り図を眺めた。

 ほんの少し直せば、推理は成立する。

 それなのに、家のほうがそのまま残っていた。


「ほかの本にも、出てきたことあるのかな。この家」


「この館での事件は、今回が初めてだ」


「いや、小説じゃなくて。作者のエッセイとか」


 佐伯が顔を上げた。


「随筆集なら、棚に一冊あったと思います」


 榊条が眉を寄せる。


「そんなものを読んで、壁がどくのかね」


「どかないよ」


 藤井は答えた。


「でも、何でどかさなかったのかは、分かるかもしれない」


 佐伯が棚へ向かった。

 榊条は文句を言わず、そのあとをついていった。

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