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三日月書店、本からのお客様。――利益は一切ございません。  作者: もちむぎ


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第七章 お好みは

第七章 お好みは


「三冊」


 藤井は棚の前で足を止めた。


「ですね」


 佐伯が隣で頷く。


 クラリッサの本を読み終えてから、何日かが過ぎていた。

 夜になると、まずここへ来るようになった。


 新刊台を見る前に。

 昨日の続きの本を開く前に。


 薄い文庫本が、三冊。


「減らないなあ」


「ほかの書店で、売れているかもしれませんよ」


「うん。それ、昨日も言った」


「昨日も同じことをおっしゃいましたので」


 藤井は、三冊のうちの一冊へ手を伸ばした。


 買いたいと思った。

 読み終えたあと、本屋でよく思っていたことのような気がした。

 この話は手元に置いておきたい、と。


 けれど今は、代金を払えない。

 レジへ持っていっても、売れた一冊にはならない。


 藤井は手を下ろした。


「手を取るところ、よかったよね」


「ええ。前半の手袋の場面が、効いていました」


「あと、主人公が寮の部屋を間違えた理由、後半で分かるのも好き」


「案内した子が、道を覚えるのが苦手だったんですね」


「なのに次の日も、自信満々で案内するっていう」


 二人は笑った。


 薦めたいところは、いくつもあった。

 それを伝える相手は、夜の店内にはいなかった。


     *


「あなた方、今日は読んでいないのね」


 クラリッサが来た。

 相変わらず顎を上げ、濃い紫の裾をきれいにさばいている。


「読み終わったよ」


「では、感想を伺いましょう」


「座って聞いてもらうほど、いい話はできないけど」


「座る場所がございませんもの」


 藤井の椅子に目をやった。

 藤井は、気づかなかったことにした。


「面白かった。特に、手を取るところ」


 クラリッサは扇を開いた。


「当然ですわ。あの場面のために、それまでの出来事があるのですから」


「君がさんざん意地悪してたのもね」


「あの子が引き下がれば、それで済んだことです」


「引き下がったら、話、終わるでしょ」


「……それも、そうね」


 少し不満そうに認めた。


 佐伯も感想を話した。

 衣装の描写が、場面ごとの緊張をよく伝えていたこと。

 クラリッサが黙って扇を閉じるところが、怒鳴る場面より怖かったこと。


「お分かりになるのね」


 クラリッサの機嫌が、少しよくなった。


「怒りに任せて声を荒らげるなど、品がありませんわ」


「お茶はかけるのに」


 藤井が言うと、扇の向こうから睨まれた。


 それでもクラリッサは帰らなかった。

 二人の話が終わると、棚へ目を向けた。


 三冊。


 扇が、閉じた。


「……そうですか」


「まだ、ほかで売れてるかもしれないよ」


 藤井が言った。

 佐伯に聞いた言葉が、そのまま出た。


 クラリッサは、しばらく三冊を見つめた。


「ええ」


 今夜は、それ以上は言わなかった。


     *


 翌晩も、その次の晩も、棚を見た。


 クラリッサが来ない夜にも、見た。


 一度、二冊になっていた。


「佐伯さん」


 藤井が呼ぶと、佐伯はすぐに来た。


「二冊」


「本当ですね」


 二人で、背表紙を見た。


 ほかの棚へ移ったのかもしれない。

 誰かが手に取って、別の場所へ戻したのかもしれない。


 それでも、その夜は少し気分がよかった。


 翌晩、また三冊になっていた。


「補充?」


「かもしれませんね」


「戻った?」


「かもしれません」


「分かんないなあ」


 佐伯も、困ったように笑った。


 何かを置き直せば、必ず昼に残るのか。

 料理本のときでさえ、結局は分からないままだった。

 今、無理に新刊台へ移したところで、その場所に並べる理由を昼の人へ伝えられるわけでもない。


 二人は背表紙をそろえ、またそれぞれの本へ戻った。


     *


 クラリッサは、来るたびに作者の話をした。


 昨日は、二行書いて消していた。

 今日は、昔の原稿を読み返していた。

 昨夜は、机で眠ってしまった。


「首を痛めると、何度申し上げても」


「聞こえてるか、分からないんでしょ」


「そうなのです。まったく、困った方」


 怒った口調のわりに、話は細かかった。


 藤井は一度、尋ねた。


「書かなくなったら、君たち、どうなるの?」


「さあ」


 クラリッサは首を傾げた。


「分からないの?」


「続きを書かれなくても、この本はございますでしょう。少なくとも、今はこうしてお話しできていますわ」


 藤井は棚を見た。


「そっか」


「でも」


 クラリッサが、作者名へ目を落とした。


「あの方、ご自分で書いたところを読み返して、笑うことがあるのです」


 扇の先が、表紙の端で止まった。


「最近は、それがなくて」


 藤井は、続きを尋ねなかった。


     *


 新刊が並んだのは、それからいくつかの夜が過ぎたころだった。


 藤井がいつもの棚へ向かう途中、新刊台の上に、見覚えのある作者名を見つけた。


 足が止まった。


「佐伯さん」


「はい」


「出てる」


 佐伯が近づき、同じ本を見た。


 白いドレスの少女と、銀髪の青年。

 題名の横に、二の文字。


「新刊ですね」


「やめるって言ってたのにな」


 藤井は一冊を取り、表紙を眺めた。


 佐伯が、小さく笑った。


「書きたいから、書き続けてしまうんです。作家というものは」


「知り合いにいるの?」


「続きを、何度も届けていただきましたので」


 佐伯は新刊の帯を見た。


 その夜の十時過ぎ、クラリッサは足早にやってきた。

 扇を握ったまま、新刊台へ一直線だった。


「ございまして?」


「あるよ」


 藤井が表紙を見せると、クラリッサの顔がほころんだ。


「そう。こちらにも、届いたのね」


 手を伸ばし、本の表面をそっとなぞる。

 いつものように置き方への注文をするかと思ったが、今夜は何も言わなかった。


「書いてたんだね」


「ええ。途中から、急にお忙しそうになさって。今度は、ちっともお休みにならないので」


「それも心配なんだ」


「当然でしょう」


 返事だけは、いつもどおり偉そうだった。


 佐伯が、隣の一冊を手に取った。


「ずいぶん熱心ですね」


 クラリッサは表紙に目を落としたまま、答えた。


「好みなんです」


「お話が?」


「お顔が」


 藤井は、新刊から顔を上げた。


 佐伯の手も止まった。


「……作者の?」


「ほかに、どなたのお話を?」


 クラリッサは二人を見た。

 その顔が、少しずつ赤くなった。


「笑われると、目元が下がるのです」


 聞いていないところまで、話し始めた。


「書いているときは、あんなに難しい顔をなさるのに。ご自分でおかしくなって、少しだけ笑われて。そのお顔が……」


 扇が開いた。

 口元が隠れた。


 藤井は佐伯を見た。

 佐伯もこちらを見ていた。


「見たいな、その顔」


 藤井が言うと、扇の上から鋭い視線が来た。


「お見せするものではありませんわ」


「独り占め?」


「お黙りになって」


 佐伯がこらえきれず、少し笑った。


 クラリッサは新刊へ向き直った。

 扇をゆっくり下げる。


「また、笑っていらしたので」


 表紙の作者名を見ながら、言った。


「よかったですわ」


 藤井は、もうからかわなかった。


 新刊を開く。

 まだ知らない続きが、そこにあった。


「読むよ。これも」


「ええ。感想も、お聞かせなさい」


「今から?」


「……お読みになってからで結構です」


 クラリッサは通路の端へ向かった。

 もう迷わず、猫の写真集を手に取った。


 藤井は笑いながら、最初のページをめくった。


 新刊が何冊売れるかは、まだ分からない。

 明日の夜には、また数えてしまうのだろう。


 けれど今夜は、まず続きを読みたかった。

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