第六章 売れてない
第六章 売れてない
料理本に、白い紙が挟まっていた。
四十二ページ。
材料欄の上に重なるように、細長い訂正票が一枚。
しょうゆ、大さじ三。
正しくは、大さじ一。
「一になりました」
肉じゃがが言った。
「なりましたねえ」
佐伯が頷いた。
藤井も横から紙をのぞき込んだ。
あの夜から、何日かたっていた。
業務連絡ノートには、出版社から訂正の連絡があったことと、在庫に訂正票を挟むようにという指示が書かれていた。
けれど、本の題名を並べたことについては、何も書いていない。
「結局、あれを読んだのかな」
「どうでしょう。別のお客様からお問い合わせがあったのかもしれませんし」
佐伯は料理本を閉じ、もう一冊を開いた。
こちらにも、白い紙が入っている。
肉じゃがは、二冊の間で目を細めた。
「これで、作っていただけます」
「おいしく?」
「はい」
返事が、頼もしかった。
「また、来てもいいですか」
「今度は、何か間違ってなくてもね」
藤井が言うと、肉じゃがは嬉しそうに笑った。
「では、ミートボールさんにもお伝えします」
「あ、その人には一回、会いたい」
肉じゃがは頷いて、実用書の棚の向こうへ帰っていった。
藤井は鼻を動かした。
まだ少し、ニンニクの香りが残っている。
「いいにおいだったな」
「ええ」
「俺たち、食べられるのかな」
「分かりませんね。少なくとも、こちらでは調理できませんし」
藤井は料理本を見た。
「写真から、ちょっと分けてもらうとか」
「先ほどのお客様を、ですか」
藤井は本を棚へ戻した。
「……やめとこう」
*
その夜、次に来た客は、棚の並べ方に不満があるらしかった。
「そこのあなた。この本、引っ込んでおりますわよ」
藤井が顔を上げると、濃い紫のドレスを着た女が立っていた。
長い黒髪。つり上がった目元。少し上げた顎。
こちらを見下ろす姿が、ひどく様になっている。
「俺?」
「ほかに、どなたがいらっしゃるの」
「店員なら、こっちだけど」
藤井が佐伯を指すと、女はそちらへ向き直った。
「では、あなた。もう少し前へ出してくださる?」
佐伯は示された一冊の背表紙を、棚の縁にそろえた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ええ。それなら題名が読めますわね」
女は頷いた。
礼を待つような間が空いたが、それきりだった。
「……こちらの本の方ですか」
「クラリッサと申します」
藤井は一冊抜き、表紙を見た。
白いドレスの少女を、銀髪の青年がかばっている。その後ろで、紫のドレスの女が冷たく微笑んでいた。
本人と、ほぼ同じ顔だった。
「悪役?」
「見ればお分かりでしょう」
「まあ、そうだけど」
「舞踏会から閉め出されたくらいで、あの子も大げさなのです。招待状がないのですから、帰ればよろしいのに」
「最初から、そういう話?」
「いえ。今日は、それはよろしいの」
クラリッサは扇を開きかけ、棚の前で止めた。
狭いので、閉じ直す。
「この本のことです」
「うん」
「……売れてなくて」
さっきまでと、少し違う声だった。
*
「三冊です」
クラリッサが言った。
「昨日も三冊。一昨日も三冊。今日も三冊」
「毎日、数えてるんだ」
「数えるほどもありませんわ。見れば分かります」
「三冊だからね」
藤井は棚を見た。
自分の手元に一冊。棚に二冊。
「売れて補充された可能性もありますよ」
佐伯が言うと、クラリッサの目が動いた。
「補充?」
「減った分を、在庫から出すことがありますので。三冊のままだから、一冊も売れていないとは限りません」
「では、売れたのですか」
「そこまでは、分かりません」
「……頼りないのね」
「申し訳ございません」
佐伯の返事は滑らかだった。
藤井が横から口を挟む。
「この人、昼間いないから」
「では、昼間いらっしゃる方に」
「会えないんだよね。俺たち」
クラリッサは二人を見比べた。
売り込むことも、買う人に声をかけることもできない。
佐伯がそう説明すると、閉じた扇が、ゆっくり下がった。
「……そう」
佐伯は本の裏表紙を確かめた。
「続刊を、ご心配されているんですか」
「作者が、書くのをやめるとおっしゃっていて」
藤井は顔を上げた。
「これが売れなかったら、もうやめようか、と。最近は机に向かわれても、途中で手を止めてしまわれるのです」
「見てるんだ」
「ええ」
「やめないでって、言ってみた?」
「もちろん。あれほど素晴らしいものを生み出せる方が、そんなことをおっしゃるものではありません、と」
「強めだね」
「聞こえているのかは、分かりません」
クラリッサは扇の端を指でなぞった。
「ですから、売れればと思ったのです。何も書かずに、ぼんやりしていらっしゃるより……」
そこで言葉を切り、藤井の手元を見た。
「あなた、本はお好き?」
「好きだけど」
「でしたら、まずお読みになって」
「今度は俺に強めだ」
「読まずに、売れない理由など分からないでしょう」
「それは、そう」
藤井は本を開いた。
*
クラリッサは、黙って待てなかった。
「そこは、まだ説明ですわ」
「うん」
「次の章から、私が出てまいります」
「うん」
「婚約者を見れば、あの子も遠慮するのが当然でしょうに」
藤井は顔を上げた。
「少し、黙っててもらえる?」
クラリッサが、目を見開いた。
「……この私に?」
「読んでって言ったの、そっちでしょ」
扇が、ぱちんと閉じた。
クラリッサは佐伯を見た。
「こちらでも、もう一冊読ませていただきますね」
佐伯は棚から本を取った。
助け舟は出ないらしい。
「結構ですわ。ごゆっくり」
クラリッサは顎を上げた。
藤井はページへ目を戻した。
出だしは少し、名前が覚えにくい。けれど主人公が王都へ着いたところで、ようやく話の様子が見えてきた。
その横で、衣擦れがした。
クラリッサが二歩、移動する。
止まる。
また一歩、戻る。
藤井は顔を上げずにいた。
やがて、紙をめくる音がした。
そっと見ると、クラリッサは通路の端の猫の写真集を開いていた。
ひどく真剣な顔で、一枚の写真を見つめている。
白い猫が、小さな箱からはみ出していた。
クラリッサは本を傾けた。
角度を変えて、まじまじと見た。
「……無理でしょうに」
小さな声が漏れた。
藤井は口元を押さえた。
佐伯も、本の陰に顔を隠した。
*
「今日は、ここまで」
藤井が本を閉じると、クラリッサはすぐに猫の写真集を戻した。
「いかがでした?」
「主人公が王都に慣れてくところ、面白かった。寮の部屋を間違えるところとか」
「私の登場場面は?」
「怖かった」
クラリッサの顎が、少し上がった。
「そうでしょう」
「褒められたみたいな顔してるけど」
「登場しただけで、ただごとではないと分かるでしょう?」
「それは、分かる」
佐伯が、しおりの位置を確かめて本を閉じた。
「先が気になるところまで来ました。続きも読ませていただきます」
「ええ。お読みになって」
クラリッサは頷き、棚を見た。
今は、一冊しか残っていない。
「売れてはいないよ」
藤井が言うと、鋭い目が戻ってきた。
「分かっております」
少し間があった。
「……読まれていることも、分かっておりますわ」
藤井は黙って、本を持ち直した。
クラリッサが帰ったあと、二人は本を棚へ戻した。
三冊に戻った背表紙を、佐伯がそろえる。
「これで、明日の夜も三冊だったら」
藤井が言った。
「また数えに来そうだね」
「いらっしゃるでしょうね」
藤井は三冊を見た。
もう、見れば覚えてしまう数だった。




