第五章 ダイニングメッセージ
第五章 ダイニングメッセージ
「本は、動かせるんだよね」
藤井が言うと、佐伯は四十二ページから顔を上げた。
「今、持っていらっしゃいますね」
「うん。だから、これをここに置いておいたら?」
藤井は立ち上がり、料理本を開いたままレジへ運んだ。
カウンターの端に置く。
白い皿の上で、イタリアン風肉じゃががつやつやと光っていた。
本人も隣までついてきて、自分の写真をのぞき込む。
「これで、お気づきになるでしょうか」
「……料理本が出しっぱなしだな、とは思うよね」
「棚に戻されるかもしれませんね」
佐伯の言葉に、藤井は頷いた。
開いてあるだけでは、分量を見てほしいとは伝わらない。
それ以前に、この本を開いて置いた状態が、朝まで残るのかどうかも分からなかった。
「何か、書ければ早いんだけど」
藤井はレジ脇のペン立てを見た。
黒いボールペンを一本取り、そばにあったメモ用紙へ先を当てる。
し。
書いたつもりの場所に、何もなかった。
「インク、出ない」
佐伯が別のペンを取った。
同じように試し、紙を光のほうへ傾ける。
「こちらもです」
「二本とも切れてるってこと、ある?」
「昼の方が、この状態で二本とも戻すとは思えませんが」
佐伯はメモを裏返した。
裏にも、何もなかった。
藤井はペンを戻し、カウンターの料理本に目を落とした。
文字なら、目の前にいくらでもある。
「……書かなくても、いいのか」
「はい?」
「もう書いてあるやつ、使えば」
藤井は文庫棚を振り返った。
*
「何をお探しですか」
「『し』から始まる本」
「ジャンルは?」
「何でもいい」
佐伯は少し考え、棚の一段を指した。
「そちらに『静かな庭』が」
「読めないかも」
「まだお読みになっていませんよね」
「そういう意味じゃなくて。『静』だと、頭の文字だけじゃ『し』って読んでくれるか分からないから」
「ひらがなですね」
そこまで聞くと、佐伯は別の棚へ向かった。
「児童書に、あったはずです」
戻ってきた腕には、絵本が三冊載っていた。
『しろいぼうし』『うみのいちにち』『ゆきのひのてがみ』。
「早いな」
「何と伝えたいんです?」
「しょうゆおおい」
佐伯は本を見下ろし、指で数えた。
「小さい『ょ』は、難しいですね」
「大きい『よ』で、分かってもらおう」
「では、あと四冊です」
そこからは二人で探した。
『よるのおさんぽ』。
『おおきなポケット』。
『おばけのひっこし』。
最後の一冊は、藤井が見つけた。
「あった。『いすのうえのねこ』」
「そちらで七冊ですね」
カウンターへ運び、まず並べてみる。
四十二ページを開いた料理本の上へ、少しずつずらしながら絵本を重ねた。
題名の最初の文字だけが見えるように。
上から下へ、順番に読めるように。
「『お』が隠れました」
「こっち?」
「もう少し右です」
肉じゃががカウンターの向こう側から確かめてくれた。
藤井が『おばけのひっこし』を動かすと、その上の本までずれた。
「あ、今度は『ゆ』がない」
「一度、上の三冊をどけましょう」
佐伯が本を持ち上げる。
藤井が下を直す。
普段なら、七冊の本を置くだけのことだった。
今夜は、なかなか終わらなかった。
「戻す場所、覚えておいてくださいね」
「うん」
「『いすのうえのねこ』は、シリーズの三巻ですので。別の巻の間に入れないように」
「朝、俺たちいないでしょ」
佐伯の手が止まった。
「……そうでした」
誰かが片づける。
それを期待して並べているのだった。
佐伯は少し黙ってから、料理本の向きを直した。
「では、見つけた方が読みやすいように」
レジの内側から見て、文字が正しく読める向きに。
藤井もカウンターの奥へ回り、腰をかがめた。
し。
よ。
う。
ゆ。
お。
お。
い。
そのすぐ下に、材料欄が見えている。
「……なんか、ダイイングメッセージみたいだなぁ」
「さながら、ダイニングメッセージですね」
藤井の手が止まった。
佐伯は一度笑いかけて、藤井の顔を見た。
「……食卓に、関わることですので」
「説明しなくていいよ」
「忘れてください」
佐伯は耳まで赤くして、黙って本の位置を直した。
肉じゃがは真剣に文字を読んでいた。
それが、かえってつらそうだった。
*
七冊が落ち着くと、カウンターはすっかり狭くなった。
肉じゃがは何度も、頭の文字を目でたどった。
「読めます」
「うん。俺たちにはね」
藤井は少し離れて見た。
知らずに見つけた人にも読めるのか。
七冊の本が重なっている理由を、考えてもらえるのか。
片づける前に、一度でも手を止めてくれれば。
「これで必ず伝わるとは、申し上げられませんが」
佐伯が言った。
「やってみましょう」
「ありがとうございます」
肉じゃがは、深く頭を下げた。
藤井は本の端をもう一度直しかけ、手を引っ込めた。
さっきから、動かすたびにどこかが隠れる。
「このままにしよう」
「はい」
佐伯も手を離した。
その夜、藤井は何度もレジを見た。
読んでいた恋愛小説から顔を上げては、七冊がずれていないか確かめた。
何も変わらない。
そもそも、自分たち以外に触る者はいなかった。
肉じゃがが帰ったあとも、しばらくニンニクの香りが残っていた。
*
翌晩、藤井は気がつくなりレジへ向かった。
カウンターには、何もなかった。
「……片づいてる」
佐伯もすぐにやってきた。
二人で、空いた場所を見下ろす。
料理本も、絵本もない。
紙が一枚、置いてあるわけでもなかった。
「棚は?」
「確認しましょう」
絵本は戻っていた。
『いすのうえのねこ』も、二巻と四巻の間に、きちんと収まっている。
料理本も元の場所にあった。
藤井は手に取り、四十二ページを開いた。
しょうゆ、大さじ三。
当然だった。
伝わったとしても、印刷された文字が変わるわけではない。
「……ただ戻したのかな」
藤井は本を持ったまま、佐伯を見た。
「分かりませんね」
佐伯も棚とレジを交互に見た。
少し考え、眉を寄せる。
「何かあったら……」
「何?」
「口頭だけだと、次のシフトの方に伝わらないので」
話しながら、佐伯の足がレジへ向いた。
「確認が必要なものは、引き継ぎに」
カウンターの下へ手を伸ばす。
伝票を入れる棚の隣から、一冊のノートを引き出した。
角の擦れた、青い表紙だった。
業務連絡、と黒い文字で書かれている。
「これ、使ってました」
佐伯は表紙を指でなぞった。
「遅番の方が帰ったあとでも、次の朝の方に分かるように」
藤井は隣へ寄った。
佐伯がノートを開く。
納品について。予約の取り置きについて。店頭の備品について。
何人もの字が並んでいた。
ページをめくる手が、止まった。
今日の日付があった。
その下に、料理本の題名が書かれている。
『四十二ページ、しょうゆの分量について出版社へ確認中』
藤井は、最後まで読んだ。
もう一度、頭から読んだ。
「……読めたんだ」
佐伯は答えなかった。
開いたノートに手を添えたまま、その一行を見ていた。
「佐伯さん」
「はい」
「伝わったよ」
「ええ」
佐伯の指が、紙の端をそっと押さえた。
「確認してくださってますね」
どの本を使うか迷ったことも、小さい『ょ』が見つからなかったことも、昼の人たちは知らない。
誰が置いたのかさえ、分からないはずだった。
それでも、材料欄を見てくれた。
そのまま片づけずに、確かめようとしてくれた。
藤井は料理本をカウンターに置いた。
「まだ、訂正されるかは分からないけど」
「はい」
「肉じゃがさんに、言えるね」
佐伯は頷いた。
ノートを閉じかけ、それから、もう一度開いた。
同じ一行に目を落とす。
藤井はしばらく、その隣にいた。
「ダイニングメッセージ、通じたじゃん」
「それは忘れてくださいと申し上げました」
今度は、すぐに返事があった。
藤井が笑うと、佐伯も、困ったように少し笑った。




