第四章 イタリアン風肉じゃがです
第四章 イタリアン風肉じゃがです
「顔が分からない」
藤井が言うと、佐伯は棚から目を上げた。
「どなたのですか」
「ランドルト」
今夜も三日月書店には、非常灯だけがついていた。
藤井の膝には、昨夜の続きが開かれている。
「挿絵にもいないんだよ。ここ、同じ部屋にいるのに、絵だとちょうど切れてる」
「画面に収まる人数にも限りがありますからね」
「皇太子、ちょっとずれてくれないかな」
「表紙の真ん中にいらっしゃる方ですので」
藤井はページを少し傾けてみた。
当然、絵の外は見えなかった。
昨夜、エレオノーラが帰ってから、一巻を読み終えた。
王宮の陰謀には、きちんと驚いた。騎士団長が怪我をした場面では心配もしたし、宮廷魔術師が最後に明かした秘密もよかった。
けれど、どうしても気になるのは、舞踏会の翌朝も平然と働いている側近だった。
「二巻には休暇とかないのかな」
「あったら、ぜひ教えてください」
佐伯まで気にしていた。
藤井は続きをめくろうとして、ふと顔を上げた。
「……何か、におわない?」
佐伯が動きを止めた。
「におい、ですか」
「うん」
藤井は鼻を動かした。
紙のにおいではない。
料理のにおいだった。
油を熱したような、食欲をそそる香ばしさが、実用書の棚のほうから流れてくる。
「ニンニク?」
佐伯が通路を振り返った。
その先に、人が立っていた。
エプロンを着た女だった。
髪を後ろでひとつにまとめ、袖を肘までまくっている。
服装も、顔立ちも、ごく普通だった。
普通すぎた。
藤井は本を閉じた。
「佐伯さん」
「はい」
「店員さん、残ってたんじゃない?」
「消灯から、もう一時間以上たっていますが」
「じゃあ、戻ってきたとか」
二人は女を見た。
女もこちらを見た。
「あの」
「すみません」
藤井と女の声が重なった。
「俺たち、別に、怪しい者じゃ」
言いかけて、藤井は隣を見た。
佐伯はエプロン姿だ。言い訳をしなくても、店員に見える。
怪しいのは、自分一人かもしれなかった。
「……この人の知り合いです」
「藤井さん」
「何」
「急に責任を預けないでください」
女は困った顔で二人を見比べた。
「こちらで、お話を聞いていただけるって」
藤井は口を閉じた。
昨夜と同じ言い方だった。
佐伯の背筋が伸びる。
「……失礼いたしました。いらっしゃいませ」
「切り替え、早いな」
「どのようなご相談でしょうか」
女は、ほっとしたように息をついた。
「私、イタリアン風肉じゃがです」
佐伯の笑顔が、そのまま止まった。
藤井は女を見た。
エプロンを見た。
両手には何も持っていない。
「……を、作った人?」
「いいえ。イタリアン風肉じゃがです」
もう一度、同じ声ではっきりと言われた。
*
女が案内したのは、佐伯が昨日、表紙を見せる置き方になったと褒めていた料理本だった。
表紙には、色鮮やかな料理が並んでいる。
その隅に、小さな顔写真があった。
女はそこを指した。
「お姿を、お借りしています」
藤井は写真と実物を見比べた。
同じだった。
髪の結び方も、エプロンも、袖をまくった位置も。
「この料理家の人じゃないんだ」
「この方ではありません。私は、四十二ページです」
今度は佐伯が本を開いた。
白い皿の上に、肉じゃがが盛られていた。
じゃがいもと薄切りの肉。玉ねぎ。赤いトマト。上には刻んだ緑の葉が散らされている。
料理名は、イタリアン風肉じゃが。
「こちらですか」
「はい」
女が頷いた。
佐伯は写真を見た。
それから顔を上げ、少し迷った末に言った。
「おいしそうですね」
「ありがとうございます」
接客が成立していた。
「小説じゃなくても、出てこられるんだ」
藤井は本の端に触れた。
写真の肉じゃがは、写真のままだった。
隣にいる女からは、やはりニンニクの香りがする。
「そのにおいも、そういうこと?」
「オリーブオイルで、ニンニクをゆっくり炒めますので」
「なるほど」
「お苦手でした?」
「いや、好き。いいにおいだと思って」
女は少し嬉しそうにした。
けれどすぐに、ページへ視線を落とした。
「本当は、おいしいんです」
藤井も、写真へ目を戻した。
本当は。
その言い方が、気になった。
「何か、違うの?」
「分量が」
女は材料欄を指した。
「ここ。おしょうゆが、大さじ三になっています」
「うん」
「一なんです」
佐伯が、本を持ち直した。
「大さじ一杯、ですか」
「はい。二人分で」
藤井は材料欄を読んだ。
トマトの水煮、ニンニク、オリーブオイル。それから、しょうゆ、大さじ三。
「イタリアンだけど、しょうゆも入るんだ」
「隠し味なんです、ベースはコンソメなんです」
「そっか」
言われてみれば、そうだった。
「おしょうゆも入ります。でも三杯だと、多いんです。煮詰めますから」
「三倍ですものね」
佐伯が材料欄と作り方を交互に見た。
藤井も横からのぞいた。
作り方には、材料欄の調味料を加えるように書いてある。
別のところに正しい量が載っているわけではなさそうだった。
「この本、最近出たやつですよね」
「ええ。うちに入ったのは、先週です」
「じゃあ、もう作った人もいるのかな」
女は返事をしなかった。
写真の横には、短い紹介文があった。
ご飯にもパンにも合う、家族に人気の一皿。
「……しょっぱかったら、私のせいになるでしょう」
女が言った。
「あの料理家さんのせいにもなるし。おいしそうだから作ってみようって、お肉も、お野菜も買ってくださった方が、がっかりするでしょう」
袖をまくった腕が、エプロンの前で重なった。
「作り方どおりに作ったのに、おいしくなかったって」
藤井は、もう一度、分量を見た。
昨日まで、こんな数字を気にしたことはなかった。
料理本なら、写真を眺めて、おいしそうだと思うくらいだった。
けれど今は、大さじ三の小さな文字が、やけに目に入った。
*
佐伯は本の最後を開いた。
「出版社に連絡できればいいのですが」
奥付には、住所と電話番号が載っていた。
藤井はその数字を見てから、レジの奥へ目をやった。
「電話は?」
「試したことがあります。こちらの声が届いているのかどうかも、分からなくて」
「そっか」
夜の店内に電話の音が鳴ったことはない。
自分たちがいる時間には、昼の店員もいない。
女は二人の顔を見た。
「難しいでしょうか」
佐伯は、すぐには答えなかった。
いつもの、いらっしゃいませのときの顔ではなかった。
「訂正をお伝えする方法は、まだ分かりません」
はっきり言ってから、開いていた本を戻した。
「ただ、正しい分量を、もう一度教えていただけますか」
「おしょうゆ、大さじ一です」
「二人分で、大さじ一杯」
「はい」
「ほかのところは?」
藤井が聞いた。
「ほかは、間違ってませんか」
女は顔を上げた。
「一緒に、見ていただけます?」
「俺、料理はあんまりだけど。読んで確かめるくらいなら」
藤井は本を受け取り、膝に置いた。
佐伯が隣に立ち、女が反対側からのぞき込む。
じゃがいも。玉ねぎ。肉。
一つずつ読み上げると、女は頷いた。
作り方も、順に確かめた。
「『ニンニクは、香りが立つまで弱火で』」
「はい。焦がさないように」
「『肉を加えて炒め』」
「色が変わったら、お野菜を」
女の返事が、少しずつ早くなった。
自分がどう作られるのか、よく知っている声だった。
「ここ、ふたはしないの?」
「最初はします。あとで外して、水分を飛ばすんです」
「じゃがいもが崩れそう」
「最後はあまりかき混ぜず、お鍋を揺すってください」
「ああ、なるほど」
藤井は写真を見た。
角が少し崩れたじゃがいもに、赤い煮汁が絡んでいる。
「これ、パンにつけたらうまそうだね」
「合うんです」
女は即答した。
「でも、ご飯もおいしいですよ」
「そこは譲らないんだ」
「肉じゃがですから」
佐伯が小さく笑った。
藤井も笑ってから、材料欄へ戻った。
「しょうゆは、大さじ一」
「はい」
女も今度は、少しだけ笑った。
けれど、本の文字は三のままだった。
佐伯はその数字をしばらく見つめ、顔を上げた。
「この本の中では、ほかの料理の方も、同じようにお話ができるんですか」
「できますよ」
藤井は顔を上げた。
女が、少し迷うように言葉を続けた。
「ミートボールさんに、こちらのことを聞いたんです」
藤井は佐伯を見た。
佐伯もこちらを見た。
「……ミートボール、来た?」
「いえ。お目にかかっていません」
「そもそも、誰から広まってるんだろう。この店の話」
二人が黙ると、女はおずおずと尋ねた。
「ご迷惑でしたか」
「いえ」
佐伯が答えた。
藤井も、膝の本を持ち直した。
「ただ、次に来るなら、何の本のどの料理か、先に言ってもらえると助かるかな」
「分かりました」
「あと、ニンニクって聞いて、苦手かどうか気にしなくていいから。そういう料理なんでしょ」
女は一度、目を瞬かせた。
それから、嬉しそうに頷いた。
「はい。ニンニクは、合っています」
四十二ページを囲む三人の間に、香ばしいにおいが漂っていた。
藤井は、閉じておいた恋愛小説を見た。
あちらでは、まだランドルトがお茶を飲めていない。
こちらでは、肉じゃがが分量の訂正を待っている。
今夜も、予定どおりには読めそうになかった。




