第三章 何もございません、ではなく
第三章 何もございません、ではなく
「どうして笑っていらっしゃるの」
「失礼しました」
佐伯は口元から手を離した。
遅かった。目元がまだ笑っている。
エレオノーラは頬を押さえていた両手を下ろし、背筋を伸ばした。
「お慕いする方を前にして、何を申し上げてよいか分からなくなるのは、そんなにおかしなことでしょうか」
「いや、それは分かるけど」
藤井は膝の上の本を指した。
「ランドルトからしたら、分からないんじゃないかなって」
「何がです?」
「話しかけてほしいのか、ほしくないのか」
令嬢は、きょとんとした。
藤井は回廊の場面へ目を戻した。
皇太子が去ったあと、エレオノーラは黙り込む。ランドルトが何か用はないかと聞き、彼女は何もないと答える。
そのあとには、こうあった。
「『では、失礼いたします』って帰ってるね」
「ええ。お引き止めする間もなく」
「引き止めてないからじゃない?」
エレオノーラが唇を開いた。
何も言わずに、閉じた。
佐伯が本をのぞき込む。
「こちらに残っていると、お邪魔になると思われたのかもしれませんね」
「邪魔だなんて、一度も……」
「うん。でも、話しかけられて、何もありませんって言って、下向いたままだったらさ」
藤井は、目の前の令嬢を見た。
「俺だったら、あんまり話したくないんだなって思うかも」
「そんな」
エレオノーラは、今度は本を見た。
表紙には、三人の男がいる。
その誰でもない相手と、ようやく二人になれた場面だった。
「……緊張していただけですのに」
「ここには、そう書いてあるよ」
藤井は本文を指で追った。
「何を話せばいいか分からなかったって。読んでる俺は、それで分かるけど。ランドルトには、自分の前で黙ったってことしか分からないでしょ」
言ってから、藤井は少し考えた。
本ならば、相手の考えていることまで読める。
そうでないときは、自分だって、ずいぶん見当違いなことを言っているのかもしれない。
エレオノーラは、じっとページを見つめていた。
「では、あの方は、私に嫌われているとお思いなのでしょうか」
「それは分かんない」
藤井はすぐに答えた。
「この人の気持ち、ここには書いてないし」
少なくとも、彼の考えまで勝手に決めるわけにはいかなかった。
*
そのあと、しばらくはページをめくる音が続いた。
エレオノーラは藤井の手元を見ている。
佐伯は隣の棚から続刊を一冊取り、裏表紙を確認していた。
藤井は途中で戻り、また少し進んだ。
「このお茶って、好きなの?」
何気なく聞くと、令嬢は顔を上げた。
「どちらのお茶です?」
「皇太子の執務室で出てくる。花の香りがするっていう」
「ええ。白い、小さな花を混ぜたお茶ですわ。春の終わりにしか採れないのです」
「前に飲んだことがあった?」
「一度だけ。庭園を案内していただいたあとに」
藤井は、序盤へ戻った。
庭を歩いたあと、皇太子と向かい合ってお茶を飲む場面がある。
確かに、エレオノーラは香りを褒めていた。
そのとき給仕に声をかけているのは、ランドルトだった。
「で、次に来たときも同じお茶が出たんだ」
「はい」
「ランドルトが用意させたって書いてあるね」
「殿下がお好きなのでしょう」
「でも、皇太子はこっちの、渋いやつを飲んでる」
エレオノーラが近づいた。
藤井は本を少し傾け、該当箇所を見せた。
彼女の前には花の香りのお茶。
皇太子の前には、濃く淹れた別のお茶。
「……本当ですわ」
「覚えてたんじゃないの。好きだって言ったから」
エレオノーラは、口元へ手をやった。
それから、急に姿勢を正した。
「お役目に忠実な方ですもの。お客様のお好みを覚えておくのも、大切なお仕事ですわ」
「それは、そうだろうけど」
「ええ。お仕事です」
言い切った顔は、少し赤かった。
藤井はそこで、それ以上言うのをやめた。
好みを覚えていたから両思いだ、とは、さすがに思わない。
ただ、彼女が飲むお茶を気にしてくれる相手ではあるらしい。
「お礼は言った?」
「もちろん。殿下に」
「ランドルトにも言ってあげて」
令嬢が目を伏せた。
佐伯は、そっと続刊を閉じた。
*
「ランドルト様は、どのようなお茶がお好きなんでしょうね」
佐伯が言った。
エレオノーラはすぐには答えなかった。
やがて、考えるように首を傾けた。
「殿下と同じものを召し上がっているのを、拝見したことはございます」
「好きだから?」
藤井が聞く。
「……そこまでは」
令嬢の指が、ドレスのひだをたどった。
「ゆっくり召し上がっているところは、あまり見たことがありませんの。いつも途中で呼ばれてしまわれるから」
「やっぱり忙しいんだ」
「そうなのです。夜会でもお食事を後回しになさって。冷めたお料理を立ったまま召し上がっていたこともございます」
「それは座らせたいな」
「ええ、本当に」
エレオノーラの声に、力が戻った。
「せめてお茶の一杯くらい、温かいうちに召し上がっていただきたいのですわ」
「それ、言えばいいんじゃない?」
声が止まった。
藤井は本を閉じ、指を挟んだまま膝に置いた。
「今、俺に言ったやつ」
「温かいうちに、ですか」
「うん。一緒にお茶でも飲みませんかって」
「そんな、私から?」
「誘われるの、待ってたら仕事に戻っちゃうんでしょ」
エレオノーラは反論しようとしたらしかった。
けれど口を開き、何も言わず、また手袋の指先を重ねた。
「ご迷惑ではないでしょうか」
「忙しいかどうかは、聞かないと分からないけど」
藤井は答えてから、佐伯を見た。
こういう話を、自分が進めてよいものなのか。だんだん自信がなくなってきた。
佐伯は頷いた。
「ご都合のよいときに、と添えてみてはいかがでしょう。今すぐお仕事を抜けてほしい、というお願いではありませんから」
「……ええ」
「それから、お茶のお礼も」
「はい」
エレオノーラは真剣な顔で聞いていた。
宮廷の陰謀を切り抜け、馬から落ちかけ、三人の男から好意を寄せられている令嬢が、お茶に誘う手順を、一つずつ確かめている。
藤井は表紙を見下ろした。
ここに描かれた彼女も、本物なのだろう。
けれど、これだけでは知らなかった。
「でも、ゲームでは選べないのよね」
エレオノーラがぽつりと言った。
「そう聞いておりますので」
藤井は、帯にある大団円の文字を見た。
物語の結末を、ここにいる三人で変えられるのか。
そんなことは、誰も知らない。
お茶に誘えば必ずうまくいく、とも言えなかった。
佐伯が、本へ静かに手を添えた。
「ゲームには選択肢がなくても、お話しする機会はあるんですね」
エレオノーラが顔を上げる。
「回廊で、お二人になったように」
「……ええ」
「次に聞かれたら、何もないって言わないでみたら」
藤井が言うと、令嬢は少しだけ笑った。
「簡単におっしゃるのね」
「ごめん。俺が言うわけじゃないから」
「そうですわ。ランドルト様は、何かご用でしょうかと、本当にまっすぐこちらをご覧になるのですもの」
「うん」
「そのお声が、普段、殿下にお返事をなさるときより、少しだけ柔らかくて」
「……うん」
「お待ちくださるのです。私が何か申し上げるまで、急かさずに」
藤井は佐伯を見た。
佐伯もこちらを見ていた。
二人とも黙って、令嬢の話を聞いた。
*
壁時計の針が、日付の変わる時刻に近づいていた。
エレオノーラはひとしきり話したあとで、急に恥ずかしくなったらしい。
小さく咳払いをして、背筋を伸ばした。
「長々と、お邪魔いたしました」
「いえ、とんでもございません」
佐伯がいつもの調子で答える。
「俺、結局まだ一巻も読み終わってないんだけど」
「私が、たびたびお邪魔してしまいましたから」
「半分くらい、ランドルトの話だったね」
「半分も?」
佐伯は何も言わなかった。
もう少し多かった、と藤井も言わないでおいた。
エレオノーラは表紙に目を落とした。
それから、藤井へ視線を戻す。
「また、伺ってもよろしいかしら」
「続き、聞きたいし」
藤井は答えた。
「読んどくよ。これ」
令嬢の顔がほころんだ。
「では、そのときは、私もお話しできることを」
そこまで言って、一度、唇を結ぶ。
手袋の指先を見つめてから、ゆっくり顔を上げた。
「次は、何もございませんとは申しませんわ」
佐伯が小さく頷いた。
エレオノーラは二人へ礼をし、来たときと同じ通路へ向かった。
淡い青の裾が、棚の角を曲がっていく。
藤井は少し待ってから、そちらをのぞいた。
通路には、誰もいなかった。
「……本から来て、本に帰るのかな」
「帰り道を伺いそびれましたね」
佐伯も隣からのぞき込んだ。
「あと、誰にここを聞いたのかも」
「そういえば」
分からないことが、ずいぶん残っている。
けれど藤井はひとまず椅子へ戻り、開きかけの本を持ち直した。
佐伯が隣の棚に続刊を戻す。
「気に入られましたか」
「うん。面白い」
「それは何より」
「ただ、困る」
「何がでしょう」
藤井は、まだ読んでいない後半の厚みを指で確かめた。
「これから三人がどんなに格好いいことしても、俺、後ろのランドルト探しちゃうと思う」
「新しい読み方ですねえ」
「表紙にもいないのに」
佐伯が笑った。
藤井は続きを開いた。
宮廷魔術師が、エレオノーラのために夜空へ花を咲かせていた。
美しい場面だった。
読み進めると、その見物のために皇太子の予定を調整したのが、ランドルトだと分かった。
「また仕事してる」
藤井は思わず声に出した。
早く、お茶を飲ませてやってほしかった。




