第二章 その後ろに、いらしたでしょう
第二章 その後ろに、いらしたでしょう
「まず、お名前を伺っても?」
佐伯に尋ねられ、令嬢はわずかに顎を引いた。
「エレオノーラ・リースフェルトと申します」
「佐伯です。こちらが藤井さん」
「どうも」
藤井は会釈をしながら、渡された本の表紙をもう一度見た。
金髪の皇太子。その右に騎士団長、左に宮廷魔術師。
真ん中にいるエレオノーラは、柔らかな笑顔でこちらを見ている。
実物のほうは、ずっと眉間に力が入っていた。
「それで、ランドルトって人は」
「ランドルト様は、皇太子殿下の側近を務めていらっしゃいます」
「なるほど。部下なんだ」
「殿下からの信頼も厚く、大変有能な方ですの」
「へえ」
「先日の夜会でも、殿下がご挨拶の順番をお間違えにならないよう、あらかじめお相手の特徴とお名前をまとめていらして」
「うん」
「爵位だけでなく、領地の名産品や最近お生まれになったお子様のお名前まで。そういう細やかなお気遣いのできる方なのです」
「その皇太子、大丈夫?」
佐伯が軽く咳払いをした。
「まずは本を拝見しましょうか」
藤井は裏表紙へ目を移した。
名門貴族の娘として生まれたエレオノーラが、王宮を舞台に三人の男と出会う恋愛物語らしい。
陰謀もある。舞踏会もある。逃れられない運命もある。
ランドルトはいなかった。
「あらすじにも出てこないね」
「主要な登場人物だけを載せていらっしゃるのでしょう」
口調が硬くなった。
藤井は何も言わずに本を開いた。
巻頭の人物紹介は、見開きだった。
エレオノーラ、皇太子、騎士団長、宮廷魔術師。肖像に添えて、年齢や立場、性格が書かれている。
「ここにも――」
「本文には、いらっしゃいます」
「そうだね。読もう」
これ以上、いない場所を数えるのはやめた。
*
最初の数ページで、藤井は少し姿勢を変えた。
読みやすかった。
王宮のしきたりも、長い貴族の名前も、エレオノーラが初めて王宮へ上がる流れの中で自然に頭へ入ってくる。
皇太子は意外と気さくで、彼女の緊張を冗談でほぐしていた。
騎士団長は無口だが、歩幅を合わせる仕草に優しさがある。
なるほど、これは好きになる人がいるだろう。
しばらくして、藤井は顔を上げた。
「ここなんだけど」
「どちらです?」
エレオノーラがすぐに身を乗り出した。
「皇太子に庭を案内してもらうところ。殿下と目が合って、頬が熱くなって、慌てて目を伏せる」
「ええ」
「これ、普通に読んだら皇太子が好きだと思うよ」
「その後ろに、ランドルト様がいらしたでしょう?」
藤井は一つ前のページに戻った。
いた。
皇太子の後方に控える側近として、一行だけ登場していた。
「……この人?」
「その方です」
「でも、目が合ったのは皇太子だよね」
「殿下が急にこちらをお向きになるからです」
「急に、って。会話してるからね」
「分かっております。ですから、失礼のないようにお返事もしておりますわ」
藤井は該当箇所を読み直した。
確かにエレオノーラは、皇太子の質問にきちんと答えていた。
答えてはいたが、その少し前に、視線が彼の肩越しへ向かっている。
藤井はそこを、恥ずかしくて目を合わせられない描写だと思っていた。
「肩の向こうを見てるの、そういうこと?」
「ランドルト様は、いつも少し後ろをお歩きになりますから」
エレオノーラは、ようやく話が通じたという顔をした。
「このときは、花壇の枝が殿下のお袖に引っかからないよう、そっと押さえていらしたの。それなのに殿下はお気づきにもならず、そのまま通り過ぎてしまわれて」
「仕事が細かいね」
「そうでしょう?」
ぱっと顔が明るくなった。
藤井は、初めて表紙に似た顔を見た。
「あの、ひとつ確認してもよろしいですか」
佐伯が本の帯を見ながら言った。
「こちらは原作ゲームの、逆ハーレムルートを小説にした作品ですよね」
エレオノーラの笑顔が引っ込んだ。
「それが問題なのです」
「逆ハーレムって、三人ともと付き合うってこと?」
藤井が聞くと、令嬢は胸元に手を当てた。
「私は、そのようなお約束をした覚えはございません」
「いや、俺に言われても」
「どなたにもよいお顔をして、気を持たせるような振る舞いをするなど。そんな、淑女として……」
そこまで言って、エレオノーラは口をつぐんだ。
藤井の開いたページを、じっと見ている。
「何?」
「……しているように、読めるのですね」
藤井は本へ目を戻した。
まだ、途中だ。
けれど皇太子との庭園の場面だけなら、好意が芽生えたようには見える。
「少なくとも、この辺は」
「そうですか」
ドレスの裾を整える指が、少しだけ遅くなった。
佐伯が帯を藤井に見せた。
「『最難関の大団円ルートを、待望の小説化』とありますね」
「最難関?」
「ゲームでは、三人全員との関係を深めながら条件を満たさないと、たどり着けない結末なのかもしれません。誰か一人だけを選ぶより、調整が難しいんでしょう」
「みんなに好かれるの、忙しそうだな」
「小説でその道筋が読めれば、攻略の参考にもなりますし。ゲームでは見られなかった心情を楽しみにしている方も、いらっしゃると思います」
「そんな……」
エレオノーラが、心底困った声を出した。
「私がどなたとお茶を飲んだか、何とお答えしたかが、攻略のお役に立ちますの?」
「そういう読み方も、あるかと」
「では、私がお断りしたら?」
「別の結末へ進むのかもしれませんね。ただ、私はこのゲームを遊んでいませんので、詳しい条件までは」
佐伯はそう断ってから、本を見た。
「出版する側としては、なぜこの結末を選んだのか、分かる気はします」
エレオノーラはしばらく黙っていた。
藤井も、すぐにはページをめくらなかった。
「……でも、ランドルト様とお茶を飲む方法は、載っておりませんのね」
藤井は帯から目を離した。
令嬢は冗談を言った顔ではなかった。
「ゲームでも、選べない人なの?」
「そう聞いております」
「そっか」
表紙にいない理由が、少し分かった。
同時に、彼女がここへ来た理由も。
*
藤井が再び読み始めると、エレオノーラは口を挟まなくなった。
ときどき、こちらを見ている。
ページがめくられるたびに、何か言いたそうに唇が動く。それでも我慢しているらしかった。
藤井は、次の章まで読んだところで指を止めた。
「あ、騎士団長に助けられるんだ」
「馬が驚いてしまって」
「ここは、さすがにランドルトはいないよね」
「ええ。別のお仕事がございましたから」
「抱き留めてもらって、心臓が激しく鳴ってるけど」
「馬から落ちかけましたのよ?」
「……それは鳴るね」
佐伯が横で頷いた。
「危ないですからね」
「でも、そのあと、なかなか離れられなかったって」
「腰が抜けておりました」
藤井は、本を少し遠ざけた。
そう言われて読むと、まるで違う場面だった。
寡黙な騎士団長の腕の中で震える令嬢。恋の始まりだと思っていたものが、落馬寸前の事故処理になってしまった。
「この、熱っぽいため息は」
「安堵です」
「こっちは」
「疲労です」
「ちょっと待って。全部聞くと、読めなくなる」
エレオノーラは口を閉じた。
「いえ、つまらないわけじゃなくて」
藤井は慌てて付け足した。
「普通に面白いんだよ。この騎士団長、いい人だし」
「ええ。大変ご立派な方ですわ」
「好きじゃないだけで」
「はい」
そこだけは、返事が早かった。
藤井はまた、本文へ視線を戻した。
皇太子の冗談に笑うエレオノーラ。
騎士団長に礼を述べるエレオノーラ。
どの場面も、書いてある出来事自体は彼女の話と違わない。
ただ、なぜ笑ったのか。どうして顔を赤くしたのか。
そこを、読んでいる自分が勝手につないでいた。
もっとも、それだけでは済まない箇所もある。
「ねえ。ここ、一人で部屋に戻ってから皇太子の言葉を思い返してるよ」
エレオノーラが本に顔を寄せた。
「……ええ」
「『今夜は君と過ごせてよかった』って。何度も心の中で繰り返してる。これは?」
令嬢の眉が、また寄った。
「そういう夜も、あるのです」
「どういう夜?」
「私が思っていることと、書かれることが、うまく重ならない夜です」
藤井は顔を上げた。
「あの庭でランドルト様を見ていたことは、覚えております。助けてくださった騎士団長様に感謝したことも。でも、こちらは……」
細い指先が、ページに触れる直前で止まった。
「そう書かれているので、私も、そうだったような気がしてくるのです。それでも翌朝ランドルト様にお会いすると、やっぱり、あの方が好きだと思うのですわ」
藤井はすぐに、次の質問ができなかった。
さっきまで、答え合わせをしている気分だった。
本文を見て、本人に聞けば、何が本当か分かると思っていた。
けれどエレオノーラ自身にも、はっきり分からないところがあるらしい。
「作者には、言えないの?」
「申し上げております」
「言えるんだ」
「書いていらっしゃるときに、そばで。私の気持ちを分かってくださいませ、と」
「返事は?」
「昨夜は、お菓子を召し上がっておいででした」
「聞こえてるかどうか、分からないね」
「二つも」
「数はいいよ」
エレオノーラは不満そうだった。
藤井は少し笑ってから、本の同じ箇所を読み直した。
「この先も読んでみる。今の話、聞いてから読みたい」
「……お付き合いくださるの?」
「気になるからね」
それは、嘘ではなかった。
皇太子と騎士団長と宮廷魔術師の恋の行方も、もちろん気になる。
けれど、今はそれ以上に、人物紹介にすら載っていない側近が気になっていた。
最初は名前を見つけるだけだった。
次に、彼が何をしているかを探すようになった。
皇太子が席を立つ前に、扉のそばへ控えている。
夜会の最中、届けられた書状を受け取っている。
たった二行の出番で、何かを片づけては退場していく。
「ランドルト、働いてばっかりだな」
「お忙しい方なのです」
エレオノーラは嬉しそうに言った。
「この人、休めてる?」
「私も、それが心配で」
「一回、座らせてあげたいね」
「そうでしょう?」
また、顔が明るくなる。
佐伯がその様子を見て、そっと笑った。
「少なくとも今、藤井さんには伝わっていますね」
エレオノーラが佐伯を見た。
「どなたをお好きなのか」
令嬢は一瞬、何かを言いかけた。
けれど声にはせず、手袋の指先を重ね直した。
今度は、握り込まなかった。
「……ええ」
藤井はページをめくった。
そして、止まった。
「あれ」
「どうなさいました?」
「ランドルトと二人になるところ、あるじゃん」
令嬢の肩が、ぴくりと動いた。
「回廊で。皇太子が呼ばれて、先に行って。ここ、結構しゃべってるよね」
「ええ」
さっきまで、あれほどよくしゃべっていたのに。
返事が、急に小さくなった。
藤井は数行読み進めた。
「『何か、私にできることはございますか』って、ランドルトから聞いてる」
「はい」
「いい機会だったんじゃないの。お茶に誘うとか、休んだほうがいいって言うとか」
エレオノーラは視線を落とした。
藤井は次の台詞を見た。
「『いいえ、何もございません』」
顔を上げる。
令嬢は、黙っている。
「……何も?」
「そのときは」
「俺たちには、こんなに話すのに?」
エレオノーラは両手で頬を押さえた。
「ご本人を前にして、同じように話せるわけがございませんでしょう!」
佐伯が、静かに口元を押さえた。
藤井は本を膝に置いた。
聞くことが、また増えた。




