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三日月書店、本からのお客様。――利益は一切ございません。  作者: もちむぎ


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第一章 二十一時の常連

第一章 二十一時の常連


 三日月書店の壁時計が、午後九時を指した。


 秒針が一つ、進む。


 入口の自動ドアは動かない。

 店の前を走る車の光が、ガラス越しに床をなぞり、そのまま遠ざかっていった。


 閉店時刻は八時四十五分。

 ただし、店を閉めたらすぐに夜が始まるわけではない。


 レジが締められ、最後の一人が帰り、照明が落ちる。そこから十五分。

 誰にも読まれない本たちが、棚の中で黙って待つ時間がある。


 今夜は、ちょうど九時だった。


「……あれ」


 文芸書の棚の前に立っていた藤井航平は、目の前の平台を見下ろした。


「あ、もちむぎの新刊出てるじゃん」


 さっそく一冊、手に取る。

 表紙を眺め、裏返し、あらすじを読んで、また表に戻す。それから帯の文句に目を走らせた。


「へえ。今度はこういう話か」


「入荷初日に発見していただけると、仕入れた側としても嬉しいですねえ」


 背後から声がした。


 振り返ると、佐伯修司がレジカウンターの中にいた。

 白いシャツに、紺色のエプロン。胸には三日月のマークと、少し斜めになった名札。

 こちらは今夜も、いつもの姿だった。


「佐伯さんが仕入れたわけじゃないでしょ」


「気持ちの話です」


「気持ちで発注するの、やめたほうがいいと思う」


「発注できませんので、ご安心ください」


 佐伯はそう言ってカウンターを出ると、藤井の隣に並んだ。

 新刊の積まれた台を、右端から順に眺めていく。


「三冊ですね」


「何が?」


「昨日ここに五冊あった本が、三冊になっています」


「二冊売れたんだ」


「移動した可能性もありますが、売れたと思いたいですね」


 佐伯は少し屈み、隣の本の陰になっていた手書きのポップを見た。


「これ、いいんですよ。結末に触れずに薦めていて。つい手に取りたくなる」


「『最後の三ページで、あなたはきっと泣く』」


「隣のです」


「俺、こういうの見ると最後の三ページを先に確かめたくなるんだけど」


「どうか最初からお読みください」


 独立した建物を丸ごと使った三日月書店は、ひと回りするだけでも、それなりに時間がかかる。

 入口近くには雑誌と新刊。奥へ進めば文庫や専門書の棚があり、児童書の一角では、低い本棚の上に動物のぬいぐるみが並んでいた。


 非常灯の緑が、通路の端に落ちている。

 明るい昼間なら見通せるはずの棚の隙間も、今は奥が暗い。


 それでも藤井には、背表紙の文字が読めた。


 最初は変だと思った気もする。

 今はもう、そのおかげで本が読めるのだから、ありがたく利用していた。


「藤井さん、そちらは?」


「読む」


「でしょうね」


 藤井は新刊を持って、文庫棚の端へ向かった。

 そこには、踏み台を兼ねた丸い椅子がある。すでに自分の席のように思っているが、佐伯の前では言わない。たぶん、違いますと言われる。


 腰を下ろして本を開く。


 三行で、店内の静けさが遠のいた。

 一ページで、目の前に知らない町が現れた。

 二ページ目に入ったところで、藤井の鼻先が紙に触れた。


「埋没読みはおやめくださーい」


 町が消えた。


 藤井は顔を上げた。

 通路の向こうから、佐伯がこちらを見ている。


「普通に読んでるんですけど」


「本に顔が埋まっていました」


「近いほうが集中できるから」


「その距離ですと、行の端から端まで読むのに首が動きますよね」


「動くよ」


「ご不便では?」


「慣れた」


 佐伯は何か言いたそうにしたが、結局、文庫棚へ目を戻した。


「それと、読み終わった本は元の場所へお願いします」


「分かってるって」


「昨日、時代小説の棚に宇宙船がいました」


「……あれ、俺かな」


「お心当たりが?」


「侍も出てくるから、つい」


「宇宙に行く侍は、今回はそちらでお願いします」


 藤井は本の向こうで笑った。


 この店に夜ごと通うようになって、何日になるだろう。


 通う、という言い方が正しいのかも分からない。

 道を歩いてきた覚えはないし、自動ドアをくぐった記憶もない。

 気がつくと、ここにいる。


 昼間のことを考えようとすると、思考がぼんやりとしたところで止まってしまう。

 家の場所も、昨日何を食べたかも、すぐには出てこない。


 なのに、途中まで読んだ小説の続きは覚えていた。


 佐伯も似たようなものらしい。

 以前、この店で働いていたという。棚の位置には詳しいし、出版社の名前もすらすら出てくる。客への声のかけ方は、むしろ抜けなくて困っているようだった。


 ただ、最後に出勤した日のことは、よく分からないと言っていた。


 一度だけ、二人で自動ドアの前に立ってみたことがある。

 ドアは開かなかった。


『やっぱり俺たち、幽霊なのかな』


 藤井が言うと、佐伯はガラスに顔を近づけたまま、


『センサーの故障だけでは、説明がつかないこともありますしねえ』


 と答えた。


 もっと驚くべきだったのかもしれない。

 けれど、そのとき藤井が気にしていたのは、読みかけのミステリーの犯人だった。

 佐伯も、翌日発売の雑誌を置く場所について、何か言っていた。


 それきり、話は進んでいない。


「佐伯さん」


「はい」


「そこ、昨日と何か変わった?」


 佐伯は実用書の棚の前で、腕を組んでいた。


「料理本が一冊、表紙を見せる置き方になりました」


「へえ」


「昨日までは背表紙だけだったんですよ。いい判断です。写真がきれいですから」


「昼の店員さん、褒められてるって知らないだろうな」


「伝える手段があればいいんですけどね」


「朝、棚に『いい判断です』って紙が置いてあったら、怖いと思うよ」


「上から目線過ぎますか?」


「そこじゃなくて」


 佐伯は小さく笑って、また棚に向き直った。


 藤井も本へ目を落とした。

 続きが気になっていた。


     *


 次に顔を上げたとき、壁時計は十時を少し過ぎていた。


 藤井は指を挟んで本を閉じ、首を回した。


「……面白い」


「何よりです」


「まだ途中だけど、これ、かなり好きかもしれない」


「では、読み終えたあとのご感想もぜひ」


「長くなるよ」


「知っています」


 即答だった。


 藤井が言い返そうとした、そのとき。


 かすかな音がした。


 衣擦れだった。


 この店で、まず聞くことのない音だ。

 硬く張りのある布が、何枚も重なって動くような。


 藤井は通路へ目を向けた。


 文庫棚と文庫棚の間から、女が一人、出てきた。


 淡い青のドレスを着ていた。

 膨らんだ袖。細い腰。床に届く長い裾。

 結い上げた髪には、小さな真珠らしき飾りが光っている。


 芝居の衣装、という言葉が浮かんだ。

 ただ、芝居にしては、本人がひどく真剣な顔をしていた。


「こちらで、お話を聞いていただけると伺ったのですけれど」


 藤井は佐伯を見た。

 佐伯も藤井を見た。


「……佐伯さんの知り合い?」


「初めてお目にかかります」


「だよね」


 女は二人を見比べ、わずかに眉を寄せた。


「お時間が悪かったかしら」


「いえ。いらっしゃいませ」


 佐伯の背筋が、すっと伸びた。

 藤井は感心した。分からなくても、まず接客が始まるらしい。


「どのような本をお探しでしょうか」


「本を探しに来たのではございません」


「と、申しますと?」


 女は両手を胸の前で重ねた。

 手袋の指先が、ぎゅっと握り込まれる。


「私の恋についてです」


 藤井は静かに本を開いた。


「藤井さん」


「俺、そういうの詳しくないから」


「まだ何も伺っていません」


「恋愛相談だったら、俺より適任がいるって」


 女の視線が藤井に止まった。

 それから、その膝の上へ下りた。


「あなた、本をお読みになるのね」


「まあ、本屋なんで」


「でしたら、ぜひ伺いたいわ。読んだ方に、どう見えるのか」


 その言い方に、藤井は顔を上げた。


「何が?」


「私が、誰をお慕いしているかです」


 女はすぐそばの棚に手を伸ばした。

 一冊の文庫本を抜き取り、両手で差し出す。


 表紙には、華やかな衣装の男たちが描かれていた。

 その真ん中で、一人の令嬢が微笑んでいる。


 藤井は表紙を見た。

 女を見た。

 もう一度、表紙を見た。


「……本人?」


「ええ」


 佐伯が横から表紙をのぞき込んだ。


「ああ、こちら。乙女ゲームのノベライズですね」


「ご存じなの?」


「何巻か出ていますので」


「でしたら、なおさらお話が早いわ」


 令嬢はほっと息をついた。

 けれど、次に口を開いたときには、その顔に切実な怒りが戻っていた。


「私は、ランドルト様だけをお慕いしておりますの」


 藤井は表紙を確かめた。

 中央の、いかにも身分の高そうな男を指す。


「この人?」


「そちらは皇太子殿下です」


「じゃあ、こっち」


「騎士団長様です」


「……この、眼鏡の」


「宮廷魔術師様です」


 藤井は表紙の隅まで見た。


「どこにいるの?」


「表紙には、おりません」


 沈黙が落ちた。


 令嬢は、唇を引き結んでいる。

 なるほど、それは腹も立つかもしれない。藤井はひとまず、膝の上の新刊を閉じた。


 佐伯が、さりげなく隣に立つ。


「まずは詳しく、伺いましょうか」


「佐伯さんが?」


「藤井さんにも、ご意見をいただければ」


「俺、客だし」


「接客中でーす」


 佐伯は令嬢に向けて、にこやかに笑った。


 三日月書店は、とっくに閉店している。


 それなのに藤井の手元には今、読む予定のなかった本が、もう一冊増えていた。

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