第十五章 お会計のあとで
第十五章 お会計のあとで
「片方、思い出した」
藤井は、一冊の文庫本を持っていた。
佐伯が顔を上げる。
「買おうとなさっていた本ですか」
「うん。これ」
差し出された表紙を見て、佐伯は手を止めた。
青い空の下に、小さな家が描かれている。
特別珍しい本ではなかった。
しばらく前に刊行され、今も棚にある一冊だった。
「これに、カバーを?」
「たぶん。あらすじ、覚えてたんだよ。旅に出た男が、知らない家の留守番を頼まれる話」
「お読みになったんですか」
「それが、読んだ覚えはない」
藤井は最初の数ページを開いた。
「試し読みしたところは覚えてる。でも、この先は知らない」
佐伯は表紙を見た。
この色を、茶色い紙で隠した。
そう思った。
「……こちらですね」
「佐伯さんも?」
「ええ」
藤井は、少し嬉しそうに本を持ち直した。
「見つかるもんだね」
*
レジへ本を持っていった。
佐伯はカウンターの中へ入り、文庫本を受け取った。
昨夜は、ここでカバーの話をした。
今夜は、題名が分かる。
佐伯の指が、本の上下を確かめた。
紙を置いていた場所へ、自然に手が伸びる。
「もう一冊は、大きい本だった」
藤井が言った。
「はい」
「そっちは、あとで読むつもりだったんだ。まず、こっちを電車で読もうって」
佐伯は頷いた。
記憶の中で、紙の端を折った。
表紙を差し込み、角をそろえた。
藤井は財布を出していた。
会計は、済んでいた。
「お代は、いただいています」
佐伯が言うと、藤井が顔を上げた。
「払った?」
「ええ。今、思い出しました」
「よかった。未払いのまま、毎晩ここにいるのかと思った」
佐伯は少し笑った。
「さすがに、そこまで取り立てません」
本を袋へ入れようとしていた。
その途中で、入口を見た。
誰かが、大きな声を出した。
佐伯の手が止まった。
*
「……金を出せ、って」
口にした声が、自分のものではないように聞こえた。
藤井の笑顔が消えた。
佐伯は入口を見た。
今は、閉じている。
あの夜は、開いた。
入ってきた男が、刃物を持っていた。
買い物に来た人ではなかった。
「ひとりでした」
佐伯は、思い出したことだけを言った。
「この前の、三人組とは違って」
藤井は黙って聞いていた。
片手が、自分の腹の辺りへ動いた。
「俺、振り返った」
小さな声だった。
「声がして。何だろうと思って」
佐伯は藤井を見た。
レジの前にいた客。
出口とカウンターの間に、立っていた。
「腕、つかまれて」
藤井が、もう片方の腕に触れた。
「昨日、佐伯さんにつかまれたとこじゃなくて。反対の」
佐伯は頷いた。
男が、藤井を引き寄せた。
財布を持った手が、中途半端に宙へ浮いた。
袋に入れる前の二冊は、カウンターに残っていた。
*
藤井は、レジの横を見た。
「俺、抵抗したんだっけ」
「分かりません」
佐伯は首を振った。
「急に、いろいろ起きて。私も、何が先だったのか」
藤井は頷いた。
痛みを、うっすら覚えていた。
立っているのが難しくなったことも。
男の声が、頭のすぐ上でしていた。
早くしろ。
金を出せ。
佐伯が、カウンターの中から何か答えていた。
はい、と言ったのか。待ってくださいと言ったのか。
そこは、よく分からない。
「……俺、座ってたんだ」
藤井が言った。
「あそこ。床に」
佐伯は、その場所へ目を向けた。
藤井が、手で腹を押さえていた。
足を伸ばし、棚へ肩をつけていた。
早く、離してもらわなければならなかった。
早く、誰かを呼ばなければならなかった。
「お金を渡そうと、しました」
佐伯はレジへ目を戻した。
「それで、出ていってくれればと」
「うん」
「でも、藤井さんが」
言葉が止まった。
あの夜の藤井は、今のように頷いてはくれなかった。
声をかけても、顔を上げるのが遅くなっていた。
佐伯は、カウンターから出た。
今夜も、同じように足が動いた。
*
「佐伯さんが、来た」
藤井が言った。
佐伯は足を止めた。
「俺の前に」
記憶の中で、紺色のエプロンが揺れた。
目の前にあった男の腕が、少し遠くなった。
何かが落ちた。
大きな音がした。
「……飛びかかったんです」
佐伯は、自分の手を見た。
相手の腕へ、手を伸ばした。
刃物を持つほうだった。
思い出したところで、指を閉じた。
「それで?」
藤井の声に、佐伯は顔を上げた。
床が、近くなった。
あの夜の記憶は、そこへ続いていた。
倒れたあと、藤井のほうを見ようとした。
さっきまで座っていた場所が、うまく見えなかった。
「……私も、倒れました」
藤井は、何も言わなかった。
佐伯は胸元へ手をやった。
今のシャツは、きれいなままだった。
あのとき、どうなったのか。
考えようとして、途中でやめた。
目の前の藤井を見た。
「そのあとを、覚えてますか」
藤井は、ゆっくり首を振った。
*
しばらく、二人とも黙っていた。
レジの前で、文庫本が開いたままになっていた。
藤井が、そっと閉じた。
「……あの三人が来たとき」
「はい」
「すぐ、俺の腕、引いたよね」
佐伯は頷いた。
「今度は、先に」
藤井が言いかけた。
それから言い直す。
「いや。あのときも、助けようとしてくれたんだね」
「……お客様でしたから」
「ほかのお客さんにも、あんなことするの?」
佐伯は少し考えた。
「分かりません」
正直に答えた。
「あのときは、早く、あそこから離さなければと思ったので」
藤井は、レジの横を見た。
「ここにいる理由って、それなのかな」
佐伯も、同じ場所を見た。
「……かもしれません」
それ以上は、まだ言えなかった。
あの夜、二人は襲われた。
佐伯は藤井を助けようとして、倒れた。
その先は、どちらも覚えていなかった。
*
「本、置きっぱなしだったんだね」
藤井が言った。
カウンターにある一冊を、持ち上げる。
「会計、済んでたのに」
「お渡しする前に、あの人が来たんでしょうね」
「佐伯さん、そこまで俺に悪いと思わないでよ」
藤井が言った。
「まだ何も申し上げていませんが」
「今、ちょっとそういう顔してた」
佐伯は口を閉じた。
していたかもしれない。
藤井は本を持ち、椅子へ戻った。
「俺、これ読む」
「今夜ですか」
「うん。先が気になって買ったんだから」
腰を下ろし、最初のページを開く。
少し目を動かしてから、また顔を上げた。
「佐伯さんも、何か読めば」
「……そうですね」
佐伯は棚へ向かった。
選ぶのに、いつもより時間がかかった。
やがて一冊を取り、カウンターへ戻る。
しばらくすると、藤井がページをめくった。
佐伯も、本を開いた。




