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三日月書店、本からのお客様。――利益は一切ございません。  作者: もちむぎ


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第十四章 カバーは一冊だけ

第十四章 カバーは一冊だけ


「藤井さん。この店へ初めて来たとき、覚えてますか」


 佐伯が尋ねると、藤井は本から顔を上げた。


「最初?」


「ええ」


「……どの最初?」


 質問を返されて、佐伯も少し考えた。


 今夜は、まだ客が来ていなかった。

 壁時計は九時半を少し過ぎたところ。

 藤井はいつもの椅子に座り、佐伯はその隣の棚を眺めていた。


「夜、こうして来るようになる前です」


「普通に、買いに来たときってこと?」


「はい」


 藤井は本へ指を挟んだ。


「来てたとは思うんだけど」


「思う?」


「この棚の感じ、前から知ってるし。入口のところに雑誌があるのも、奥に児童書があるのも」


 顔を上げ、店内を見回す。


「でも、初めてって言われると、分かんないな」


「そうですか」


「佐伯さんは? 初出勤」


 今度は、佐伯が黙った。


 レジの使い方は覚えている。

 売り場を案内できる。

 業務連絡ノートがどこにあるのかも、思い出した。


 けれど、初めてエプロンをつけた日のことは、出てこなかった。


「……思い出せませんね」


「だよね」


 藤井は頷いた。

 安心したような、困ったような顔だった。


     *


「急に、どうしたの?」


「昨日、藤井さんの腕をつかんだでしょう」


「ああ。強盗のとき」


 藤井は自分の腕を見た。


「痛くなかったよ」


「それは、よかったんですが」


 佐伯も自分の手を見た。


「あのとき、前にもこうしたことがあったような気がして」


「俺の腕を?」


「そこまでは、はっきりしません」


「俺、危ない目に遭ってばっかり?」


「そういう話では」


「今夜は、平和であってほしいね」


 藤井は入口を見た。


「昨日は本からだったけど、本屋に強盗って来るのかな」


 佐伯の手が止まった。


「……来ますよ」


 言ってから、自分でも顔を上げた。


 藤井がこちらを見ていた。


「そうなんだ」


「いえ。一般的に、来ないとは言えないというか」


 佐伯は言い直した。

 けれど、最初の返事のほうが、妙にはっきり口から出ていた。


「レジに、お金あるもんね」


「ええ」


 佐伯はカウンターへ目をやった。


 黒いレジ。

 袋を入れた棚。

 ペン立てと、取り置きの本を置く場所。


 いつもなら、何も考えず中へ入れる。

 今は、そこまでの床が気になった。


     *


 二人でレジまで行った。


「ここ、前は平台が違った気がする」


 藤井が、入口に近い台を見て言った。


「今は、実用書が多いけど」


「そうですね」


「もっと、小説があったような」


 佐伯は台の端へ手を置いた。


 以前、ここへ新刊を並べた。

 そういう覚えはある。


 藤井が一冊、持ち上げた。


「俺、この辺で何か見てた気がするんだよな」


「本を?」


「うん。本屋だからね」


「そうでした」


 二人で少し笑った。


 藤井は本を戻し、片手に何かを持つような形を作った。


「二冊」


「はい?」


「買おうと思って、二冊持ってたような」


 自分の手を見ながら、首を傾げる。


「これとこれ、どっち先に読むか考えてて」


「題名は?」


「出てこない」


 少し悔しそうな声だった。


「でも、二冊買うつもりだったのは、覚えてる。文庫と、もう一冊」


 佐伯はカウンターの内側へ入った。


 藤井が、その前に立つ。


 それだけで、妙に収まりがよかった。


「ブックカバーは、おかけしますか」


 佐伯の口から、言葉が出た。


「小さいほうだけ、お願いします」


 藤井が答えた。


 二人とも、黙った。


     *


「……今」


 藤井が言った。


「何も考えずに、答えた」


「私もです」


 佐伯はカバーを置く場所を見た。

 手が、そちらへ伸びかけていた。


「いつも、文庫にだけかけてたのかも」


 藤井は言いながら、また首を傾げた。


「大きい本は、家で読むから。小さいほうは、持ち歩くし」


 佐伯は頷いた。


 その説明を、聞いたことがある。


「……電車で」


「え?」


「通勤の電車で読むと、おっしゃっていました」


 藤井が、ゆっくり顔を上げた。


「俺が?」


「たぶん」


「それ、佐伯さんに言ったのかな」


 佐伯はカウンターへ手を置いた。


 照明が、ついていた。

 今ではない。

 覚えているほうの店内は、明るかった。


 本が二冊、置かれている。

 片方にだけ、カバーをかける。


 目の前の客が、続きが気になってしまうから、と笑っていた。


「帰りの電車だけじゃ、読み終わらないから」


 藤井が言った。


 佐伯は顔を上げた。


「そう、答えた気がする」


 藤井の指が、カウンターの端を押さえていた。


「この店で買って、帰りに読んで。次の朝も、その続きを読むから、カバーはいるって」


 言いながら、少し笑った。


「俺、店員さんに何しゃべってんだろ」


「伺ってしまったんでしょうね。面白そうに見ていらしたので」


「佐伯さんが?」


「……ええ」


 客と、書店員。


 夜ごとここで顔を合わせるようになる前にも、二人はそうして話していたらしい。


     *


「知り合いだったんだね」


 藤井が言った。


「お客様でしたね」


「今も、客だけど」


「存じております」


 佐伯が答えると、藤井は笑った。


 少し、いつもの空気に戻った。


 けれど、藤井はまだカウンターから離れなかった。


「その本、買えたんだっけ」


 佐伯は顔を上げた。


「カバー、かけてもらったのは分かる」


 藤井は袋を受け取るように、手を前へ出した。


「でも、持って帰ったとこが、出てこない」


 佐伯も、レジへ目を落とした。


 袋へ入れたのか。

 代金を受け取ったのか。

 ありがとうございましたと、言ったのか。


 思い出そうとすると、別の音がした。


 何かが倒れる音。


 佐伯は入口を見た。


 自動ドアは閉じていた。

 外を、車の光が通り過ぎた。


「……どうしたの?」


 藤井が尋ねた。


「入口で、誰かが」


 佐伯は言いかけ、口を閉じた。


 誰かが入ってきた。

 そこまでは、思い出した。


 その人に、何を言われたのか。


 カウンターの中にいた自分が、なぜ外へ出たのか。


「佐伯さん」


 藤井の声で、視線が戻った。


 藤井が、カウンターの横を見ていた。


「俺、あっちにいた気がする」


 レジから少し離れた、通路の端。


 そこへ目を向けると、佐伯の手が、エプロンの端をつかんだ。


 同じ場所に、藤井がいた。

 今のように、立ってはいなかった。


 佐伯は一度、息を整えた。


「今日は、ここまでにしませんか」


 藤井がこちらを見た。


「具合、悪い?」


「いえ。ただ、急にいろいろ、思い出そうとしたので」


「……うん」


 藤井は頷いた。


 佐伯は、カウンターから出た。

 藤井のすぐ横を通り、いつもの通路へ戻る。


「お客様だったなら、俺、そのときも長話してた?」


「本のお話は、されていたようですね」


「ごめんね。仕事中に」


「こちらから伺ったんです。たぶん」


「なら、仕方ないね」


 藤井は椅子へ向かった。

 座る前に、レジを振り返る。


「今度、題名、思い出したいな」


「二冊の?」


「うん。買ったつもりで、読み忘れてたら嫌だし」


 佐伯は少し笑った。


「思い出したら、探しましょう」


「ここにあるといいね」


 藤井は本を開いた。


 佐伯は、近くの棚から一冊取った。

 ページを開く前に、さっき藤井が指した場所を、一度だけ見た。


 今夜は誰もいなかった。

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