第十三章 淑女に触れるべからず
第十三章 淑女に触れるべからず
「お誘い、できた?」
藤井が尋ねると、エレオノーラは両手を重ねた。
「ええ」
それだけ答え、目を伏せる。
藤井は本を閉じた。
佐伯も、棚から手を離して隣へ来た。
「お茶に?」
「はい」
「二人で?」
「まだ、お約束をしただけですわ」
頬が、少し赤かった。
今夜は、淡い緑のドレスだった。
袖口に白い刺繍があり、重ねた手の先で、小さな葉の模様が揺れていた。
「何て言ったの?」
「まず、先日のお茶のお礼を申し上げました」
「うん」
「ランドルト様は、私が気に入ったことを覚えていてくださって。あちらのお茶は、いつも私が伺う前に、ご用意くださっていたそうです」
藤井は佐伯を見た。
佐伯が、口元を緩めた。
「それで、好きなお茶を聞いた?」
「ええ。そうしましたら――」
そこで、走る足音がした。
*
「こっちだ!」
文庫棚の間から、男が飛び出した。
黒い上着。肩には大きなバッグ。
後ろから、二人続く。
三人は通路の端で足を止め、店内を見回した。
「……何だ、ここ」
「路地じゃねえぞ」
藤井はエレオノーラの前へ、半歩出た。
佐伯も動いていた。
「お客様。どうされました?」
「本屋?」
最初の男が、近くの平台を見た。
積まれた一冊を手に取る。
その顔が、変わった。
「おい」
バッグを持っていない男が、表紙をのぞく。
「これ、俺らの……」
藤井にも、題名が見えた。
銀行強盗と、逃走する三人組を描いた犯罪小説だった。
以前、あらすじを読んだことがある。
「本から出たのか?」
男が言った。
佐伯は、慎重に頷いた。
「おそらく、そういうことかと」
三人が顔を見合わせた。
「じゃあ、もう追ってこられねえんじゃねえか」
ひとりが笑った。
入口の向こうへ目をやる。
ガラス越しに、街灯と道路が見えていた。
「出るぞ」
*
自動ドアは、開かなかった。
男が前へ出る。
戻る。
もう一度、近づく。
「開かねえ」
「閉店してるんだよ」
藤井が言うと、男は舌打ちした。
「だったら、割ればいい」
バッグを床へ置き、拳を振り上げた。
藤井は肩をすくめた。
音は、しなかった。
男の腕が、途中で止まっている。
拳はガラスのすぐ前にあった。
男は自分の手を見た。
もう一度、殴った。
やはり、何も鳴らなかった。
「何だよ、これ」
今度は蹴った。
靴の先が、ドアの手前で止まる。
ぶつかる音も、ガラスの揺れもなかった。
男の顔から笑いが消えた。
「当たんねえ」
別の男が横から手を伸ばした。
ガラスへ触れようとして、指を曲げる。
「……壁でも、ねえぞ」
藤井は自分の手を見た。
開かないとは、知っていた。
けれど、あんなふうに殴りつけたことはなかった。
佐伯が入口へ一歩近づきかけたとき、背後で声が上がった。
「いたぞ!」
警察官が、文庫棚の間から駆け込んできた。
*
「動くな!」
男たちが振り返る。
入口は開かない。
左右の通路にも、警察官の姿が見えた。
藤井は壁際へ寄ろうとした。
佐伯の手が、その腕をつかんだ。
「こちらへ」
引かれたのと、男が動いたのは、ほとんど同時だった。
いちばん近くにいたエレオノーラへ、腕が伸びる。
首元へ引き寄せられた令嬢の前に、短い刃が光った。
「下がれ!」
男が叫んだ。
「この女を殺されたくなかったら、全員下がれ!」
警察官が足を止めた。
藤井も動けなかった。
佐伯の手が、まだ腕にあった。
「下がれって言ってんだろ!」
「分かった。落ち着け」
先頭の警察官が、ゆっくり一歩下がった。
後ろの警察官も続く。
藤井は佐伯に引かれ、半歩下がった。
佐伯の指に、力が入った。
刃物。
逃げ道のない店内。
誰かの腕を、つかんでいる。
何かが、頭の端をかすめた。
「佐伯さん?」
藤井の声で、目が戻った。
エレオノーラは、俯いていた。
*
彼女の唇が、動いていた。
小さな声だった。
男の怒鳴り声に隠れ、何と言っているのか、藤井には聞き取れない。
次の瞬間、男の足元で、緑色のものが動いた。
蔦だった。
床から伸びた細い蔦が、足首へ絡む。
男が下を見たときには、膝まで巻きついていた。
「何だ、これ!」
隣の二人が後ずさる。
その足も、止まった。
蔦は三人の脚を縛り、腰へ伸び、腕を胴へ巻きつけた。
エレオノーラをつかんでいた手が、引き離される。
刃物を握る腕が横へ持ち上がり、手首まで緑に覆われた。
短い金属音がした。
落ちた刃物を、警察官が素早く遠ざけた。
三人はその場へ膝をついた。
動こうとするたび、葉がざわざわと揺れた。
エレオノーラは一歩、離れた。
乱れた袖を直す。
それから、三人を見下ろした。
「ランドルト様以外の殿方が、わたくしに触れないでくださいまし!」
店内が、静かになった。
藤井は令嬢を見た。
蔦を見た。
もう一度、令嬢を見た。
「……そこなんだ」
*
警察官たちが三人を取り押さえる間も、藤井はしばらく蔦を見ていた。
「そうだった」
「何がですか」
佐伯が尋ねる。
「魔法の国なんだよ。この子のゲーム」
藤井は棚から一冊取り、表紙を示した。
「宮廷魔術師、いたでしょう」
「いらっしゃいましたね」
「お茶の話ばっかり聞いてたから、忘れてた」
エレオノーラが、少し眉を寄せた。
「護身の術くらいは、身につけておりますわ」
「三人まとめて、護身なんだ」
「こちらへ危害を加えるおつもりでしたでしょう」
「うん。そうだね」
反論する理由はなかった。
警察官のひとりが、令嬢へ深く頭を下げた。
「ご協力、感謝します。お怪我はありませんか」
「ええ」
エレオノーラは頷いた。
佐伯も、彼女の顔と袖を見ていた。
次に、藤井を見た。
「藤井さんも、大丈夫ですか」
「俺、何もされてないよ」
そう言ってから、藤井は自分の腕を見た。
佐伯の手が、まだそこにあった。
「あ」
佐伯が手を離した。
「失礼しました」
「いや。ありがとう」
藤井は軽く腕を振った。
佐伯は、その動きを一度確かめてから、警察官へ顔を戻した。
*
強盗たちは、来た通路へ連れていかれた。
自動ドアへ向かおうとしたひとりが、警察官に肩を押さえられる。
「そっちじゃない」
「分かってるよ!」
分かっていても、まだ外を見たかったらしい。
最後の警察官が頭を下げ、棚の角を曲がった。
その姿が消えると、店内はいつもの広さに戻ったように感じられた。
蔦も、もうなかった。
エレオノーラが小さく手を動かすと、葉の先までほどけ、消えてしまった。
佐伯が床を見た。
傷はなかった。
「商品も、ご無事ですね」
「そこ、確認するんだ」
「ええ。書店ですので」
藤井は笑い、エレオノーラへ向き直った。
「それで」
「はい?」
「ランドルト様、何て?」
令嬢が目を瞬かせた。
それから、両手を重ね直した。
頬に、赤みが戻る。
「殿下のお好みでしたら、存じております、と」
「仕事の相談だと思われてるじゃん」
「ですから、申し上げました」
エレオノーラは一度、息を吸った。
「あなたのお好みを、伺っているのです、と」
藤井は黙った。
佐伯も、令嬢を見た。
「……言えたんだ」
「ええ」
「それで?」
「少し、驚いていらっしゃいました」
エレオノーラは指先を見つめた。
「それから、ご自分のお好きなお茶を教えてくださいました。今度、お時間をいただけることになりましたの」
藤井は手元の本を見た。
表紙の三人は、変わらず華やかだった。
その後ろにも、端にも、側近の姿はない。
「その場面、本に入れてくれよ……」
佐伯が笑った。
エレオノーラも、口元をほころばせた。
「当日、ちゃんとお話しできるかしら」
「さっき、あんなにはっきり言えてたのに」
「ご本人を前にして、同じように話せるわけがございませんでしょう」
藤井は、思わず佐伯を見た。
そこだけは、前に来た夜と同じだった。




