<九>
地獄門の前に広がる深淵から、所用を済ませて隠世に戻った閻煌。
既に日は暮れて辺りを闇夜が支配していた。
深淵に入ったのは昼過ぎ。玉磨瑪と話して猫甘亭を出てから数刻後のことだった。
所用は半日で済ませられるようなものではないため一日半は経過したことになる。
吹く風は日中の陽を含んだような生暖かさが残っており、閻煌の髪を撫でるようにそよそよと揺らしていた。
するとそこへ八咫烏が飛来し、火急の知らせをもたらした。
「エンよ、大変だぞ! あの小僧が捕まりおった」
「小僧?」
聞き返したのは、閻煌の傍に立つ大柄の男だった。
彼は褐色肌に浮かぶ金眼を八咫烏から閻煌へ窺うように向ける。
「……悠青のことか」
閻煌は端正な眉を寄せてその名を言い当て、八咫烏に目で先を促す。
「ああそうだ。タマが助け出そうと動いているようだが、如何せん、相手が悪いようだ」
「相手? ……俺にしか対処できない相手ということか。今はどういう状況だ?」
「分からん。タマから珠甘づてで知らせが来たから少し時間が経っておる。小僧の迷魂が隠世から消えて翌日に小僧がまたふらふらと夜中に出歩いたのをタマが追ったそうだが、その先で魂のない小僧の身体を見つけたようだ」
ここで大柄の男がまた当然のように口を挟む。
「ユウセイ……ああそうか。悠青ってお前が気にかけてるっていう人間のことか。……ちょっと待て」
男は訝し気に首を捻った。
「悠青の迷魂が隠世から消えたって、またこっちに来てたのか? そんでそのあと誰かに捕まったって……とんだ巻き込まれ体質だな」
深淵にいる間は外界との連絡はほぼ取れないため、閻煌も悠青が再び隠世に来ていたことを今知り、更に表情を険しくさせた。
「まあ不注意でそうなることもあろうが、基本的にあやつの周りが仕掛けてくるからのぅ」
本人にはどうしようもなかろう、と八咫烏は本人のいないところで首を振って同情を示した。
「相手は何者かわかるか?」
と、閻煌が八咫烏に問う。
「悠青を捕らえた者は白蛇だという話だが、そやつには敵意はなく、その主が危険な状態かもしれないという話だ。なんでも石祠に宿る神かもしれないと……ア?」
八咫烏はカラスの鳴き声のような音を漏らしては何かに思い至る。
閻煌も同じタイミングで一つの名を口にした。
「道通様」
「うむ。蛇と祠で吾もピンときた。しかし全く違う場合もある。決めつけるのはちと早かろう」
「もちろんだ。この目で確かめてからどう対処するか決める。――瑳弥は」
「俺も行こう」
すかさず同行を申し出た男に、閻煌と八咫烏は理由を問うような視線を向ける。
「久しぶりに来たからな。もう少しお前の力になってもいいだろ? それにその人間の男にも会ってみたいしな」
最後に言った理由が本命なのだろう。
瑳弥こと、瑳弥之丞も閻煌の側近の一人だ。
普段は現世で活動し、必要な時に閻煌の傍で力を振るってくれている。
側近というにはかなり距離を感じるが、現世に彼が拠点を持ってくれていることで閻煌も助けられることが多いのだ。
「瑳弥は道通様について何か知っているか? 道通様にかかわる石祠や白蛇のことでもなんでもいい」
「いや、俺の周辺ではそういった話は全然だ」
と、瑳弥之丞は閻煌に首を振った。
彼の拠点は関東にあり、基本的に把握しているのはその全域のみ。その外で起きていることの情報は遅れて入ってくることがほとんどだ。
なのでできればまだ大事になっていないことを願いたい。
閻煌は暫し逡巡してから視線を上げた。
「俺はあの人に会ってくる。ふたりは玉磨瑪のところへ向かってくれ」
言って持ち上げた右手で宙に何かを書き記すように手を動かすと、目の前の空間が歪み、そこに一基の鳥居が出現した。
その中心には閻煌を歓迎するかのように暗い穴がぽっかり開いており、奥へ吸い込まんと渦巻いている。
これが深淵に続く扉――神門である。
神門は神々へ通ずる門であるため、ここから直接現世に繋げることはできない。
なので一度深淵に門を開き、深淵の中で現世への門を開く必要があるのだ。
一見手間のように聞こえるだろうが、現世へ行く一番の近道だった。
これを扱えるのは神憑きの憑人のみ。また地獄の深淵につなぐことができるのは鬼憑きの閻煌だけである。
「閻煌。気を付けろよ。何かあったら呼べ」
瑳弥之丞の声を背中で受け止めながら、閻煌は神門の中へと吸い込まれていき、彼と共に鳥居の門が姿を消した。
羽休めに地上に降りた八咫烏が瑳弥之丞を見上げる。
黒のロングジャケットを引っ掛けた瑳弥之丞は、髪は細かく編み込んだコーンロウで、それを一つに纏めて後ろで括っている。
加えて彫りの深い男らしい顔立ちで、片方の目元には黒い羽根のような模様がある。これは刺青などではなく、彼の存在を示す証のようなもので自然とそこに浮き出ているものだ。
完全に現世に染まった出で立ちのため、隠世ではかなり浮いて見える。
「おぬしは相変わらず焔舞羅を嫌っておるな」
八咫烏を見下ろす瑳弥之丞の双眼が暗く影を落とす。
「あいつが閻煌にしようとしたことを俺は一生許すつもりはねえからな」
顔を見ただけで縊り殺したくなる、と忌々し気に吐き捨てる男の目の奥に怒りの炎が滾っていた。
触らぬ神に祟りなしだ。八咫烏はこれ以上この件に触れるのをやめた。




