<一>
堕ちた樹妖の件が片付いてから数日後のこと。
隠世の街中にある甘味処――猫甘亭にて、猫憑きである玉磨瑪は出されたツナ缶に目を輝かせていた。
甘味処なのにツナ缶とは違和感しかないが、彼が属している“猫屋敷”が営む店なので当然のように彼の好物が常備されており、これを許す女将もいつも微笑ましく見守っている。
「今日は暑いからこれなんてどうかしら」
透明感のある雪ガラスの器にこんもり盛られたかき氷を持ってきた女将――珠甘。
彼女は花魁のように華やかな着物を肩から崩して肌を大胆に露出させ、外側の赤い打掛によって内側の紫と黒の着物を見せるレイヤード(重ね着)の美しさを強調させた出で立ちだ。
結わえられた髪は後頭部を高く膨らませてボリュームを出し、そこに牡丹の花簪と、花の下で揺れ動くビラ簪が添えられている。
前髪はアップにするのではなく斜めに流し、サイドに少し後れ毛を残すことで現代的で女性の色香を存分に漂わせていた。
何もトッピングされていないまっさらなかき氷を玉磨瑪が受け取ると、珠甘の紅を指した唇が弧を描く。
「今日はエンさんがお見えになるからお店は閉めておいたわ。他に要望はあるかしら」
畳の敷かれた小上がりの席にいる玉磨瑪の傍にしんなりと身体を傾けて腰を下ろした珠甘に、玉磨瑪は二度ほど首を振る。
「報告だけだから。これだけで十分」
言って、目の前に置いたかき氷にツナ缶の中身をこんもり盛ると、氷匙でシャリシャリと軽く混ぜて漸く口に運ぶ。
やっとありつけたツナ缶に冷たい氷というおまけ付き。
冷えたツナが喉を通る感覚に玉磨瑪は冷たさと満足感にその身を震わせた。
時刻は正午を回った頃。
約束通りの時間に猫甘亭の扉を開けた閻煌は、化粧を完璧に施し物腰柔らかな所作の珠甘に迎えられた。
「お待ちしておりましたわ。たまも奥でお待ちですよ。……あら、ヤタさんもご一緒で。どうぞお入りくださいまし」
閻煌の肩に止まった八咫烏を見る珠甘に、閻煌は店の表に掛けられた『休業中』の札が気になり問うた。
「わざわざ店を閉めたのか?」
「ええ。とても大事なお話があるようでしたから、念のため。なので心置きなくお話なさってくださいね」
誰もが振り返る美人女将に間近で微笑まれた閻煌だが、気を遣わせたことの方が引っかかり僅かに顔を曇らせた。
「休業する方が悪目立ちするだろう。これまで通り、個室を借りられたら十分だ」
そう伝えて横を通り過ぎると、肩の上からすれ違いざまに珠甘にだけ聞こえるように八咫烏がぽつりと呟く。
「――色目なんぞエンには効かんぞ」
これに当の珠甘は怒るでもなく悲しむでもなく、ただ閻煌だけをその瞳に映して微笑んでいた。
その笑顔に八咫烏は身震いして今度は閻煌を振り返る。
「エンよ。あの娘には気を付けよ。何を企んでおるか分からんからな」
「何の話だ? ……また何かあったのか。お前たちは相変わらず仲が悪いな」
「そんな話ではない!」
肩の上で地団駄を踏む八咫烏の心情はこうだ――他者間の諍いには勘付くのにどうして己に向けられる好意には気付けないのか。
八咫烏と珠甘――というより猫甘亭にいる猫たちとの相性があまり良くないのは本当だ。
今も猫たちの縄張りに入り込んだカラスに視線をロックオンする個体が数匹いる。
ただ飛びついてこないのは、傍に閻煌がいるからに他ならない。
「玉磨瑪。待たせたな」
小上がりの席に座っている玉磨瑪を見つけて声を掛けながら近付くと、彼は顔を上げて視線で挨拶してくる。
「時間通りだから待ってない」
玉磨瑪らしい返しに頷きつつ、閻煌は彼の手元にあるものを目に留めながら向かいの席に腰を下ろした。
「……何を食べていたんだ?」
既に中身のないツナ缶は彼の好物なので分かる。が、雪ガラスの器にある食べかけのかき氷を見て不思議に思った。
これに八咫烏が素早く反応する。
「ツナ缶とかき氷か? おかしな食べ合わせだな。おぬし、そんな物を氷と混ぜたのではなかろうなぁ」
まさかな、と冗談のつもりで言ったのだが思いの外玉磨瑪の反応が薄い。
いつもなら軽く否定してくるはずだが……。
「ごちそうさま」
と、手を合わせて間食した玉磨瑪に八咫烏は豆鉄砲をくらった鳩のように固まった。
「まじか……」
玉磨瑪のツナ缶愛は今日も健在のようだ。
空っぽの器と閻煌の顔を交互に見た玉磨瑪は、何を思ったのか変な気を回してきた。
「主様も食べる?」
これに当の本人よりも八咫烏が大きく反応を示す。
「そんなものをエンにすすめるでないわ!」
「そんなものって、ツナ氷のこと? これはボク仕様だから誰かにすすめたりしない」
「名前までつけておるのか……というか、相手の配慮はちゃんとしておるのだな」
「うん。人気が出て品不足になったら困る」
「………」
彼とツナ缶談義は不毛だ。そんな心配は杞憂だとはもうツッコまずにおく八咫烏であった。
今日は久しぶりに気温が上がって暑い。玉磨瑪は自分だけ冷たい物を食べて少し引け目を感じたのだろう。
そんな彼の意図を汲み取った閻煌は丁寧に返事をした。
「気遣いは有難いが、俺はあまり暑さを感じないから大丈夫だ。それより報告を聞いてもいいか?」
「うん。悠青をずっと見張ってたけど、最近は問題なさそう」
「例の男との接触は?」
「ない。あやかしの薬がなくなったから、男も手を引いたんだと思う。人間にあやかしの薬は作れないから」
玉磨瑪の報告を聞いて一先ずは問題ないかと考えていると、落とした視線の先にお茶の入った湯飲みが置かれた。
「折角ですし、何か食べていかれます?」
珠甘の勧めに閻煌は湯飲みに手を伸ばしながら答える。
「このあと少し用があってな。またの機会に頼む」
「相変わらずお忙しいのね。次は是非ゆっくりしていってくださいまし」
珠甘は聞こえていたであろうこっちの会話には敢えて触れずに頭を下げて身を引く。
閻煌も特に会話は続けず、湯飲みを口に運んだところで玉磨瑪が追加の情報を今知ったような口ぶりで告げた。
「あ、それと薬による犠牲者は収束してるって、猫たちが言ってる」
黒い猫を筆頭に傍に寄ってきた猫たちに視線を向けていた玉磨瑪。彼らの言葉は猫憑きの者、玉磨瑪や珠甘にしか分からない。
たった今猫たちからもたらされた情報は狐禅寺の調査でも上がってきていたので閻煌はそのようだなと頷いた。
樹妖の本体を倒したことで既に撒かれていた薬の効果も消えつつあるのだ。
「悠青はどうする? まだ見張る?」
「そうだな……もう暫くは。数日経って何もなければ頻度を徐々に減らしていって構わない」
「わかった」
話し終えた途端ふあぁと大きな欠伸を漏らす玉磨瑪の横で、同じように欠伸をしながら前足を突き出して伸びをする黒猫。
まるで兄弟のような所作に閻煌はひっそりと目を細めた。
「そろそろ時間だぞ」
八咫烏の急かす声に一口だけ飲んだお茶をテーブルに戻して立ち上がると、もう行くのかと問うような目で玉磨瑪が見上げて来る。
閻煌は一つ息を吐いて彼の柔らかい髪に手を置く。
「また時間ができたら来るから。情報助かった」
宥めるように撫でてやり、閻煌は八咫烏と共に猫甘亭を後にした。




