<四>
高麗狛の領地から更に南へ下っていくと、岩山が遠のく代わりに密林が姿を現す。
樹妖が多く生まれるとされる隠世の樹海がここだ。
来る道中、特に変わったことはなく順調に進んでこれたが、樹海に足を踏み入れた辺りから様子が一変した。
瘴気の気配が肌で感じるようになってきたのだ。
「エンよ。少し様子を見た方がよいのではないか? 考えなしに深く踏み込むと禍を被るかもしれぬぞ」
肩に降り立った八咫烏が周囲に目を光らせながら耳元で告げる。
そんなこと言われるまでもないが、何故か彼の台詞がおかしくて閻煌は一瞬だけ肩を揺らした。
「禍か。面白いな」
「どこがだ!? おぬしのことだからどうせ『禍の天敵たる俺がこの程度の禍を恐れるとでも?』とか思っておるのだろう」
――それは俺の口真似か?
酷く偉ぶって聞こえ、眉を寄せる。
そんな閻煌の変化に気付くことなく八咫烏は続けた。
「言っておくがおぬしをそう思っておるのはおぬしだけだぞ。少なくとも憑人連中はおぬしのことを――」
「八咫烏。分かったから」
少し静かに、と唇に人差し指を当てる閻煌。
お喋りな鳥の口を塞ぎたかったのもあるが、辺りが急に薄暗くなったことに注意を向けさせる意図もあった。
すぐに八咫烏も警戒を強める。
「……何かおるな」
見渡す限り樹木に覆われていてあまり先が見えない。加えて白い霧も立ち込め一層視界を奪っていく。
閻煌は一言だけ告げた。
「手出し無用」
と。これは八咫烏というより追走してきている燈鶴に向けての言葉だった。動きを見せないところを見るに、燈鶴はちゃんと約束を守ってくれているのだろう。
巨大な何かが這っているかのように地面が振動し、それが徐々に近づいて来る。
足を止めた閻煌は手の平に鬼火を一つ灯して目の前に掲げた。炎はゆらゆらと優しくたゆたう。
最初は静かに燃えていたが、地面の振動に合わせて大きく揺れ動き始めた。
それが次第に暴れ狂うようになると限界に達したのか手の上で爆ぜて散った。
それと同時に目の前に姿を現す何か――。鬼火は限界に達したのではなく、この何者かの接近を知らせてくれたのだ。
――“こっち”は樹妖……だけではないな。
閻煌は片手を大きく開くと相手に飛び掛かり、小さい頭部らしきものを鷲掴みにして地面に叩きつけた。
土の上に押さえ込んだものは耐え切れずにぐしゃりと潰れて動かなくなった。
一瞬しか目視できなかったが見てくれは桃よりも二回りほど大きく、顔のようなものが浮き出ていた。遠目からなら人間の子供の頭部と見間違えても無理はない。
それよりももっと印象付けたのは、まるで熟れた桃のように柔らかく酷く甘いニオイだったこと。
それは好ましいニオイなどではなく、あまり嗅ぎすぎるとあやかしにも害を成すもののようだ。
手にこびり付いた果肉を払うように手を一振りした閻煌に、肩から離れていた八咫烏が舞い戻って問う。
「さっきのは何だ? 樹妖とは違う気配のようだったが……」
「樹妖に取り憑いた悪霊の成れの果てといったところだ。恐らく堕ちた樹妖の瘴気に当てられて逆に取り込まれてしまったんだろう」
邪悪なモノは似たモノを引き寄せる。悪霊の集合体である禍魂がそれの完全体といえよう。
「また来るぞ。八咫烏は上から全体の状況を把握してくれ」
「それはよいが、おぬしは一人で問題ないか?」
迷わず頷いて返事をすると、八咫烏は大きく翼を動かして上空へと舞い上がった。
帯に差していた短刀を抜く閻煌。その眼は強く赤い光を帯びていた――。




