3. 休業日の値段
王宮の査問の間は、天井が高い。
北向きの高窓から昼の光が斜めに落ちて、埃の柱が何本も立っている。床は磨かれた石で、足音がよく響いた。
その光の中に、フィアは一人で立っている。
昨日まで、この建物の中へ入ったことは一度もなかった。獣廏から王宮の本館までは、歩いて八分。その八分を、フィアは十七年ぶん一度も歩いていない。
靴の底が、磨かれた石に吸いつく。藁の匂いのしない場所は、それだけで息がしづらい。
膝から下は、まだ痺れていた。立っているだけで、細い針を刺されているような感じがする。
「――以上が、昨日の被害でございます」
書記が羊皮紙を巻き取る。
「死者なし。負傷十一名、うち重傷二名。〈東橋〉の浮石が七つ落下、〈市橋〉〈古橋〉は通行止め。〈魔導井戸〉の停止により、給水塔の残量は一晩ぶん。医院の〈癒しの手〉が、半刻の停止」
「半刻で済んだのは、鈴を鳴らしたからでございます」
オルドリクの声は、事務的だった。感情のかけらもない。
「陛下。三百年、我らは止めておりませぬ。だから王都は栄えております。魔導灯も、井戸も、浮石橋も、止まらぬことを前提に組まれておりますゆえ」
「存じております」
玉座の女王イレーネは、二十一歳である。戴冠の翌日で、冠がまだ頭に馴染んでいない。
「二つ目に、止めれば人が死にます。癒しの手が止まった夜に急病人が出れば、それは眠らせた者の責でございましょう」
「……はい」
「三つ目。代わりの手がございませぬ。休ませるべきだ、というのは主張であって、設計ではありませぬ」
フィアは唇を噛んだ。
三つとも、正しい。
誰も嘘をついていない。誰も意地悪を言っていない。それなのに、この三つを並べられると、あの赤い目が三百年そのままでいることになる。
こういうとき、どう言い返せばいいのだろう。
フィアは、言い返し方を習ったことがない。藁の敷き方なら、ハンナから教わった。根元を奥にして、厚みを三寸。けれど言葉の敷き方は、誰も教えてくれなかった。
自分の手を見る。藁で切った細い傷が何本も走っている手だ。この手には、灯りも水も橋も作れない。作れたことなど、一度もない。
それでも、口が動いた。
自分でも、なぜ喋っているのかわからない。ここで黙っていれば、追放だけで済むのに。喉のあたりが勝手に開いて、言葉が先に出ていく。
「……三百年眠っていない方が、昨日、暴れました」
場が静まる。
自分の声が、思ったよりも部屋に響いた。
「次は、もっと大きく暴れます」
「根拠は?」
「覚鈴が、効かなくなっています」
「馬鹿を申せ。三百年効いておる」
「――効いておりませぬ」
声を上げたのは、御獣官長ドランだった。四十をいくつか越えた、日に焼けた男である。
フィアは驚いて、そちらを見る。この人と口をきいたことは、十七年で三度もない。獣を動かす人と、藁を替える人は、同じ厩にいても道が交わらない。
「長官。昨日、私は真横で見ております。鈴の音は、確かに届いておりました。あの方は、聞いておられなかった」
「ドラン」
「三年前から、鈴の数を増やしております。書面には上げておりませぬ。……上げれば、増やすなと言われますゆえ」
オルドリクが、はじめて黙る。
その沈黙が、フィアには意外だった。この人なら、部下の勝手を叱って終わりにできたはずだ。それをしない。
高窓の光が、少しだけ角度を変えた。埃の柱が傾ぐ。
女王が、指先で玉座の肘を二度叩いた。
「寝床係。名は?」
「フィアと申します」
「フィア。眠らせられますか?」
「はい」
自分でも驚くほど、迷いがない。
「起こせますか?」
「……鈴を鳴らせば」
女王が身を乗り出す。冠の縁が、高窓の光を細く弾いた。
「では聞きます。眠らせているあいだ、この都はどうなりますか?」
フィアは、ゆっくり息を吸う。
「止まります。灯りと、水と、橋と、氷と、癒しの手が」
「それを、誰も死なぬように止められますか?」
答えられない。
わからないのだ。フィアは他人の眠りを十七年見てきたけれど、休むということの内側を、一度も知らない。目を閉じて意識が落ちていく、あの感じを。
夜になると、みんな居なくなる。灯りが落ちて、話し声が途切れて、王都じゅうが一斉に、フィアの知らない場所へ行ってしまう。朝になると帰ってくる。どこへ行っていたのか、誰も教えてくれない。
子どもの頃、一度だけハンナに聞いたことがある。眠るというのはどんな感じですか、と。
ハンナは少し困った顔をして、こう答えた。――重たいものを、下に置く感じだよ。
置く場所が、フィアにはない。十七年ぶんの夜を、ぜんぶ抱えたまま朝になる。
その置き場所を、六日で、王都ぜんぶのぶん設計しろと言われている。
「……いまは、できません」
「正直ですね」
女王が立ち上がる。
「麦の月十四日。日没から夜明けまで。試しなさい」
「陛下!」
「常働寮が出した寝床係の廃止通知は、十五日の夜明けまで執行を止めます。試すのは十四日の日没から、明ける十五日の朝までですから、そこまでは要ります。フィア、その間、あなたを暫定の寝床係に任じます」
「――陛下、それは」
「長官。人を職から外したまま、その職の仕事をさせるわけにはまいりません」
女王は、フィアのほうを見た。
「条件があります。被害が出れば通知はそのまま執行。フィア、あなたは王都を出なさい」
「――お待ちください、陛下」
オルドリクの声が、はじめて少しだけ高くなる。
「もし人が死んだら、その者は戻りませぬ」
「存じています。だから、六日あげるのです」
女王はそう言って、退出した。
残された査問の間で、フィアは指を折る。
九日、十日、十一日、十二日、十三日、十四日。
――六日。
◇
麦の月八日。藁二束、いつもどおり。査問は昼のうちに終わった。
指が、ずっと何かを数えたがっている。止まると困るものを数えればよいのだと思う。
休むということを、わたしはまだ一度も知らない。それを、六日で設計する。




