4. 止まると困るものを数える
「三百年ぶりに残業なんだけど」
油壺を抱えた娘が、街灯の柱から滑り降りてきた。
十九歳くらい。すすで汚れた前掛けをして、髪を布でぐるりと縛っている。手の甲にも顔にも、油の黒い染みがある。
「〈灯し番〉のセルカ。あんたが例の、膝の人?」
「……フィアです」
「知ってる。王都中が言ってるもん。魔法止めた子だって」
フィアは身を固くする。
責められると思った。この五日、道を歩けば誰かが振り返る。橋のたもとを通るときは、遠回りをするようになった。
十一人。その数を、フィアは寝床帳の隅にも書いている。書いておかないと、忘れてしまいそうで怖い。
「で、あたしの街灯、何本まで持つと思う?」
「……え」
「二百三十本あんの。あたし一人。日没から夜明けまでに、全部へ火を入れて回るのは無理」
「何本なら、回れますか?」
「八十本。それも走ってね」
セルカは油壺を足元に置き、指を折りはじめる。
「橋のたもと。井戸端。医院の前。あと、階段のある道。ここに火がないと、人が落ちる」
「……いま、八十本の内訳を言いましたね」
「言った」
「書き留めても、いいですか?」
「書いて書いて。あたし、字が下手だから助かる」
フィアは寝床帳の空きに、二百三十と八十を並べて書く。
油の匂いがする。セルカの手の甲は、傷と煤で真っ黒だ。三百年、ほとんど仕事のなかった職の手には見えない。
残りは百五十本。その百五十本ぶんの暗がりを、どうするか。
「セルカさん。八十本のうち、日没前に灯しておけるものは」
「……あ」
セルカが、油壺を持ち上げたまま止まった。
「そっか。灯しちゃえばいいんだ。魔法が止まっても、火は消えないもんね」
「はい」
「あんた、頭いいね」
「いいえ。あなたが、内訳を言えたからです」
◇
医院の院長は、白髪を短く刈った女で、話は最初から硬い。
「癒しの手が止まる夜に、誰かが死んだら、誰が責を負いますか?」
「わたしです」
「それは答えになっておりません。死んだ者は、戻りませんから」
「……はい」
「わたくしが伺いたいのは、死なせぬ手立てです」
フィアは病室を見回した。
三十床。薬草を煮る匂いと、洗った布の匂い。窓辺に置かれた水差しの、細い影。奥の寝台で、老人が浅い息をしている。
入口の寝台には、腕に添え木を当てた若い男がいた。橋の石が落ちた日に運ばれてきた十一人のうちの、一人だろう。
フィアは、その添え木からしばらく目が離せなかった。
――今夜、どうしても手を要する者は。
「先に、治しておくことはできませんか?」
「なんですって」
「日没までに、明日の手当てを済ませてしまう。急ぎでない縫合も、痛み止めも、今日のうちに」
院長がまばたきをする。
「……前倒し、ということですか?」
「はい」
フィアは奥の寝台を見た。
「三十床のうち、それができるのは二十二床。残り八床は、いつ何が起きるか読めません」
「その八床に、癒しの手の使える方を、一晩そばに置けませんか?」
「魔法は止まりますよ」
「手当ては止まりません」
長い沈黙が落ちる。
院長は水差しの影を見て、それから短く息を吐く。
「……薬師を三人、夜通し置きます。あなた、思ったより往生際が悪いですね」
「よく言われます」
◇
〈養い舎〉の西日の中で、ハンナは目を細めた。
七十八歳。先々代の寝床係である。膝の上で、皺だらけの手が組まれている。指の関節が太い。藁を四十年束ねた手は、みんなこうなる。
窓の外では、洗濯物が西日を透かして揺れていた。この部屋には、藁の匂いがしない。それが少しだけ、寂しかった。
「お前さん、藁の向きを覚えとるか?」
「根元を奥にします」
「よろしい。獣はな、寝床が変わると眠らん」
「ハンナさん。〈臥し日〉のことを、伺いたいのです」
老女の手が、膝の上で止まる。
「……よく、その名を知っとったね」
「口伝を、二年前にいただきました」
「そうだったね。わしも耄碌した」
ハンナは杖の先で、床に線を引くような仕草をする。
「〈臥し日〉は、王暦十二年の秋に廃された。ちょうど三百年前だよ。理由は、一行も残っとらん」
「書いていない」
「廃した者に、書き残す気がなかったのさ」
「ほかに、口伝は」
「一つだけ」
老女は少し考えてから、言った。
「北へも、何か送っておったはずだ」
フィアは顔を上げる。
「北、といいますと」
「霜越の峠。〈柵〉のところだよ。中身までは、伝わっとらん」
◇
その夜、フィアは常働寮の書庫で、帳面を三十冊めくった。
魔導灯。魔導井戸。浮石橋。保冷函。癒しの手。五つは、どれも数字で書いてある。何年に何本、いくらかかったかまで。
北へ送るものは、一行もない。
索引を三度引き直した。「北」「峠」「柵」。どれも、獣そのものの記録しか出てこない。石を積んだ年。見回りの人数。それだけだ。
蝋燭が短くなる。指先が冷えて、頁をめくる音だけが書庫に響いた。
窓の外が、白みはじめている。
六日のうちの五日が過ぎた。数えられるものは、もう全部数えている。それでも一つだけ、名前も量もわからないものが残っている。
フィアは、帳面の背表紙を指でなぞった。ここに書いていないことは、この国では起きていないことになっている。
――でも、起きるのだ。書いていなくても。
◇
麦の月十三日。藁を三束。明日のぶんまで、先に運んでおく。
帳面を三十冊めくって、紙で指を切った。数えられたのは五つ。灯りと、井戸と、橋と、氷と、癒しの手。
明日の夜が来る。数えられないものを一つ抱えたまま、あの方を眠らせる。




