2. 夢の中の男
「……どなたですか?」
自分の声が、やけに遠くで鳴る。
フィアは自分の手を見た。膝の重さも、石畳の冷たさも、ここにはない。それでいて、指を握れば握った感じがする。
銀色の草が、足首まである。風はないのに、草だけがゆっくり波打っていた。
音がしない。虫の声も、水の音も、自分の足音さえも。獣廏には、いつも何かしらの音があって、フィアはそれで時間を計っていた。藁の擦れる音、桶の水、遠くの鈴。どれか一つでも欠けると、朝の順番が狂う。
ここには、それが全部ない。
匂いもない。草の上に立っているのに、草の匂いがしない。フィアは知らずに息を深く吸って、それでも何も入ってこないことに気づき、少しだけ怖くなった。
「私だ」
「わたし、と申しますと」
「お前がいま、膝に載せているもの」
青年は自分の胸へ手を当てる。その仕草が、ひどく慣れていない。指の置き場所を探しているような、借り物の手つきだ。
着ているものは藁の色をした簡素な衣で、足は裸足である。土のつかない足だった。爪の形まできれいで、その足で草を踏んでいるのに、草が倒れない。
「……暁の獣さま?」
「その呼び名は、人がつけた」
「では、なんとお呼びすれば?」
「ルクス」
青年は少し黙り、それから言い足す。
「三百年ぶりに言った。舌が錆びている」
言い慣れない者の喋り方だ、とフィアは思う。獣廏の年寄りの馬が、久しぶりに歩くときの脚に似ている。一歩ごとに、自分の身体を確かめている。
「痛みますか?」
「痛みはしない。ただ、思い出しながら喋っている」
フィアは足元を見る。
銀色の草の中に、足跡が一本、まっすぐ伸びていた。地平の向こうまで、一度も曲がらず、一度も途切れず。
「これは」
「私が歩いた跡だ。止まらずに済むよう、歩き続けた」
「三百年ぶん、ですか?」
「そうなる」
足跡には、休んだ窪みが一つもない。
十二年、藁を替えてきた。毎朝、窪みの深さを指で測っては、寝床帳に書きつける。深い日は、少しだけうれしい。浅い日は、藁を余分に足す。
そうやって数えてきた窪みが、この足跡の上には一つもない。
寝床帳は先代から続いていて、棚には百年ぶんが並んでいる。その百年ぶんの窪みの記録が、まるごと空白の前に立たされている。
喉の奥が、じわりと熱くなる。悲しいのとも、怖いのとも違う。ただ、こんなに長いあいだ誰も気づかなかったのだと思うと、指先が痺れてくる。
毎朝、この獣の寝床は整えられてきた。フィアが、その前は先代が、そのまた前の人が。整えて、報告して、また整える。
その全部が、この一本の足跡の上を通り過ぎていたことになる。
――わたしたちは、いったい何を見ていたのだろう。
「三百年、目を閉じていない」
ルクスの声が、はじめて掠れる。
「では、お眠りください。わたし、寝床係ですから」
「私が眠ると、この国の魔法が止まる。灯りも、水も、橋も。人が死ぬぞ」
「……なら、死なない止め方を考えます」
「考えて、どうなる?」
「わかりません」
フィアは正直に答える。
「でも、藁を替えるのだって、最初は誰かが考えたはずです」
金の目が、まばたきをした。
「お前は、世界の枕だ」
枕。
その言葉は、不思議と嫌ではなかった。頭を載せてもらう道具。それはたぶん、フィアがこれまでで一番、役に立った瞬間の名前だ。
それでも。
「いいえ」
「否とは」
「わたしには名前があります。フィアです」
風のない草原で、青年がゆっくりと口を開く。
「……フィア」
名を呼ばれた瞬間、なぜか膝の重さを思い出した。ここにはないはずの、あの重さを。
名前だけで呼ばれたのは、久しぶりだった。獣廏では、みんなフィアを「寝床係」と呼ぶ。役名の前や後ろに名が付くことはあっても、名前だけで呼ぶ人はいない。給金の受取簿でも、二年前に係を継いでから、名の欄はずっと空白のままだ。
「もう一度、呼んでいただけますか?」
「フィア」
「……はい」
返事をしてから、自分でも間の抜けた返事だと思った。
◇
カン。
鈴が鳴る。
銀の草原が、端から崩れていく。ルクスが何か言おうとして、口の形だけを残して消えた。
「――お待ちください!」
フィアは石畳の上にいた。冷たい。膝から下の感覚がまるでない。
目の前で銀灰の巨体が身を起こし、赤い目を開けている。
同時に、王都に光が戻った。
魔導灯が端から順に灯り、水路に水が走る。落ちた橋の石だけが、川底で黒く濡れている。
「鳴らしましたぞ、長官!」
「よくやった」
鈴楼の下に、痩せた男が立っている。
〈常働寮〉長官オルドリク。五十がらみで、上着の襟がきちんと合わせてあった。彼はフィアを見て、それから神獣を見て、一度だけ短く息を吐く。
「寝床係」
「はい」
「何をした?」
「膝を、お貸ししました」
「余計なことを」
罵倒ではない。それが不思議と、罵倒よりも重い。
「灯りが落ちた。井戸が止まっている。橋が落ちて、十一人が怪我をした。責は、誰が負う?」
「……わたしです」
「そうだ」
オルドリクはそれだけ言って、去っていく。
フィアはしばらく座っていた。立ち上がれない。膝から下は、まだ他人のものである。
石畳のあちこちに、割れた跡が残っている。魔導師の盾の破片。誰かが落とした靴。橋のほうから、石を引き上げる掛け声が風に乗ってくる。焦げた油の匂いと、埃と、誰かの血の匂いが混ざっていた。
その全部が、自分の膝から始まったのだと思うと、指先が冷える。
十一人。
顔も名前も知らない十一人が、いま、あの医院の三十床のどこかにいる。フィアは膝を差し出しただけだ。差し出しただけで、十一人が転んだ。
――でも、差し出さなかったら、何人だったのだろう。
それを数える方法を、フィアは持っていない。
ふと、右の手のひらが熱いのに気づく。
開いてみた。
――何かを強く握った形に、赤い痕が残っている。
◇
麦の月八日の未明。藁は替えていない。座ったまま夜が明けた。
手のひらに、握られた形の赤い痕がある。夢は、夢ではなかったらしい。
明日、王宮へ呼ばれている。膝を貸したことの値段を、聞かれるのだと思う。




