表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/4

1. 三百年、目を閉じていない

 鈴が鳴っている。


 フィアが生まれる前から鳴っていて、たぶん、フィアが死んだあとも鳴っているのだろう。


 王宮の東のはずれ、〈獣廏(じゅうきゅう)〉。夜明け前のいちばん冷える刻限に、フィアは古い藁を掻き出し、乾いた藁を二束、敷き直す。


 指がかじかむ。息が白い。それでも掻き出した藁の底からは、ぬるい草の匂いが立ちのぼってきて、その甘さだけが、フィアにとっての一日のはじまりだった。


 ――カン、カン、カン。


 隣の〈鈴楼〉から〈覚鈴(かくれい)〉の音が降ってくる。神獣を眠らせないための鈴である。三百年、一度も止まったことがない。


 音は屋根を伝って壁を伝って、藁の中まで沁みてくる。フィアの背骨のあたりに、いつのまにか居場所を作っている音だ。


 夜番はいつもフィアである。ほかの係は交代で眠るけれど、フィアには替わってもらう理由がない。


 ――生まれてから一度も、眠ったことがないからだ。


 医者は昔、「眠りを知らぬ子」と言ったらしい。目を閉じても、意識がどこへも落ちていかない。まぶたの裏が暗くなるだけで、朝までずっと自分がいる。


 だから夜がいちばん長い。長い夜のあいだ、フィアはこの鈴の数を数えている。


 一度でいいから、と思う。一度でいいから、みんなが毎晩行っている場所へ、行ってみたい。


 藁の向こうで、銀灰の巨体がゆっくりと身じろぎする。


「おはようございます、(あかつき)の獣さま」


 返事はない。神獣は人の言葉を話さない。


 ただ、こちらを見る。


 その目が、赤い。


 白目のほうまで細い血の筋が這って、まぶたの縁が腫れている。まつげの先が乾いて、ところどころ折れている。フィアは十七年ぶん、この目を見てきた。年々、赤みが濃くなっていく。


「今日は、藁を多めに敷いておきました」


 巨体は答えない。


「昨日の雨で、下のほうが湿っていたので」


 鼻先が、わずかに藁へ寄る。


「水も替えました。桶ごと洗ってあります」


「それから……あの、今日は戴冠式だそうです。人がたくさん来ます」


 温い。獣の息は人より熱いと決まっているけれど、今朝のそれは、竈の石に手をかざしたときの熱さだった。フィアはそっと前脚に触れ、指の腹で毛の向きを整える。


「……眠れなくても、柔らかいほうが、いいと思うので」


 わかっている。柔らかさは、眠りの代わりにならない。


 それでも、ほかにできることがない。剣は握れない。魔法も使えない。フィアにできるのは、藁の根元を奥にして、水を替えて、糞を掻き出して、また藁を敷くこと。それだけだ。


 フィアは寝床帳を開き、いつもの一行を書こうとした。


 本日、獣廏に異状なし。


 ――ペンが、止まる。


 異状はある。ずっとある。ただ、誰もそれを異状と呼ばないだけだ。


       ◇


「寝床係フィア。本日付をもって、当該職を廃止する」


 朝の光が石畳を白く切るころ、〈常働寮(じょうどうりょう)〉の書記が獣廏の入口に立っていた。羊皮紙を胸の高さに掲げ、抑揚のない声で読み上げる。


「神獣は眠らせない。ならば寝床も要るまい。以上」


「……はい」


「不服の申し立ては、三日以内に」


「ありません」


「早いな。理由を聞いても?」


 フィアは藁を握ったまま、少しだけ考える。


「わたしが不服を申しても、あの方は眠れませんので」


「……眠れぬ、とは」


「三百年です。あの方は三百年、一度も目を閉じておられません」


 書記が、羊皮紙の縁を指で押さえた。


「……知っている。だから鈴がある」


「はい」


「……そうか」


 書記は何か言いかけて、やめた。羊皮紙をフィアの手に押しつけ、足早に去っていく。


 フィアはそれを二度読む。役立たず、とは書いていない。無能、とも書いていない。ただ、寝床が要らないと書いてある。


 ――それだけのことで、この獣廏での十七年が終わる。


 胃の底が、すとんと冷えた。悲しいのかどうか、自分でもわからない。悲しいというのは、たぶん、もっと熱いものだ。これはただ、床が一段抜けたような感じである。


 ただ手のひらがひどく空っぽで、気がつくと藁をひと握り、強く掴んでいる。


       ◇


 その日は、新しい女王の戴冠の日である。


 王宮前の広場に人が詰めかけ、楽隊が並び、〈暁〉が引き出された。神獣が姿を見せるのは国の大事のときだけで、三百年、この国はそれを「めでたい」と呼んでいる。


 旗が鳴る。銅鑼が鳴る。硬貨に似た金色の紙片が、屋根の上から撒かれていく。


 異変は、口上の途中で起きた。


 御獣官(ぎょじゅうかん)長ドランが儀礼の言葉を読み上げている最中、銀灰の巨体が、ぐらりと傾ぐ。


「――伏せろ!」


 声が飛ぶより早く、前脚が石畳を割る。


 悲鳴。人の波。魔導師の張った盾が飴のようにひしゃげ、騎士が三人まとめて宙を舞う。撒かれたばかりの金の紙片が、割れた石の粉と一緒に舞い上がった。


「覚鈴! 覚鈴を鳴らせ!」


「鳴らしております!」


「もっとだ、もっと強く!」


「三十九年、この強さで鳴らしております!」


 鈴楼から、木槌の音が折り重なって降ってくる。


「増やせ! 鈴を増やせ!」


「もう十六です、これ以上は吊るせません!」


 カン、カン、カン、カン。


 鈴の音が広場に降り注ぐ。神獣は、それを聞いていない。三百年効いてきた音が、今朝はもう届いていなかった。


「……効かん」


 ドランが呆然と呟く。


「長官をお呼びしろ!」


「橋のほうへ逃げるな、人が詰まる!」


「誰か、寝床係を呼べ!」


「そんなもの、今朝クビになったろうが!」


 フィアは走っていた。


 考えていない。判断もしていない。ただ十二年、五つのころからこの獣の寝床へ手を入れてきた身体が、勝手に動く。


 あの目が、限界だったことを知っている。まつげが折れていることを知っている。昨日の夕方、水を飲む舌が震えていたことも知っている。知っていて、書かなかった。


 この獣廏で育っている。物心つく前から藁の匂いの中にいて、手伝いをはじめたのは五つのころ。正式に係を継いだのは、二年前だ。


「暁の獣さま」


 崩れ落ちてくる巨大な頭の下へ、フィアは自分の膝を差し入れる。


 骨が軋む。息が詰まる。石畳ごと潰されるかと思う。


 ――重い。


 それだけしか、思えない。


 銀灰の獣は、まばたきを二回して。


 眠った。


       ◇


 同時に、王都から光が消える。


 広場を囲む〈魔導灯(まどうとう)〉が、端から順に落ちていく。悲鳴の質が変わった。〈魔導井戸(まどういど)〉の噴き上がりが止まり、水路の水がすうっと痩せる。


 そして、遠くで石の落ちる音。


「橋が――〈東橋〉が落ちたぞ!」


浮石(うきいし)だ、三本とも止まってる!」


「陛下をお下がりに!」


「灯りを! 誰か灯りを持ってこい!」


 人の波が、割れては寄せる。


「水路が止まった、井戸へ走れ!」


「魚市の氷が溶けるぞ!」


「橋を渡るな! 石が落ちてる!」


「医院はどうなる! 癒しの手が止まっているぞ!」


 誰もが叫んでいる。誰も、フィアを見ていない。


 膝の上には、王国の魔法を全部止めた重さが載っている。


 温かい。


 骨が痛い。膝から下は、もうとっくに感覚がない。それなのに、フィアは動きたくなかった。十二年、藁を敷いても敷いても一度も沈まなかったこの獣が、いま、自分の膝の上でだけ沈んでいる。


 それから、声がした。


 どこか深いところで、水の底の鐘を撞いたような。


「――世界の枕を、やっと見つけた」


 目の前が、銀色の草になる。


 どこまでも続く草原。風がない。光源もないのに明るい。その真ん中に、黒い髪の青年が一人、素足で立っていた。


       ◇


 麦の月七日。乾いた藁を二束と、苜蓿(うまごやし)をひと握り。


 膝から下の感覚が、朝になっても戻らない。あんなに重いものを、わたしは今日はじめて抱えた。


 職を失ったのも今日のことだ。それなのに、明日も藁を替えに行くつもりでいる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ