1. 三百年、目を閉じていない
鈴が鳴っている。
フィアが生まれる前から鳴っていて、たぶん、フィアが死んだあとも鳴っているのだろう。
王宮の東のはずれ、〈獣廏〉。夜明け前のいちばん冷える刻限に、フィアは古い藁を掻き出し、乾いた藁を二束、敷き直す。
指がかじかむ。息が白い。それでも掻き出した藁の底からは、ぬるい草の匂いが立ちのぼってきて、その甘さだけが、フィアにとっての一日のはじまりだった。
――カン、カン、カン。
隣の〈鈴楼〉から〈覚鈴〉の音が降ってくる。神獣を眠らせないための鈴である。三百年、一度も止まったことがない。
音は屋根を伝って壁を伝って、藁の中まで沁みてくる。フィアの背骨のあたりに、いつのまにか居場所を作っている音だ。
夜番はいつもフィアである。ほかの係は交代で眠るけれど、フィアには替わってもらう理由がない。
――生まれてから一度も、眠ったことがないからだ。
医者は昔、「眠りを知らぬ子」と言ったらしい。目を閉じても、意識がどこへも落ちていかない。まぶたの裏が暗くなるだけで、朝までずっと自分がいる。
だから夜がいちばん長い。長い夜のあいだ、フィアはこの鈴の数を数えている。
一度でいいから、と思う。一度でいいから、みんなが毎晩行っている場所へ、行ってみたい。
藁の向こうで、銀灰の巨体がゆっくりと身じろぎする。
「おはようございます、暁の獣さま」
返事はない。神獣は人の言葉を話さない。
ただ、こちらを見る。
その目が、赤い。
白目のほうまで細い血の筋が這って、まぶたの縁が腫れている。まつげの先が乾いて、ところどころ折れている。フィアは十七年ぶん、この目を見てきた。年々、赤みが濃くなっていく。
「今日は、藁を多めに敷いておきました」
巨体は答えない。
「昨日の雨で、下のほうが湿っていたので」
鼻先が、わずかに藁へ寄る。
「水も替えました。桶ごと洗ってあります」
「それから……あの、今日は戴冠式だそうです。人がたくさん来ます」
温い。獣の息は人より熱いと決まっているけれど、今朝のそれは、竈の石に手をかざしたときの熱さだった。フィアはそっと前脚に触れ、指の腹で毛の向きを整える。
「……眠れなくても、柔らかいほうが、いいと思うので」
わかっている。柔らかさは、眠りの代わりにならない。
それでも、ほかにできることがない。剣は握れない。魔法も使えない。フィアにできるのは、藁の根元を奥にして、水を替えて、糞を掻き出して、また藁を敷くこと。それだけだ。
フィアは寝床帳を開き、いつもの一行を書こうとした。
本日、獣廏に異状なし。
――ペンが、止まる。
異状はある。ずっとある。ただ、誰もそれを異状と呼ばないだけだ。
◇
「寝床係フィア。本日付をもって、当該職を廃止する」
朝の光が石畳を白く切るころ、〈常働寮〉の書記が獣廏の入口に立っていた。羊皮紙を胸の高さに掲げ、抑揚のない声で読み上げる。
「神獣は眠らせない。ならば寝床も要るまい。以上」
「……はい」
「不服の申し立ては、三日以内に」
「ありません」
「早いな。理由を聞いても?」
フィアは藁を握ったまま、少しだけ考える。
「わたしが不服を申しても、あの方は眠れませんので」
「……眠れぬ、とは」
「三百年です。あの方は三百年、一度も目を閉じておられません」
書記が、羊皮紙の縁を指で押さえた。
「……知っている。だから鈴がある」
「はい」
「……そうか」
書記は何か言いかけて、やめた。羊皮紙をフィアの手に押しつけ、足早に去っていく。
フィアはそれを二度読む。役立たず、とは書いていない。無能、とも書いていない。ただ、寝床が要らないと書いてある。
――それだけのことで、この獣廏での十七年が終わる。
胃の底が、すとんと冷えた。悲しいのかどうか、自分でもわからない。悲しいというのは、たぶん、もっと熱いものだ。これはただ、床が一段抜けたような感じである。
ただ手のひらがひどく空っぽで、気がつくと藁をひと握り、強く掴んでいる。
◇
その日は、新しい女王の戴冠の日である。
王宮前の広場に人が詰めかけ、楽隊が並び、〈暁〉が引き出された。神獣が姿を見せるのは国の大事のときだけで、三百年、この国はそれを「めでたい」と呼んでいる。
旗が鳴る。銅鑼が鳴る。硬貨に似た金色の紙片が、屋根の上から撒かれていく。
異変は、口上の途中で起きた。
御獣官長ドランが儀礼の言葉を読み上げている最中、銀灰の巨体が、ぐらりと傾ぐ。
「――伏せろ!」
声が飛ぶより早く、前脚が石畳を割る。
悲鳴。人の波。魔導師の張った盾が飴のようにひしゃげ、騎士が三人まとめて宙を舞う。撒かれたばかりの金の紙片が、割れた石の粉と一緒に舞い上がった。
「覚鈴! 覚鈴を鳴らせ!」
「鳴らしております!」
「もっとだ、もっと強く!」
「三十九年、この強さで鳴らしております!」
鈴楼から、木槌の音が折り重なって降ってくる。
「増やせ! 鈴を増やせ!」
「もう十六です、これ以上は吊るせません!」
カン、カン、カン、カン。
鈴の音が広場に降り注ぐ。神獣は、それを聞いていない。三百年効いてきた音が、今朝はもう届いていなかった。
「……効かん」
ドランが呆然と呟く。
「長官をお呼びしろ!」
「橋のほうへ逃げるな、人が詰まる!」
「誰か、寝床係を呼べ!」
「そんなもの、今朝クビになったろうが!」
フィアは走っていた。
考えていない。判断もしていない。ただ十二年、五つのころからこの獣の寝床へ手を入れてきた身体が、勝手に動く。
あの目が、限界だったことを知っている。まつげが折れていることを知っている。昨日の夕方、水を飲む舌が震えていたことも知っている。知っていて、書かなかった。
この獣廏で育っている。物心つく前から藁の匂いの中にいて、手伝いをはじめたのは五つのころ。正式に係を継いだのは、二年前だ。
「暁の獣さま」
崩れ落ちてくる巨大な頭の下へ、フィアは自分の膝を差し入れる。
骨が軋む。息が詰まる。石畳ごと潰されるかと思う。
――重い。
それだけしか、思えない。
銀灰の獣は、まばたきを二回して。
眠った。
◇
同時に、王都から光が消える。
広場を囲む〈魔導灯〉が、端から順に落ちていく。悲鳴の質が変わった。〈魔導井戸〉の噴き上がりが止まり、水路の水がすうっと痩せる。
そして、遠くで石の落ちる音。
「橋が――〈東橋〉が落ちたぞ!」
「浮石だ、三本とも止まってる!」
「陛下をお下がりに!」
「灯りを! 誰か灯りを持ってこい!」
人の波が、割れては寄せる。
「水路が止まった、井戸へ走れ!」
「魚市の氷が溶けるぞ!」
「橋を渡るな! 石が落ちてる!」
「医院はどうなる! 癒しの手が止まっているぞ!」
誰もが叫んでいる。誰も、フィアを見ていない。
膝の上には、王国の魔法を全部止めた重さが載っている。
温かい。
骨が痛い。膝から下は、もうとっくに感覚がない。それなのに、フィアは動きたくなかった。十二年、藁を敷いても敷いても一度も沈まなかったこの獣が、いま、自分の膝の上でだけ沈んでいる。
それから、声がした。
どこか深いところで、水の底の鐘を撞いたような。
「――世界の枕を、やっと見つけた」
目の前が、銀色の草になる。
どこまでも続く草原。風がない。光源もないのに明るい。その真ん中に、黒い髪の青年が一人、素足で立っていた。
◇
麦の月七日。乾いた藁を二束と、苜蓿をひと握り。
膝から下の感覚が、朝になっても戻らない。あんなに重いものを、わたしは今日はじめて抱えた。
職を失ったのも今日のことだ。それなのに、明日も藁を替えに行くつもりでいる。




