ゲルでの対話、宇宙に行く理由、バター茶の香り
メリルはゲルの中でツァイを飲んでいる。ツァイを飲んだのは初めてだが、コッテリしていてなかなか美味しい。
ツァイを出してくれたのは、となりのゲルの人で、リョージは何か話し込んでいたが、メリルには何を言っているのかわからなかった。ハルハ語ですよ、とリョージは言うのだが、そんなものメリルにはわかるはずもない。
リョージは英語も堪能だったから、メリルが日本語を話していたのは最初の面会時だけだった。メリルが下手な日本語を話すより、そのほうがいろいろ簡単だったのだ。
にしても、とメリルは思う。日本に来てから何人もの人と会ったのだが、人が変わるたびに話は滞り、ぜんぜん先に進まなかった。それが、リョージとは昨日会ったばかりなのに、その夕方には東京からウランバートルへと飛び、飛行機から降りるや否や、大使館に出してもらったハイランダーに載せられ、マルティナの住むこのゲルまで連れてきてもらった。もう、マルティナには話が済んでいると聞くし、あまりの手際良さに逆に途方に暮れてしまう。
「あのー」メリルは恐る恐るリョージに聞いてみた「マルティナに会わせてもらえるのはありがたいんだけど…、こんないろいろやってもらって、その…、大丈夫?」
リョージはメリルの問いに目をまんまるにした。それから、ゆっくりと話しをしてくれた。
「大丈夫か? と聞かれたら、あまり大丈夫ではないかもしれません」リョージは言った「ただ我々もドゥーマ・アッシャー博士、と言うか博士のいる天体については非常に興味があるのです。我々というのは、もちろん日本政府のことです。博士のおられるところは、言ってみれば、途方もないところでして…。何かの伝手でもあれば、是非にも絡んでおきたい。まあ、そう考えるのも無理はないと思いますよ」
「あたしなんか、伝手にはならないと思うんだけど、その…、手紙のキッショウとか? そっちのほうに聞いたほうがいいんじゃない?」
「その吉祥家ごと宇宙に行ってしまいましてね」リョージは笑んだ「あなたは大事な伝手だと思いますよ」
「あたし日本語はよくわからないんだけどね」メリルは食い下がった「昨日からリョージ、いろんな人と話してるけど、なんかリョージって、その日本政府の人ってのと、あまり、上手くいってないんじゃないの?」
「上手くいってない?」
「なんか、会う人会う人、そっちの知り合いみんな困った顔してる」
リョージはメリルの問いには答えず、ゲルの出入口を見やった。
「蹄の音だ」リョージはメリルに告げた「ファリウスさん、帰ってきたのじゃないかな?」
ゲルに入ってきたマルティナは、メリルに寄ってきて抱きしめた。
「やあ、メリル、すまなかったね。何も言わずに」マルティナはメリルに抱きついたまま謝罪の言葉を口にした「それにしても、まさかここまで来るとは思わなかったよ」
メリルは、突然のマルティナの抱擁と謝罪に驚いて、声も出せずにいた。
マルティナは自分のことなんか忘れていると思っていたのだ。風変わりではあるが、ただの出資先の1人、その程度の扱いだと思っていた。今日だって、自分から事情を説明しなければ誰だかわからない、その程度の付き合いだと思っていた。でも、マルティナはメリルを覚えていた、そのことにメリルは戸惑った。
「遠いところ、ご苦労様。日本からだって?」ゲルの入り口をくぐって大男が現れた。背は高く、小山のようにがっしりとした体躯をしている。マルティナに抱きつかれて身動きの取れないメリルの代わりに、リョージが立ち上がって、大男と握手した。
「はじめましてボロルマーさん。日本経済産業省の二瓶亮二です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」ボロルマーは、なぜ日本政府が? などと野暮なことは尋ねなかった。冷めたバター茶を下げ、自分たちの分も含めてツァイを4つ淹れ直してテーブルに置いた。
「ドゥーマ・アッシャー博士に会いたいって?」屈託なくマルティナが言う「やっと、その気になったんだな」
知ってたの? メリルが言う。マルティナは頷いた「あんなオモチャ、すぐ飽きると思ったのに、意外と粘るんでそっちのほうが驚いた。あんなものより博士のほうが、ずっと面白いだろ?」
そうだ、そうなのだ。
博士がいたときは楽しかったのだ。
「で、リョージ」ボロルマーはリョージに目配せする「キミの目当ては誰だい? キミの奥さんは吉祥の一族だと聞いたよ」
「妻は関係あるような無いような」リョージは適当に誤魔化したが、ボロルマーの問いには、はっきりと答えた「会いたいのは吉祥頑頭です」
「ユーデ・ガントー」ボロルマーはピューと口笛を吹いた「そういうことなら協力しないわけにはいかないな」
「そのとおりよ」マルティナも嬉しそうだ「とは言っても、あたしたちにできそうなことはあまりないかな?」
「シオーネ・セベレ氏に会いたいのです」
「それこそ、日本政府から来ました、で良いだろう? トンガは大歓迎だと思うぞ」
「トンガ王国の次期国王ではなくて、アレシボ茶会のセベレ氏です」
「次期国王? あいつはそんなこと言ってなかったが? 王位継承順位も気が遠くなるほど下の方だと言ってたし」
「トンガの王族の話は知りませんし、トンガの国民が何を考えているか、みたいなことはよくわかりませんが、周辺国やトンガの友好国の間では、セベレ氏の国王就任が有力視されてましてね。世界の都合というヤツです。当事国にとっては甚だ迷惑でしょうが、話のわかる相手というのは…、とくに執権者の近くいる頭の良い人間は、他国に重宝されます」
「君主は無能なほうが操りやすいんじゃないのか?」
「昨今は傀儡政権なんてのは、流行らないんですよ。みんな自国のことで精一杯で、自立して勝手にやってもらったほうが面倒が少ないんです」
「世知辛いことだ」
「まあ、そうですね」
「セベレにあたしたちから連絡取れと言うこと?」
「できればそうしていただきたい。無理強いはできませんが」
「まあ、あたしたちに頼むよりはセベレに頼んだほうがいいわ。彼は頭良いし、茶会の中では一番ぐらいに仕事できる。ことによるとステイより頭良いかもしれない」
「自己評価が低いのが玉に瑕なんだが、頼み事するのならうってつけだ」
メリルを置いて話がどんどん進んでいく。そのこと自体に不満はない。メリルなんてそんなもんだ。でも、メリルにはどうしてもわからないことがあった。
「マルティナさん」メリルは空気も読まずに問いかけた「どうして宇宙に行かなかったの? 亜空間ゲートは開いたんでしょう?」
マルティナとボロルマー、2人は顔を見合わせた。ボロルマーが無言で目配せし、マルティナはそれに従った。
「確かにゲートは開いた」マルティナは言った「でも、あたしとボロルマーは、そこで気づいてしまった。あたしたちには宇宙に行く理由がなかった。メリル、あなたとは違ったのよ」
「友だちに会いたいとは思わないの?」
「そう、いまならそれが理由になる。でもね…」ここでマルティナは、ちらとボロルマーを見た。ボロルマーは口を一文字につぐんでいる。やはりマルティナが話したほうが良い。
「そのことは、南極から帰ってきてから、ボロルマーともよく話した。宇宙に行く理由を探してみよう、って。こんなところで遊牧民の暮らしみたいなことしながら…」
「…こんなところはないだろう」
「ああ、悪い。そういう意味じゃない。ここは良いところだよ」とりあえずボロルマーを宥めたマルティナは、ふたたびメリルに向いた「それでね。メリル、あたしたちは気づいてしまった。ここで暮らしながら気づいてしまったんだよ」
「気づいた? 宇宙に行く理由を?」
「いや、それは、まだわからない」マルティナはハッキリと否定した「気づいたのは、地球にとどまる理由もないということ。宇宙に行く理由もないけど、地球にいる理由もなかった。けっきょく、理由なんか必要なかったんだよ」




