シンタグマメソドロジー
「あら、リリオン、ご機嫌ね。マルちゃんも」
ユータのお母さんは、散歩中のリリオン、マル母子に声をかけた。
リリオンはマルにハーネスを繋いで左手でしっかりホールドしている。マルが何かに気を取られて走り出しても、ハーネスがしっかりとマルを止める。
「ふふふ」リリオンは意味深げに笑った「ユータちゃんが何かやってるみたいだからねぇ。それとも博士かな? たとえ他人のシンタグマメソドロジーであっても、通常空間よりはずっと居心地が良い」
「やっぱり、だいぶ違うものなんだ」
「違うね。頭がスッキリするもの。通常空間にもだいぶ慣れてきたけど、やっぱり世界が少しでも歩み寄ってくれるなら、そのほうが楽だ。でも、アタシのためにやってくれているのじゃないよね」
まあね、とパレアナは言った「ここに自力で来れた人たち、手助けぐらいはあったと思うけど、そういう人には必要ない措置よ。それ以外の動物たちや植物、地球で生きてきて連れて来られた者たちには一時的に退避措置が必要なの」
「たとえば、こういう子?」
リリオンは目の前を飛ぶ蝶を、パッと右手で掴んだ。マルは見たことのないママの素早さにびっくりしている。
「そう、そういう子たち」パレアナは否定しなかった「みんなそう、地球に守られていた生物たちにはここのナマの環境はキツすぎる」
リリオンは掴んでいた蝶を離した。マルの横を素通りして逃げる。マルもママのように手を出してみるが、ヒラヒラ舞う蝶を掴むことはできない。
「何がキツいのかしらね」
「大きくは重力制御とその余波、全体的には亜空間と超空間の全て。要するに地球型生命体はまだ宇宙に出る準備ができてなかったってこと」
「それでシンタグマメソドロジーなのね。発達途上の精神体のゆりかご」
「本来なら何億年とかかかる変化を一足飛びに駆け抜けてもらわないとね」
「お肉も野菜もケーキも食べられなくなったら、すこし淋しいものね」
そんな世間話しをしている2人にハツミが出くわした。
「いまのお話し本当?」
急に話しかけられたリリオンとパレアナは面食らう。
「いまの話って?」
「ああ、ごめんなさい」ハツミも恥ずかしさに顔を真っ赤にする「お肉とお野菜が食べられなくなるかもって…」
「それなら大丈夫」パレアナは言う「コマチ先生がなんとかしてくれるし、そもそも、もしかしたら、って話で、当面は大丈夫だから」
「よかったー」ハツミは胸を撫で下ろした「コマチ先生におまかせで良いんなら心配ない。私って豚肉の生姜焼きしかまともに作れるものないから、お肉なくなったらもう亮二さんに出せるものないの」
「豚の生姜焼き…」
「…しか作れない?」
「ええ、亮二さんの好物なの。あ、肉だけじゃないのよ。ちゃんときざみキャベツと4つに切ったトマトもつけてるの。でも、毎日同じだと飽きるかもと思って、シノノメちゃんに貰った西京漬とか出してみたけど、亮二さん、あまり食べないの。だから、お肉とキャベツとトマトなくなったら困るなあって思って…、でも、なくならないんなら、安心、安心」
ハツミは、教えてくれてありがとう、と2人に礼を言い、マルにバイバイと手を振り行ってしまった。マルも、あいあい、と手を振った。
「…毎日」
「毎日、豚の生姜焼きを…」
「…毎日」
「そんなので生きていられる人間いるのか?」
新手の惚気か何かか、とリリオンとパレアナは顔つき合わせて思案したが、結論はでなかった。
「あれ? そう言えば」
リリオンはマルを抱き上げ、正面で顔を合わせた。
「マル、いま、しゃべったよね。マル、バイバイ、いや、アイアイ、って、ね、ね」
顔を真近につけてマルに話しかけるリリオン、
なんで、はじめてがママじゃないの?
ね、ね、マル、ママって言って
マルはギャギャっと笑いながら、そっぽを向ける。リリオンが必死になればなるほど、面白がって口を真一文字に閉じて話そうとしない。
ああ、完全に遊ばれてるな、パレアナは思った。それと同時に、こんな赤ん坊にも効くんだ、さすが轍の親戚、吉祥の女恐るべしだわ、と戦慄した。
「ボクたち、いま、何か、そう、軟めのシンタグマメソドロジーみたいなものの中にいるらしいな」
ジャックの言葉にルーガが応じた。
「基本設計はドゥーマ博士だ。学園祭のお化け屋敷、あれテストだったらしい。行動に対して応答する環境」
「行動起こした本人でなく他の誰かに応答するっていうのがね」アイジュマルが指摘する「なんとも博士らしい、と思う」
「それをメリルが手伝って大型化した」ティナがうれしそうに言う「メリルはすでに博士が昔作った環境加速装置を大型化したことがあった。だから、お手のモノだったんだろう。あの子はなかなか自分の正体に対峙できないでいたから、この仕事で少し自信ついたらいいな」
「あれは博士が悪い」ルーガは気の毒そうに言う「単位もらえないのは普通に出来が悪いと思うだろうに。誰にも単位出したことない、なんて教授としては失格だろう? 教え子を誰一人として育てることができなかったんだから」
「博士としては、そんなものでしょう」アイジュマルが元大学関係者として庇うそぶりを見せた「たまたま間違った地位にいただけなのよ。そのせいで、みんな不幸になっちゃったのはいただけないけど…」
「博士のことはともかくとして…」口火を切った格好のジャックは、実はずっと高揚していた「ボクらは憧れていたシンタグマメソドロジーの中にいるんだ。これは、本当に凄いことだ」
ありゃ、とその場にいたジャック以外の3人は、思わずヘンテコな顔になった。
「あ、オレ、納屋に作りかけの蹄鉄置きっぱなしだ」ルーガはティナにこっそり目くばせした「誰か踏んづけたら大変だ。片付けなきゃ」
「そうね、蹄鉄20個もあるもの、ひとりじゃ大変でしょ、手伝う…」
あ、え、え、と、たじろぐアイジュマルを、その場にジャックと残し、2人は大慌てで部屋の外に出てドアを閉める。そして、いちもくさんに駆け出した。
「ちょっと、ね、ルーガ」全速で走りながら、やっとルーガに追いついたティナが息をつぐのも大変そうに話す「アイジュマル可哀想じゃない。ひとりだけ残して」
「…アイジュマルなら、なんとかするだろ。オレじゃ無理だ」
「あたしだって無理だよ、ジャックのあの目、見た?」
「見たから逃げた。シンタグマメソドロジーに思い入れがあるのは知ってたけど、あれほどとは…」
歓談室が見えなくなったところで、ようやく、足を止めて息を整える2人。
「こんなとこで、止まって。蹄鉄どうすんの? 納屋は別方向だけど?」
「そんなのデタラメだ。ティナこそ蹄鉄20個ってなんだよ。そんなに馬いないだろ?」
「話し合わせてあげたんでしょうが、感謝してほしいよね」
「ああ、感謝、感謝、大感謝だ。でもジャックは、ヤバい」
「何であんな、シンタグマメソドロジーに?」
「ジャックの本来、なれたハズの自分がそこにいるから」
「え?」
「ベッコウはアユタヤにいたんだよ。ホンモノのデザイナーズチルドレンだ。ジャックの手の届きそうなところにシンタグマメソドロジーはずっとあった。まあ、タイ王国の領内にシンタグマメソドロジーに向かう入り口があっただけで、物理的にも数学的にも、ぜんぜん遠いんだが…」
「でも、ずっと、ジャックは見てた。そうね、ずっと見てたのね」
「オレたちは、まがいものだ」
「ええ、できそこないよ」
「でも、完全な、本物のデザイナーズチルドレンがシンタグマメソドロジーの中にいたんだ」
「憧れるな、というほうが無理ね」
アイジュマルはしばらくの間、口もきいてくれなかった。
まあ、しかたない。
ティナは自分が悪いことは理解していたので、謝罪だけして、そのままにした。
ジャックとはシンタグマメソドロジーの話しさえしなければ、何でもなかった。
後日、アイジュマルと仲直りしてから、ほんとうにたいへんだったのよ、と言われたことがある。
もちろん謝ったが、どうたいへんだったか、ティナは絶対に聞かなかった。
アイジュマルはまた怒ったが、こればっかりは、ティナにはどうしようもない。




