円と点、亜空間と超空間、交錯する次元と時間とヒスパニオラ
「ほあぁぁぁ」
ベッコウは立膝を立ててベビーベッドの枠に捕まっている。こうすると赤ちゃんの顔がとてもよく見える。ベッコウは小一時間、飽きもせず、赤んぼうの顔を見つめていた。
「ベッコウちゃん、いつもマルの相手してくれてありがとう」
リリオンは欠伸混じりにベッコウに礼を言う。まだ眠いらしい。
「大丈夫だよ。ママ、まだ寝てていいよ」
ベッコウは最近、リリオンのことをママと呼ぶ。マルのママ、という意味だけど、密かに自分のママという意味ものせていた。
「そうね。まだお腹はすいてないみたいだし、お姉ちゃんがついてれば安心。アタシ、も少し寝るわ」
「オレたちも見てるから。寝てなよ」コーラルも言う「パパもママと一緒にいっていいぞ」
オレたちも、というのはアイボリーも含めてらしい。パパと呼ばれたインチは、手持ち無沙汰でベッドの回りをウロウロしていたのだが、コーラルに言われて、ぱあっと顔が明るくなり、ひょこひょこリリオンの後ろをついていった。
「マルはよく寝るねえ」アイボリーが嬉しそうに言う「さすがリリオンの子だ」
「ママは関係ないよ。赤ちゃんは寝るものだよ。おっぱい飲んでないときは寝るの。飲んでても寝るの」
「起こすなよな。オマエはお調子モンだから、あまり騒ぐな」
「起こしたら、どうなるのさ?」
「泣く」
「泣く」
「泣いたらどうなるの?」
「ママを呼びにいかなきゃいけない。そうしないと泣きやまないから」
「ああ、それは困るねぇ」アイボリーは本当に困った顔になった「そんなことになったら大変だ。アイムおとなしく見てるよ」
「あれ?」
学園の中央、管制室の机にゾウのぬいぐるみが、ちょこなん、と置いてあり、ポイントは驚いた。
「クジラになって空飛んでるんじゃなかったの?」
「もちろん飛んでるさ」オールインワンは短めのゾウの鼻で天井を指す「俺にとって、2体の端末を操るなんて造作ないことだ。空は快適だよ。でもお前さんたちと話すにはゾウのほうが楽なんだ。それだけのことさ」
なるほど、とポイントは腕組みする「それなりに便利そうだ。ボクもそのうちやってみよう」
「ぜひ、お願いするよ」ユータがシノノメと管制室に入ってきた「今すぐにとは言わないけど、ポイントの場合、できたほうがいろいろ便利だから」
「ユータはできる?」
「できるよ」
「じゃあ、やってみる」
「そうあわてずに」ユータは軽く牽制した「ボクもオールインワンも一人格で10年くらい固めたんだ。それから分離した。オールインワンはアイボリーとの共生が長かったことを考えると、ポイント、キミはもう少し待ったほうが良い」
「そういうものなんだ」ポイントは不満げだ。
「そういうものです」シノノメも進言する「シノノメはシノノメの中にごちゃごちゃたくさんいますけど、分離はある程度安定してからのほうが良いですよ。あまり焦ると抜けたところが穴みたいになります」
「今日はその話じゃない」ユータが話題を変えた「もうすぐドゥーマ博士が来るから。ポイントの本体がこれから移動して、ボクらがそれを追いかける。その話しをこれからしよう」
「一緒に行ければいいんだけどね」
「さすがにね。ヒスパニオラ側の用意が間に合わない」
すまん、すまん、と、いきなり詫びながら現れるドゥーマ博士「出がけにコマチが頭痛いって言うから、ケアしてた」
「大丈夫なんですか? コマチ先生」驚いたシノノメが声を上げる。
「まあ、大丈夫だろう。脳細胞が増殖期に入って、頭蓋を圧迫してた。この間の刺激がデカかったな。一部亜空間に逃したから、もう大丈夫だ」
「あまり大丈夫そうには聞こえないんだけど」ユータも心配そうな目で博士を見る。
「もう何度もやってるしな。慣れるってことはないが、危険はほとんどないよ。でも、早く終わらせて帰るにこしたことはない。さっそく始めよう」
「じゃあ、ちゃちゃっと終わらせよう。ちゃちゃっと」オールインワンは部屋の中に太陽系図をヴィジョンで展開した「いまいるの、ココな。小惑星4、通称ベスタの隣り72万4800キロメートル。ようするにマッハポイントのごく近傍だ」
オールインワンはポイントに向けて、ひょい、と鼻を上げる「ポイントは次、どこ行くんだ?」
「このビューにはないな」ポイントは少し困っている「もっと別の…、銀河系全図、広すぎるか…、そうだ地球視点の天球図出してくれる?」
「あいよ」
部屋の中に展開されていたヴィジョンが切り替わる。現在地で見るヒスパニオラの夜空とは僅かに異なる星空が映し出された。
「ここ」
「くじら座τか」
ポイントが指差した地点を見てユータが声を上げた「なかなかに意味深な地点だな。移動時刻は?」
「いまからだいたい十七分後だな。移動後はヒスパニオラと11・9光年離れるから」ポイントは少し顔を下に傾けて自分の体を眺めた「この身体と連動するのはいまのやり方では難しい」
「同期は超空間接続を使う」ドゥーマ博士が説明した「何てったって超空間だからな。太陽系内では無理だ。いったん同期してしまえば、多少の揺らぎは許容できるが、ヒスパニオラが太陽系全体の重力偏差を気にせずにすむ程度の距離、最低でも50天文単位ぐらい離れてからだな」
「エッジワース・カイパーベルトのあたりだね」
「そういうことになる」
「しばらくお別れかな?」ポイントは少し悲しげな表情をした「せっかくマルが生まれたのに。マルは星の誕生よりずっと楽しい。もう少し見ていたい」
「お別れと言っても、すぐ会えるよ」ユータが言った「50天文単位なんて言うから遠そうに聞こえるけど、ここからはテストもかねて超空間航法をガンガン使っていくから、あっという間だ。くじら座τまでだって、それほどかからないよ」
夜空の星がきれいだ。
コーラルは子供部屋の出窓に頰づえをついて外を眺めていた。
「何見てんのぉ」ベッコウが擦り寄ってくる。
「くじら座τ」
「ああ、これから行くとこ」ベッコウも眼鏡を外して夜空を見上げる。ベッコウが観るというのは他の人が見るのとはちょっと違う「ポイントは一足先に行っちゃったんだっけ?」
「そうみたいだな」コーラルはベッコウのほうに顔を向けた「思えば、ずいぶん変なことになっちゃってるよな。オレたち」
「そうかもー」ベッコウは笑った「でもデザイナーズチルドレンだしね。デザイナーズチルドレンの生涯なんてよくわからないけど、意外とこういうのが普通だったりして」
「そっからかぁ」コーラルは手を上げ、大きく伸びをした「じゃあ、もうどうしようもないな」
ベッコウは伸び上がったコーラルの両手を見て、ふと、疑問に思ったことを口にした「最近、ダンベルトレーニングしないよね。何で?」
「成長曲線が変わった」コーラルは両腕を下ろし、ダンベルを構えるマネをした「いままでならトレーニングで筋細胞の個数が増えたけど、これからは細胞の強度が増すだけだ。考えるのに細胞強度は無駄だから、トレーニングやめた」
コーラルは筋肉と運動神経でも思考できる。脳細胞の代わりに筋肉細胞で考えるのだ。筋肉細胞数が増えなくなったから、トレーニングの必要がなくなったとコーラルは言う。
「でも、わかんないよ。コマチ先生みたいに細胞増えだすかもしれないじゃない?」
「あんな超人類みたいな人と一緒にすんな。もともとあの人、ドゥーマ博士と問題なく話せるくらい頭良いんだ。オレはごくごく普通のデザイナーズチルドレンだっての」
ごくごく普通のデザイナーズチルドレン、という言い回しが妙すぎて、ベッコウは思わず吹き出してしまった。
「何だよ。そこ笑うとこじゃないだろ」
泣いてる、ベッコウはコーラルの抗議を無視して立ち上がり、子供部屋の出口に走って行った。ベッコウがドアを開けた時、コーラルにも弱々しい赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「マルか」コーラルは独りごちた「マルもタダものじゃなさそうだけど、姉ちゃんがベッコウじゃぁ、苦労するだろうなあ」
コーラルはマルのことを本当に心配していた。自分もマルの姉であることを、すっかり棚に上げて、マルのことを案じていたのだ。




