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プールで死体を沈めるアルバイト


 これはまだ私が大学生の頃、昭和三十九年か四十年だったと思います。学友が私に「アルバイトを一緒にやらないか」と誘ってきました。宿直の仕事で何人でやってもいいが一日六千円だと言います。当時の普通の日雇いの日給は四百円だったので、破格の金額でした。私は二つ返事で引き受けました。


 私の故郷は太平洋戦争で焼け野原になりました。家財や土地は何もありません。だから実家からの仕送りというものはほとんどと言っていいほどありませんでした。雀の涙ほどです。私は様々な仕事を経験しました。土方どかたや新聞配達、町で求人の貼り紙を見つけてはそれらをこなしていたので、大抵たいていのことならやれる自信がありました。


 その日の講義が終わると、私と学友は二人で電車に乗りました。この辺りはほんの何年か前までは汽車だったのですが、この時代、町も生活も見る見ると変化していきました。終点に着くと私たちは電車から降りました。線路はこの先へも伸びているのですが、そこから先はまだ架線がなく、私たちは汽車に乗り換えもう一駅だけ乗りました。


 駅から出て歩いて向かった先は、戦後多くの師範学校や工業、農業専門学校、医科大学が合併してできたまだ新しい大学の医学部でした。三四階建てで木造の瓦葺かわらぶきだったと思います。校舎の天辺には時計が付いていました。


 私たちは松の木に囲まれたその薄暗い校舎へ入りました。受付なんてありません。廊下の脇には雑然と木箱や藁半紙わらばんしの束が積み重なっていました。私たちは少し不安を覚えながら人気ひとけを求めて彷徨さまよい歩き始めました。人はすぐに見つかりました。奥の階段から下りてくる人に訊くと部屋の場所を教えてくれました。部屋に入ると草臥くたびれた背広を着ている男性が帰り支度をしています。彼は私たちを見るや嬉しそうに「よく来てくれました」と言って、私たちを地下室に連れて行きました。


 廊下よりさらに暗い階段を下りた先に地下室がありました。がらんとした殺風景さっぷうけいな部屋です。アルコールの臭いがむわっと立ち込めていました。フェノールのような刺激的な臭いも少し混ざっていたかもしれません。白熱電球が何か所かにぶら下がっているだけで始めは良く見えませんでしたが、部屋の真ん中に大きなプールがあることが分かりました。少し深めの銭湯の浴槽のような感じです。大きさはよく分かりません。暗かったし比較するものがなかったからです。しかしだいたい今の学校のプールの半分くらいの大きさだったと思います。


 背広の男性は壁に立てかけてあった棒を二本とエプロンのような作業着を取って私たちに渡しました。棒の先を見ると麻布が巻き付けられ紐で固く固定されていました。彼が言うにはこうです。ここには医学部の実習で使う解剖用の遺体が運び込まれている。昼間はもちろん宿直も職員が交代でやっているが、今日は宿直できる人間が誰もいない。そこでアルバイトを頼むことになったと言います。彼は「見ていてください」と言うと、棒を持ってプールに近づきました。プールの中はいくつかに仕切られていて、その中の一つに浮いていた死体近くのふちに立ちました。私と学友は息を呑みました。「時々浮いてきますのでこの棒でこうしてください。浮いたままだと死体が乾燥していたんでしまいますから」と言って彼は棒で死体をプールの底の方へ沈め込みました。そうすると黒い水面は電球の光が波紋を描くだけで死体は何も見えなくなりました。


 背広の男性が帰ると、地下室には私と学友だけになりました。私たちは少し見廻りましたがすぐに壁にもたれ掛かって座りました。そばには入って来たものとは別の両開きの扉がありました。鍵はかかっています。きっとエレベーターか外につながる通路なのかもしれません。プールには近づきたくありませんでした。だから壁にピッタリくっ付いていたことを覚えています。彼は少し震えているように見えました。寒かったのもあると思います。壁や床のタイルも、持っていた棒もひんやりとした感触でした。


 プールからはぷくぷく、ぽこぽこ、しゃわしゃわといったかすかな音が絶え間なく聞こえてきました。時間の感覚はとっくにありませんでした。ただ一刻も早くここから出る事、朝になる事だけを考えていました。


 その時、ざばぁと音が響きました。私は動きませんでした。彼が動かないものかと見ると、彼もまた私の様子をうかがっていました。私たちは一緒に立ち上がりプールの縁に近づきました。眼を凝らして見ると男性の頭から臀部でんぶまでが水面の上に出ていました。私は息を止めてそれを棒で押し沈めようとしました。彼もそうしました。しかし何度やってもすぐにまた浮いてきてしまいます。息が続かないので一回プールから離れて呼吸し直しました。もう二三回工夫しながら押していると死体はくるりとひっくり返りました。眼を閉じた男性の顔から局部、四肢が露わになりました。皮膚はアルコールのせいか薄白く不透明に光っています。腹部を棒で押しました。五十センチ位沈めた所でごぼごぼと泡だけが水面に浮かび上ってきました。私たちは壁まで跳ね戻って息を吐きました。


 再び座って時間を潰していると、彼が突然「すまない。帰らせてくれ。六千円は君一人で貰ってくれ」と言いました。見れば青白い顔をして息が絶え絶えです。私は彼を心配しました。本来ならば彼に付き添い介抱したいところでもあり、私も外に出たい気持ちがありました。しかし彼は「一人で何ともない」「宿直はこの場を離れる訳にはいかないから」「本当に申し訳ない」と言って、私を置いて帰って行きました。


 私はこの地下室に一人になりました。いえ、正確には一人ではありませんでした。プールの中に何人もの人が沈んでいたからです。彼が帰ってからも私は長時間耐えました。


 薄暗い地下室、電球の光が届かない場所はまるで奈落の底までつながっているかのようです。プールからは絶え間なく水音みずおとが聞こえてきます。一人になると、室内にはアルコールの臭いに加え温泉のような、肉が発酵したような臭いも混ざっているのに気付きました。呼吸するたびにそれが私の体内に入ってくることが不快で、なるべく呼吸をしないようにしました。


 私は何人もの人を水に沈めていくうちに、これは現実なのだろうかと疑いの念を覚えました。私はじっと手を見つめました。それを握ったり開いたりして感覚を確かめました。また一人死体を沈めた時、大きな泡が弾けました。咄嗟とっさに身をかわすと、その拍子に棒に付いていた液体がねて私の口に入りました。私は吐きました。単なる苦味やエグ味以上の醜悪な感覚が全身を走りました。鳥肌をたてて床に手を就き、涙目になって口の中の水分がなくなるほど吐きました。吐いても吐いても嫌な感じは取れませんでした。


 どこかで口をすすごうと頭を上げまわりを見ると、プールの水面から沢山たくさんの人の頭が出ています。全員私の方に顔を向けていました。私は叫ぶことも出来きず、手と足を使い少しでもプールから離れようとしました。私は彼らに背中を向ける事が出来ませんでした。向けた途端、彼らにプールへ引きずり込まれると感じていたからです。私は逃げようと思いました。しかしこの時点で方向感覚はなくなっていました。当時は緑色に光る非常口のマークなどはあるはずもありません。


 私はプールに浮かぶ頭を見ながら壁を右に右に進みました。もう少しで部屋の角という所で彼らが動いたように見えました。暗い水上の沢山の頭がゆっくり私の方へ近寄ってきます。私は叫び声を上げて彼らから視線を外し壁の方へ振り向きました。そこには扉はありません。私は次の角まで走りました。彼らの頭も私を追って水面をゆっくり移動してきます。いつの間にか彼らは眼を開けていました。ぴちゃぴちゃ音が聞こえてきます。次の角にも扉はありませんでした。私は嗚咽おえつしながら次の角を目指しました。プールの縁に辿り着いた彼らは水面から手を伸ばしそこから出ようとしました。私はやっと扉を見つけました。そしてそれを開けて出ると急いで閉めて、彼らが出てこないようにフックの鍵をかけました。真っ暗な階段と廊下を走り抜けました。途中何度も転んだり箱にぶつかったりしました。玄関の鍵はかかっていません。私はそのまま走って大学から離れました。


 まだ夜中です。駅に行っても汽車はありません。私は近くの公園に行きました。そこの水道で気の済むまで口の中、顔や手を洗いました。私はいくら口を漱いでも嫌な記憶は洗い流せないと悟るとベンチに横になって身を丸くしました。その日は眠りに落ちる事はなく、ただひたすら風や虫の音に怯えながら朝を待ちました。地下室の事は考えないように努めました。


 日が昇り明るくなったところで私は駅に向かいました。そして学友が来ないか待ちました。彼もまた汽車もなく泊る所もなく家に帰るに帰れず何処かで野宿をしたと思ったからです。駅が開き汽車が走り出しました。いくら待っても彼は来ません。汽車は何本も通過しました。


 私は思いました。彼は大学に戻ったのではなかろうか。私は正直戻りたくありませんでした。しかし昨夜の彼の事を思うと心配になって、私はあの校舎に戻る事にしました。太陽が燦燦さんさんと照っていたことが私の恐怖を薄めてくれました。


 地下室へ戻ると昨日の背広の男性がいました。彼は白い顔をして私を見てからプールを見ました。私もプールを見るとそこには沢山の死体と共に私の学友が静かに浮いていました。


 彼の死は事故死という扱いになりましたが、そのあとの大学は大騒ぎでした。外部の学生に死体の管理を任せ、死なせてしまったのですから。私は厳重にこの事を口外しないように釘を刺されました。他にアルバイトをした学生や職員にも緘口令かんこうれいが敷かれました。アルバイト自体なかった事にされたのです。


 おそらく彼は一度大学を出てから私の事を心配して戻って来たのだと思います。彼の死が本当に事故死であるか私には分かりません。もしかしたらあの死体たちが彼をプールへと引きずり込んだのかもしれません。あるいは、あの動く死体は私がアルコールに酔っていただけの幻覚かもしれません。誰にも分らない事です。


 あれから半世紀が経ちました。私もあと何年生きられるか分かりません。今回はこの事実が消えゆく前に、これを書き残しておこうと思った次第です。







注)事実を基にしたフィクションです。

読んでくださりありがとうございました!m(^.^)m


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