第172話 何もしたくない人
第171話では、まだ提出していない旧市場再利用案が「却下」と表示された理由が分かりました。
それは正式な却下ではなく、都市計算系による予測でした。
却下予測は99.2%。
さらに職員は、通る可能性の低い提案を出すだけで評価を落とすことがあります。
そのため、誰にも禁止されていないのに、
「どうせ通らないから、やらない」
という空気が生まれていました。
そこでユアンは、市民百人の署名で提案できる制度を使うことにします。
初日に集まった署名は三十七人。
しかし最後に、一人の少年が言いました。
未配置者の兄、カイは――
「何もやりたくない人」
だと。
第172話では、カイに会います。
カイがいるのは、地下三階ではなかった。
「相談室へ通ってるだけ?」
リリィが尋ねる。
弟の少年――ルカが頷いた。
「普段は外縁第二区」
「一緒に住んでるの?」
「母さんと僕と兄さん」
少し安心した。
閉じ込められているわけではない。
でも。
「ずっと家にいる」
ルカが言った。
「仕事は?」
「ない」
「好きなことは?」
「分からない」
「友達は?」
ルカは答えなかった。
オルガがリリィを見る。
聞きすぎた。
リリィも気づく。
「ごめん」
ルカは首を横に振った。
「みんな聞くから」
その言葉が、少し引っかかった。
***
外縁第二区。
ここも普通の住宅街だった。
古いけれど清潔。
子どもも歩いている。
商店もある。
カイの家は、その一角にあった。
ルカが扉を開ける。
「兄さん」
返事はない。
奥の部屋。
窓際に青年が座っていた。
二十代前半くらい。
何もしていない。
本もない。
端末もない。
ただ窓の外を見ている。
「兄さん。昨日言った旅人」
カイが少しだけ振り返った。
「こんにちは」
リリィが言う。
「……どうも」
返事はあった。
それだけ。
リリィは椅子へ座る。
何を聞けばいい?
何をやりたい?
違う気がした。
困ってる?
それも違う。
だから。
「ここ、座っていい?」
「もう座ってる」
オルガが吹き出しそうになって、こらえた。
リリィも少し笑う。
「そうだった」
沈黙。
長い。
コピも黙っている。
ルカが心配そうにする。
リリィは何も聞かなかった。
五分。
十分。
カイが先に口を開いた。
「何しに来たの」
「分からない」
「変なの」
「うん」
また沈黙。
「旧市場で、何か始めるんだって?」
カイが聞いた。
「知ってるんだ」
「ルカが話してた」
「来る?」
「行かない」
即答だった。
「分かった」
カイがリリィを見る。
「説得しないの?」
「行きたくないんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、行かなくていいと思う」
カイはしばらくリリィを見ていた。
「変なの」
二回目だった。
***
やがて、カイが話し始めた。
最初の仕事は水路点検。
三年続いた。
評価は高かった。
次に、設備管理への昇格を勧められた。
「断った」
「嫌だった?」
「責任が増えるから」
都市は別の道を提案した。
記録管理。
それも断った。
教育補助。
断った。
「何がしたかったの?」
リリィが聞いてから、しまったと思った。
カイは窓を見る。
「別に」
「ごめん」
「いいよ」
少し間。
「水路点検でよかった」
「じゃあ、戻れば?」
「戻れない」
「どうして?」
「適性が高すぎるから」
リリィは意味が分からなかった。
オルガも同じ顔をしている。
カイが説明した。
水路点検で高評価。
だから、より高度な仕事を提案された。
断る。
再評価。
別の仕事を提案。
また断る。
「同じ仕事を続けたいって言った?」
「言った」
「それじゃだめだった?」
「能力を活用していないって」
オルガが呟く。
「そんな理由?」
カイは笑わなかった。
「都市にとっては正しいんじゃない」
能力がある。
もっとできる。
なら、もっとやる。
その方が都市全体の効率は上がる。
「でも、僕はもっとやりたくなかった」
リリィは黙った。
カイは続ける。
「そのうち、何を提案されても嫌になった」
面談。
再評価。
新しい仕事。
能力開発。
将来設計。
「あなたなら、もっとできます」
何度も言われた。
「最後は、何もしたくなくなった」
ルカが俯いた。
リリィはようやく分かった。
カイには能力がなかったわけではない。
夢がなかったわけでもない。
ただ、
今以上を求めていなかった。
それが、アルケイアの仕組みと合わなかった。
「水路点検、好きだった?」
「好きってほどじゃない」
「嫌い?」
「別に」
「じゃあ、なんで?」
カイは少し考えた。
「終わったら帰れたから」
それだけだった。
仕事をする。
終わる。
帰る。
食べる。
眠る。
それでよかった。
「それじゃだめなのかな」
カイが言った。
リリィは首を横に振った。
「ボクには、だめな理由が分からない」
カイが少しだけ笑った。
初めてだった。
***
家を出た後。
オルガが言った。
「エナと真逆だね」
「うん」
エナは挑戦したい。
失敗したい。
カイは挑戦したくない。
成長も求めていない。
でも、どちらも都市の最適化から外れている。
コピが言った。
「共通点があります」
「何?」
「都市側が定義した『より良い状態』と、本人が望む状態が一致していません」
リリィは足を止めた。
それだ。
エナには、
もっと適性のある仕事を。
カイには、
もっと能力を活かせる仕事を。
どちらも親切な提案。
でも。
本人は求めていない。
「アルケイアは、みんなを幸せにしようとしてる」
リリィが言った。
オルガが頷く。
「たぶん、本気で」
「でも、幸せの形まで決めちゃってる」
コピは答えなかった。
その言葉は、数字では測れない。
***
旧市場へ戻る。
署名は五十二人になっていた。
エナが駆けてくる。
「増えた!」
「うん」
「カイは?」
「来ない」
エナの顔が曇る。
「そっか」
「でも、それでいいと思う」
「え?」
リリィはカイの話をした。
エナは黙って聞いた。
そして、署名用紙を見る。
やってみたいことがある人へ。
エナが看板を外した。
オルガが聞く。
「どうしたの?」
「書き直す」
新しい紙。
エナは筆を持つ。
少し考えてから書いた。
やってみたい人も。
何もしたくない人も。
少しだけ、自分で決められる場所を。
リリィは笑った。
「長くなったね」
「うるさい」
でもエナも笑っていた。
その時。
市場の入口から拍手が聞こえた。
一人。
二人。
十人。
配置局の職員たちだった。
先頭にミレア。
「署名に来ました」
エナが驚く。
「職員でもいいの?」
ユアンが後ろから現れる。
「市民ならな」
ミレアが署名する。
五十三人。
レオンも来た。
五十四人。
少しずつ増える。
六十。
七十。
八十。
夕方。
九十六。
あと四人。
エナが看板の前で落ち着かなくなる。
「今日中じゃなくてもいいんだよね?」
オルガが笑う。
「そういう時ほど急がない」
「分かってるけど!」
九十七。
九十八。
九十九。
あと一人。
誰も来ない。
日が沈み始める。
エナがため息をついた。
「まあ、明日――」
「これ、署名したら何かやらなきゃいけない?」
声がした。
全員が振り返る。
カイだった。
少し離れたところに、ルカもいる。
エナが答える。
「何もしなくてもいい」
「本当に?」
「たぶん」
ユアンが笑う。
「そこは決めておけ」
エナが言い直す。
「何もしなくてもいい場所にする」
カイは署名用紙を見る。
「じゃあ、書く」
百人目。
拍手が起きた。
カイは嫌そうな顔をした。
「こういうの苦手」
拍手が止まった。
オルガが吹き出す。
「もうルールが一個できたね」
笑いが広がった。
小さな成功だった。
百人。
市民提案の条件を満たした。
ユアンが書類をまとめる。
「明日、正式申請する」
エナが頷いた。
その瞬間。
ミレアの端末が鳴った。
画面を見る。
顔色が変わる。
「どうしたの?」
リリィが聞く。
ミレアは端末を見せた。
市民提案制度 一時停止
理由。
都市運営規則の緊急見直しのため。
ユアンの表情が消える。
「このタイミングで?」
オルガが低く言う。
「偶然?」
コピが答える。
「判断材料不足です」
エナは百人分の署名を見る。
ようやく集まった。
その瞬間に、制度そのものが止まった。
リリィは端末を見る。
誰かが止めているのか。
それとも。
都市の仕組みが、変化を危険と判断して自動的に止まったのか。
アルケイアは、また次の問いを投げてきた。
第172話では、未配置者のカイに会いました。
カイは能力が低かったわけではありません。
むしろ水路点検では高い評価を得ていました。
だからこそ都市は、
「もっと能力を活かせる仕事を」
と、より高度な役割を何度も提案しました。
しかしカイが望んでいたのは、今の仕事を終え、家へ帰る生活でした。
成長したくない。
挑戦したくない。
もっと上を目指したくない。
それも一つの選択です。
エナが求める「挑戦する自由」と、カイが求める「挑戦しない自由」。
二人は正反対ですが、
自分の暮らしを自分で決めたい
という点では同じでした。
旧市場の署名は百人に到達。
市民提案の条件を満たします。
ところが、その瞬間――
市民提案制度そのものが一時停止。
次回は、この停止が誰かの意図なのか、それとも都市の仕組みが自動的に変化を止めたのかを追います。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




