第170話 正しかったから、間違えた
第169話では、都市を離れたエナを見つけました。
画家としての適性評価が低いことを、エナ自身も理解しています。
それでも彼女が欲しかったのは、
「失敗する権利」
でした。
成功できないかもしれない。
それでも、自分で挑戦して、自分で失敗したかった。
さらに、かつてアルケイアには「自由工房区」という場所があったことも分かります。
画家、音楽家、職人、研究者。
結果の分からないことへ挑戦する人たちが集まる区画でした。
しかし十年前、充足率の低さを理由に閉鎖。
しかも、その数字には不正の疑いがあります。
再編を承認した責任者は――
充足率制度を作ったユアン本人でした。
「ユアンが?」
リリィは、もう一度書類を見た。
間違いではない。
再編承認責任者 ユアン・セルディ
エナは黙っていた。
さっきまで描いていた絵も、そのまま。
オルガがミレアを見る。
「本人に聞くしかないね」
「私も、そのつもりです」
ミレアは答えた。
エナが立ち上がる。
「私も行く」
リリィは聞いた。
「いいの?」
「知りたい」
短い答えだった。
帰還猶予は、あと二日。
でも今は、その答えを急がせない。
まず、十年前を見る。
***
旧時計塔。
ユアンは、相変わらず時計を直していた。
扉が開く。
リリィ。
オルガ。
コピ。
ミレア。
そしてエナ。
ユアンは全員を見て、ため息をついた。
「ずいぶん増えたな」
ミレアが書類を机へ置く。
「説明してください」
ユアンは紙を見る。
表情は変わらない。
「自由工房区か」
エナが聞いた。
「あなたが潰したの?」
ユアンは彼女を見る。
「そうだ」
言い訳もなかった。
エナの顔が強張る。
「どうして?」
ユアンは椅子に座った。
「十年前、アルケイアは飢えかけていた」
誰も言葉を挟まなかった。
***
十年前。
大規模な不作。
周辺都市との交易停止。
食料価格の上昇。
さらに感染症。
医療資材も不足した。
「都市全体の備蓄は、半年もたなかった」
ユアンが言う。
当時の自由工房区には、多くの人がいた。
芸術家。
発明家。
研究者。
職人。
成果が出ない試みを続ける者も多かった。
「評議会は言った」
ユアンは昔の言葉を再現する。
食料を作る人が足りない。
医療を支える人も足りない。
今、結果の出ない活動を支える余裕はない。
オルガが静かに言った。
「それで閉鎖?」
「そうだ」
工房区の人々を、生産、物流、医療補助へ再配置した。
建物は倉庫へ。
予算は食料と医療へ。
「その結果、都市は持ちこたえた」
リリィは何も言えなかった。
人が死ぬかもしれない状況。
食料を作る人が必要。
医療を支える人も必要。
その時、
「絵を描きたい」
と言う人へ資源を渡し続けられるか。
簡単な問題ではない。
エナも黙っていた。
ユアンが続ける。
「私は今でも、あの時の再編そのものが完全に間違いだったとは思っていない」
エナが顔を上げる。
「じゃあ、何が間違いだったの?」
ユアンは書類を指した。
「戻さなかったことだ」
***
危機は三年後に終わった。
食料生産は回復。
交易も再開。
医療も安定。
本来なら、自由工房区を再検討するはずだった。
しかし。
「工房区がなくても都市は回った」
ユアンが言う。
むしろ、数字は良くなった。
就業率。
生産効率。
充足率。
全部上がった。
「評議会は、戻す理由がないと言った」
ミレアが書類を見る。
「では、数字の不正は?」
ユアンの顔が曇った。
「そこは知らなかった」
「本当に?」
「本当だ」
ミレアはユアンを見つめる。
嘘を見抜こうとするように。
コピが言った。
「少なくとも現時点で、虚偽を示す材料はありません」
オルガが小声で言う。
「こういう時、便利」
ユアンは苦笑した。
ミレアが別の紙を出した。
「閉鎖前の工房区充足率は、正式記録では42%」
「覚えている」
「でも、元データを再計算すると68%あります」
ユアンの顔から笑みが消えた。
「……何?」
「就業収入のない人を、自動的に未充足へ入れている」
ユアンが書類を奪うように取った。
読む。
何度も読む。
「違う」
小さな声。
「何が?」
「充足率は、収入だけで測る指標じゃない」
住居。
食料。
健康。
社会参加。
本人の生活満足。
複数の項目で見る。
「誰かが計算式を変えた」
ミレアが頷く。
「その可能性があります」
エナが聞いた。
「誰が?」
誰も答えられない。
***
ユアンは棚から古い箱を出した。
中には十年前の資料。
紙。
大量の紙。
「計算式の変更記録があるはずだ」
全員で探す。
一枚。
また一枚。
ナジはいない。
ラサもいない。
風待ち村なら台帳を読む場面だった。
でも、今回は違う。
ここにあるのは、制度を作った人間の記録。
数字。
会議。
署名。
そして責任。
オルガが一枚を見つけた。
「これ」
緊急時充足率算定特例
ユアンが読む。
顔が強張る。
「これだ」
危機時には、生活満足などの主観項目を除外。
生産参加率と最低生活保障を重視する。
「非常時の式だ」
「誰が作ったの?」
リリィが聞く。
ユアンは答えた。
「私だ」
また沈黙。
エナが言う。
「結局あなたじゃない」
「そうだ」
ユアンは否定しなかった。
「飢えている時に、芸術への満足度を食料と同じ重さで測るべきではないと思った」
それ自体は理解できる。
問題は。
「非常時が終わっても、式が戻されなかった?」
ミレアが聞く。
ユアンは頷いた。
「おそらく」
オルガが腕を組む。
「誰も戻さなかった?」
「違う」
ユアンは紙の下部を見る。
そこに、小さな記述。
特例終了条件:都市危機度20未満。
ミレアが端末を確認する。
「現在の危機度は?」
「8です」
「じゃあ、とっくに終了してる」
「そうだ」
リリィは聞いた。
「なのに、なぜ?」
コピが答える。
「終了条件を満たした際の自動復旧処理が存在しない可能性があります」
全員がコピを見る。
「つまり?」
オルガが聞く。
「誰かが戻す必要があった。しかし、戻す担当が定義されていなかった」
ユアンが目を閉じた。
「……私の設計ミスだ」
悪意ではなかった。
陰謀でもない。
非常時の仕組みを作った。
その時は必要だった。
でも。
終わらせる仕組みを作らなかった。
「正しかったから、残った」
リリィが呟く。
ユアンが目を開く。
「そうだ」
非常時には正しかった。
数字も改善した。
都市も救った。
だから、誰も疑わなくなった。
正しかった仕組みが、
状況が変わった後も、
正しいままだと思われ続けた。
***
エナは、ずっと黙っていた。
やがて聞いた。
「じゃあ、自由工房区は戻せるの?」
ユアンは答えない。
ミレアも。
リリィも。
エナが笑う。
「やっぱり、そうなるよね」
「何が?」
「昔の式が間違ってた。じゃあ工房区を戻しましょう、とはならない」
ミレアが頷いた。
「今は今の都市があります」
旧工房区は物流区になっている。
そこで働く人がいる。
その仕事で暮らしている家族がいる。
十年前へ戻せば、今度はその人たちを動かすことになる。
エナは小さく言った。
「場所を取り返したいわけじゃない」
ユアンが見る。
「じゃあ、何が欲しい?」
エナは少し考えた。
「試せる場所」
「自由工房区みたいな?」
「もっと小さくていい」
画家だけではない。
発明。
音楽。
研究。
商売。
成功するか分からないこと。
「失敗しても、すぐ適性なしって言われない場所」
ユアンは黙った。
ミレアも考えている。
オルガが言った。
「作れないの?」
ミレアが答える。
「場所はあります」
全員が見る。
「旧市場」
リリィは思い出す。
店の半分が閉まっていた場所。
「でも予算は?」
ユアンが聞く。
「ほとんどありません」
エナが言った。
「別に豪華じゃなくていい」
「運営は?」
「自分たちでやる」
「食べていけなかったら?」
エナは少し笑った。
「別の仕事もする」
ユアンが眉を上げる。
エナは続けた。
「絵だけで食べられなきゃ画家じゃない、って誰が決めたの?」
誰も答えなかった。
リリィは笑った。
「それ、いいかも」
ユアンも、ゆっくり笑った。
「なるほど」
制度を壊さない。
配置制度も残す。
でも、その外側に少しだけ余白を作る。
失敗してもいい場所。
それなら、できるかもしれない。
その時。
ミレアの端末が鳴った。
画面を見る。
表情が変わる。
「何?」
リリィが聞く。
ミレアは画面を見たまま答えた。
「評議会からです」
「何て?」
ミレアは読み上げた。
旧市場再利用申請を却下。
全員が止まった。
オルガが眉を寄せる。
「まだ申請してないよね?」
「していません」
沈黙。
エナの顔から笑みが消える。
ユアンが立ち上がった。
「誰かが、ここでの話を知っている」
リリィは時計塔の窓を見る。
外には誰もいない。
それでも。
まだ誰も申請していない計画が、
すでに却下されていた。
アルケイアの問題は、古い計算式だけでは終わらない。
誰かが、変化そのものを止めようとしていた。
第170話では、十年前に自由工房区が閉鎖された理由を追いました。
当時のアルケイアは、不作、交易停止、感染症によって深刻な危機にありました。
食料と医療を維持するため、自由工房区の人々を生産や物流へ再配置したユアンの判断には、当時としての合理性がありました。
問題は、危機が終わった後でした。
非常時用に変更された充足率の計算式が、平時へ戻されないまま残っていたのです。
非常時には正しかった仕組みが、状況が変わっても使われ続けた。
そして誰も、それを戻す役目を持っていませんでした。
一方、エナは自由工房区そのものを取り戻したいわけではありませんでした。
彼女が望んだのは、
「失敗しても、すぐ適性なしと言われない場所」
です。
旧市場を小さな試行の場として使う案が生まれます。
しかし終盤。
まだ誰も申請していないはずの、
「旧市場再利用申請」
が、評議会によってすでに却下されていました。
次回は、なぜ存在しない申請が却下されたのか、そして誰が変化を先回りして止めているのかを追います。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




