第169話 下手でも、描きたい
第168話では、アルケイアの充足率制度を作ったユアンに会いました。
充足率は本来、見えなかった不公平を数字にして、支援が必要な人を見つけるための仕組みでした。
しかし、数字が予算や人事評価に使われるようになり、いつしか「数字を高く保つこと」が目的になっていきます。
そして、三度の再配置でもエナが捨てなかった希望が分かりました。
絵を描くこと。
都市評価では、画家としての適性は低い。
それでも、エナは描き続けていました。
さらに都市外再配置者には七日間の帰還猶予があり、エナに残された時間はあと二日。
しかし、記録には食い違いがありました。
エナ本人は「外縁居住区へ行く」と話していた。
一方、ユアンの記録では「都市外再配置者」。
第169話では、エナ本人を探します。
「外縁第四区にはいない」
コピが言った。
リリィたちは旧時計塔を出たばかりだった。
「どうして分かるの?」
「公開されている滞在施設一覧を確認しました。エナという名の登録はありません」
オルガが聞く。
「別の外縁区は?」
「不明です」
リリィは考えた。
エナは嘘をついた?
でも、何のために。
「門へ戻ろう」
最初に会った場所。
そこから追う。
***
門の担当者は、エナを覚えていた。
「昨日の再配置者ですね」
リリィが聞く。
「どこへ行ったか分かりますか?」
「個人の移動先は――」
「本人から外縁居住区へ行くと聞きました。でも記録では都市外再配置になっています」
担当者の表情が変わった。
端末を確認する。
「……なるほど」
「何か分かった?」
「彼女は外縁居住区を経由する予定でした」
「経由?」
「都市外へ移る人は、必要に応じて外縁居住区で数日滞在できます」
オルガが頷く。
「じゃあ、嘘じゃなかった」
「ただし」
担当者が画面を見る。
「エナさんは滞在施設を利用していません」
リリィの胸がざわつく。
「どこへ?」
「門を出た後の移動は追跡していません」
アルケイアは管理都市。
何でも記録しているように見える。
でも都市の外へ出た瞬間、記録は途切れる。
「外縁居住区までの道は?」
担当者が教えてくれた。
「北東街道です」
リリィは振り返る。
「行こう」
***
街道は静かだった。
整備された道が、少しずつ荒れていく。
都市の白い壁が遠ざかる。
オルガが歩きながら言った。
「半日って言ってたよね」
「うん」
「歩いて探す?」
「手がかりがあれば」
コピが周囲を見る。
「街道脇に休憩所があります」
最初の休憩所。
誰もいない。
二つ目。
旅商人がいた。
エナの特徴を伝える。
「ああ、見たよ」
リリィが身を乗り出す。
「どっちへ?」
旅商人は街道の先ではなく、横を指した。
「丘の方」
「外縁居住区と違う?」
「全然違う」
オルガがため息をつく。
「やっぱり普通には行ってない」
丘へ向かう。
道はない。
草の間に、人が歩いた跡だけが残っている。
そして。
コピが止まった。
「顔料痕があります」
「顔料?」
地面に、青い粉。
少し先に赤。
さらに黄色。
オルガが笑う。
「画家を探す道としては分かりやすいね」
リリィも少し笑った。
「行こう」
***
丘の上。
エナはいた。
大きな岩の前に座っている。
小さな鞄は開かれていた。
中には服が少し。
パン。
水。
そして。
絵の具。
紙。
筆。
エナは、都市を描いていた。
遠くに見える白いアルケイア。
夕方の光。
巨大な壁。
その手前に、草原。
リリィは少し離れたところで止まった。
声をかけずに待つ。
エナが気づいた。
「……なんでいるの?」
「探した」
「どうして?」
リリィは答える。
「聞きたいことがあったから」
「戻れって?」
「違う」
エナの手が止まった。
「じゃあ何?」
「戻りたい?」
エナは黙った。
リリィはそれ以上言わない。
風が吹く。
紙が揺れる。
エナが押さえる。
やがて、口を開いた。
「分からない」
「うん」
「戻りたい気もする」
「うん」
「戻りたくない気もする」
「うん」
エナが苛立った顔をする。
「何なの、その返事」
「分からないなら、分からないでいいと思って」
エナは黙った。
オルガは少し離れたところに座る。
コピも何も言わない。
しばらくして。
エナが呟いた。
「絵を描きたい」
「聞いた」
「誰から?」
「ユアンさん」
エナの目が見開く。
「知ってるの?」
「会った」
「変なおじいさんだったでしょ」
「時計を三分遅らせてる人」
エナが吹き出した。
初めて笑った。
「まだやってるんだ」
笑いは、すぐ消えた。
「私、絵が下手なんだって」
リリィは、エナの絵を見る。
都市の形は少し歪んでいる。
遠近感も変だ。
色も現実とは違う。
アルケイアの白い壁が、絵では薄い青になっている。
「そうなの?」
リリィが聞く。
エナは呆れた顔をした。
「見れば分かるでしょ」
「私、絵の上手い下手、あんまり分からない」
「何それ」
「でも、これがアルケイアだっていうのは分かる」
エナは絵を見る。
「評価は低かった」
都市の芸術適性評価。
構図。
描写精度。
制作速度。
需要予測。
全部、基準以下。
「だから、画家は向いてないって」
「それでも描いた?」
「描いた」
「どうして?」
エナは少し考えた。
「描きたいから」
リリィは頷いた。
「じゃあ、それが答えじゃない?」
エナがリリィを見る。
「それで食べられなかったら?」
リリィは答えられない。
エナは続ける。
「アルケイアは間違ってないよ」
その言葉に、オルガが顔を上げた。
「私が絵だけ描いて暮らしたいって言っても、誰かが食べ物を作らなきゃいけない。水路を直す人も必要。病気を治す人も必要」
リリィは黙って聞く。
「みんなが好きなことだけやれば、街は回らない」
正しい。
少なくとも、一面では。
「だから、仕事を割り振る仕組みは必要だと思う」
「じゃあ、どうして出たの?」
エナは筆を置いた。
「絵を描きたいって言うたびに、それは趣味にしてくださいって言われるから」
「趣味じゃだめ?」
「だめじゃない」
少し間。
「でも、私は一度くらい、本気で失敗したかった」
リリィは目を瞬いた。
エナは笑った。
寂しい笑いだった。
「変でしょ?」
「どうして?」
「失敗すると分かってるのに、やりたいなんて」
リリィは首を横に振った。
「分からない」
「またそれ?」
「だって、本当に分からないから」
そして少し考える。
「でも、失敗する前に『あなたは失敗します』って決められるのは、嫌かもしれない」
エナの表情が止まった。
長い沈黙。
「……そう」
小さな声。
「私は、失敗する権利が欲しかった」
風が吹いた。
遠くのアルケイアが夕日に染まる。
白い壁が、薄い赤になる。
エナの絵とは違う。
でも、どちらが正しいという話でもない。
***
リリィは帰還猶予のことを伝えた。
「あと二日」
エナは頷いた。
「知ってる」
「再審査する?」
「分からない」
「じゃあ、明日まで考える?」
エナは少し笑った。
「あなた、本当に決めてくれないんだね」
「エナのことだから」
「面倒じゃない?」
「ちょっと」
オルガが吹き出す。
エナも笑った。
「正直だね」
その時。
コピがエナの絵を見ていた。
「質問があります」
エナが警戒する。
「評価するの?」
「いいえ」
コピは絵の中央を示した。
「この建物は何ですか」
アルケイアの壁。
中央塔。
水路。
そして、都市の西側に描かれた黒い建物。
リリィも気づく。
「こんなの、実際にあった?」
エナの表情が変わった。
「あるよ」
「どこ?」
「今はない」
オルガが眉を寄せる。
「どういうこと?」
エナは黒い建物を指した。
「昔の自由工房区」
画家。
音楽家。
職人。
研究者。
成果が出るか分からないことを試す人たちが集まっていた場所。
「十年前に閉鎖された」
リリィが聞く。
「どうして?」
「充足率が低かったから」
誰が何を生み出すか分からない。
収入も不安定。
仕事の効率も低い。
配置予測もしにくい。
だから再編された。
「今は?」
「中央物流区」
エナは絵を見る。
「でも、私が小さい頃はあった」
「行ったことあるの?」
「うん」
その時。
丘の下から声がした。
「エナ!」
一人の女性が走ってくる。
息を切らしている。
配置局のミレアだった。
「見つけた……」
エナの顔が硬くなる。
「何しに来たの」
ミレアは立ち止まり、息を整える。
そして一枚の書類を差し出した。
「再審査のためじゃない」
「じゃあ何?」
「自由工房区の記録を見つけた」
エナの表情が変わる。
ミレアは続けた。
「閉鎖理由に、不正がある」
全員が黙った。
「不正?」
リリィが聞く。
ミレアは書類を開いた。
「工房区の充足率が、意図的に低く計算されている」
オルガが眉を寄せる。
「なんで?」
「分からない」
ミレアは首を振った。
「でも、この再編を承認した人の名前は分かる」
エナが書類を見る。
そして、息を止めた。
「……ユアン?」
リリィも書類を見る。
そこには確かに記されていた。
再編承認責任者 ユアン・セルディ
充足率制度を作った男。
数字に決めさせるなと言った男。
その本人が、十年前。
自由工房区を消す決定に署名していた。
第169話では、都市を離れたエナを見つけました。
エナは、画家としての適性評価が低いことを自分でも理解しています。
また、都市を維持するには必要な仕事があり、アルケイアの配置制度そのものを全面的に否定しているわけでもありません。
それでも彼女が求めていたのは、
「失敗する権利」
でした。
成功する可能性が低くても、一度くらい本気で挑戦し、自分で失敗したかった。
しかしアルケイアでは、失敗する前に適性評価が答えを出してしまいます。
さらに、かつてアルケイアには「自由工房区」という、画家や音楽家、職人、研究者などが不確実な挑戦をする場所があったことが分かりました。
その工房区は十年前、充足率の低さを理由に閉鎖されています。
ところが終盤、ミレアが工房区の充足率に不正があった可能性を示す記録を発見しました。
そして再編を承認した責任者は――
充足率制度を作ったユアン本人。
次回は、ユアンがなぜ自由工房区の閉鎖を承認したのか、十年前のアルケイアで何が起きたのかを追います。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




