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第04話「結び目」

灰塔に来て四日目の朝。俺は、その日だけで十一回目のずぶ濡れになっていた。


「十一回目よ。入試まで、あと二十六日」


部屋の隅の椅子から、セラの声が飛んだ。顔は窓のほうを向いたままなのに、数字だけは正確だった。


「数えなくていい」


「数えないと、あなたが覚えないでしょう」


外套の裾から水が滴って、石の床に黒い染みを広げていく。袖はぐっしょり重く、靴の中では水が踵の下で鳴っていた。右手の痺れは三日目の夜に抜けた。それでも指は、考えた速さについてこない。


「ほれ、次じゃ」


卓の向こうで、オズワルドが酒瓶を傾けたまま、空いた手の指を軽く振った。


その指先から、水の線が三本、編まれるように伸びた。絡まって、小さな球になり、俺の顔へ飛んでくる。


結び目は、球の中ほどにあった。見つけた。手を伸ばす。


水の線は、思っていたよりも滑る。魚を素手で掴もうとするのと、似ていた。


つまんだ瞬間に、球は逃げた。指のあいだをすり抜けた水が、顔面で弾ける。冷たさが鼻の奥まで刺さり、思わず咳き込んだ。


「十二回目」


「やかましい」


「ほどき損ねる速さは、お前さんの足りんところじゃな」


オズワルドが、舌で唇を舐めた。


「結び目を探してから手を出す。それでは、わしの術が飛ぶ速さに間に合わんのよ。もう一度」


もう一度、指が振られる。今度は風だった。渦を巻いた空気が、床の埃を巻き上げて迫ってくる。


見てから探していては遅い。分かっていた。分かっていて、目が追いつかない。


風が頬を叩いた。埃が目に入り、視界が滲む。


「十三回目。今のは濡れていないけれど、数えるわ」


「数えるな」


言い返しながら、目をこすった。次は炎が来た。小さな火の玉が、鼻先でぱちりと弾けて、前髪が焦げる匂いがした。


「ほどけ損なうと、髪が減るぞ。気をつけい」


「先に言え」


俺は拳を握った。


追いつかないなら、先に見ればいい。


風が放たれる前を。老人の指先を。


濡れた髪を払って、オズワルドの右手を睨む。指が動く。その先から、細い線が一本、にじむように生まれた。もう一本。三本目が絡んで、渦の骨組みになる。まだ空気は動いていない。線だけが、指先で編まれている。


結び目は、その編み目の中に、最初からあった。線は皆、そこへ集まっていた。


術が放たれる前に、手を伸ばした。


つまむ。引く。


渦の骨組みが、風になる前にほどけた。埃が舞い上がることもなく、静かに床へ落ちる。


「ほう」


オズワルドが目を細めた。セラは、椅子の上で組んでいた足を、ほどいた。「……今の、見えたの?」と呟く声が、小さく聞こえた。


もう一度、水。炎。風。続けざまに三つ。老人の指先が動くたびに、俺はその根元を見た。編まれる瞬間を、見た。二度目の水を、ほどいた。炎の結び目は小さかったが、掴めた。


五回続けてほどいたところで、オズワルドの手が止まった。


「……」


酒瓶が、卓に置かれた。


「よし。慣れてきたようじゃな。三日前まで、わしの指が動くのも見えとらんかったくせに」


老人が、にやりと笑った。皺が、顔じゅうに寄る。


「覚えとけ。術を隠したい者は、まず目立つ結び目を作る。人の目は、目立つほうへ吸われるからの」


その言葉を、俺はこのとき、聞き流した。


「では、意地の悪いのをやろう」


横から、セラの椅子のほうから、何かが飛んできた。


白い布だった。顔面に当たって、床へ落ちる。拾い上げると、乾いた手触りが指に心地よかった。


「拭きなさい」


セラが、椅子から立ったまま腕を組んでいた。


「風邪をひかれたら、わたしが困るの。契約でしょう」


「契約に、そんな条項はなかった」


「今から追加するわ」


布で顔を拭く。柔らかな布地に、石鹸の匂いが染みていた。


オズワルドは、卓から立ち上がった。酒瓶は置いたままだ。


窓から差す朝の光の中で、老人の指先に、見たことのない形の線が編まれはじめた。


水と炎が、撚り合わさっている。混ざらないまま、縄のように撚り合わされて、輪を作っていた。輪は老人の指から離れて宙に浮き、ゆっくり回りはじめる。


「混ぜたのではない。炎と水を、撚って並べただけの見せかけじゃ。本当に混ぜるのは、わしにもできん。これを、ほどけ」


セラが、眉を寄せる気配があった。


「そんな術、聞いたことがないわ。炎と水は合成できないはず」


「できんよ。だから並べただけじゃ。さあ、小僧」


老人の口の端が、一瞬だけ上がった。


輪の中心に、結び目があった。はっきりと脈打っている。線が束になり、きつく絡まって、まるで見せびらかすように。


見えている。間違いない。


罠だとは、まだ思わなかった。輪の回転は一定で、結び目の脈も乱れていない。老人が手を抜くはずもない、と頭のどこかで思い、その思いが、指を急がせた。


さっきまでの修行と、同じやり方で行こう。結び目をつまんで、引く。


輪が回転する。その中心に向かって、指を伸ばす。


つまんだ。


引いた。


次の瞬間、輪が縮んだ。耳元で、ぎり、と縄の軋む音がした。


ほどけるどころか、結び目が締まった。線が俺の指に巻きつき、肌に食い込む。熱が走った。熱した鉄線を握らされたような痛みが、指の腹から手首までを駆け上がる。


「っ!」


慌てて手を引いた。人差し指と中指の腹が、みるみる腫れていく。皮膚が突っ張り、ひりひりと熱を持っていた。


「一度目は失敗じゃな」


オズワルドが、のんびりと言った。


「どうした。見えとる結び目を、引いただけじゃぞ」


老人の声は、楽しげだった。


見えとる結び目。


俺は火傷した指を握り、輪を見つめた。


おかしい。さっきまでの術は、結び目を引けばほどけた。この輪は、締まった。同じ結び目のはずなのに、なぜ。


もう一度、よく見る。輪の線を、一本ずつ。


線は、結び目に向かって束ねられているのではなかった。


逆だった。


結び目から、外へ向かって流れ出している。


束ねる場所が結び目なのではない。ここは、ただ線を吐き出しているだけだ。本物の結び目なら、流れは中心へ集まるはずだった。


これは、囮だ。


森の狼のときは、結び目が首の後ろの毛皮に隠れていただけだった。場所が見えにくかっただけで、結び目そのものは本物だった。今度は違う。見えている結び目のほうが、偽物なのだ。


「流れの向き、か」


自分に言い聞かせるように呟いて、俺は輪の線を、根元へ向かって逆に辿りはじめた。


一本。結び目から外へ。外へ。さらに外へ。その先で、線が細くなる。


細い一本が、輪の外へ伸びていた。輪を回しているのではない、輪を吊るしている糸のように。その糸の先は——オズワルドの指先に繋がっていた。


指先と糸の接する、ごく小さな一点。そこに、線が束になって、固く絡んでいる。


これだ。


流れの源は、術の中にはなかった。術と術者を繋ぐ、一本の細い糸の付け根にあった。


俺は左手を伸ばした。右の指は火傷でまだ動かない。


糸の付け根を、つまむ。


引く。


宙に浮いていた輪が、一息に崩れた。炎の線も、水の線も、糸が切れた首飾りの玉のようにほどけて、空気に溶ける。中心の結び目は、誰にも触れられないまま、ほぐれて消えた。


「十分じゃな」


オズワルドが、満足そうに頷いた。


「複雑な術ほど、結び目は隠れとる。見えとる結び目は、疑ってかかれ。……色しか見とらん連中は、そもそも結び目があることすら知らんがな」


老人が、袖で指先を拭った。


「お前さんは、線の向きを見た。それが、読むということじゃ」


胸の奥が、じわりと熱くなった。火傷とは違う種類の熱だった。


その熱を、遮るように、背後で椅子の軋む音がした。


「ちょっと、見せなさい」


セラが、俺の傍らに立っていた。


手を取られた。火傷した右手を、彼女の両手が包む。


「ひどいわ。皮が剥けかけている」


「大したことない」


「大したことあるの。放っておいたら、跡が——」


言葉が、途切れた。


セラの手が、わずかに震えた。薄布の下の顔が、ぐらりと傾く。


「あ……」


「おい」


膝が崩れかけた。慌てて、左腕で支える。


「うるさい……」


彼女が、喘ぐように呟いた。


「術の名残が、部屋じゅうに。炎と水が、ぶつかったまま、残ってる……」


オズワルドが、舌打ちした。


「しもうた。加減を忘れとった。窓を開けい。風を通せ」


老人が窓の板を蹴り上げ、朝の冷気が部屋へ流れ込んだ。俺には何も変わったようには見えない。だが腕の中のセラが、息を吸うたびに肩を上下させている。吸うたびに、少しだけ深くなった。


扉の外で、護衛の足音が聞こえた。ふたりとも塔の下階に滞在しているが、気配を察したのだろう。だがセラが、荒い息の合間に叫んだ。


「入らないで!」


足音が止まった。


「お嬢様……」


「近寄らないで。あなたたちの色が、混ざって、もっと——」


息が詰まるように、言葉が途切れる。


足音が、戸口で迷うように行ったり来たりした。公爵家の護衛が、主の命令と心配のあいだで足踏みしているのが、板越しにも分かった。


俺は、セラを支えたまま立っていた。出来ることは、何もなかった。ただ、彼女の肩に触れた掌から、細かい震えが伝わってくる。


「隣にいる、で足りるか」


「足りない」


声は、掠れていた。


「今日は、ずっと濃いの。……この部屋、色が、多すぎて」


セラの手が、俺の手を探した。


自分から、掴んだ。


指と指が、絡む。


細い指だった。冷たく、汗ばんでいる。強く握りしめられて、火傷した指の腹が悲鳴を上げた。


その瞬間、繋いだ指先に、一瞬、温度の違う何かが触れた気がした。それが何かを考える前に、セラの呼吸が整いはじめた。


荒い息が浅くなり、肩の震えが収まる。数十秒のあいだに、彼女の全身から、力が抜けていった。


「……静か」


セラが、呟いた。


「やっぱり、あなたの隣は、静か」


「そうか」


「そうよ」


しばらく、誰も何も言わなかった。老人が棚から陶器の小壺を取り、放って寄越した。左手で受けると、蓋の隙間から薬草の苦い匂いが立った。


「火傷の軟膏じゃ。塗っとけ」


片手で蓋を開けようとして、手間取った。繋いだままの右手を離せば済むのだが、離すとセラの呼吸がまた乱れるかもしれない。迷っていると、セラが空いたほうの手で壺をひったくった。


「貸しなさい」


蓋を外し、指先で軟膏をすくって、俺の火傷に塗り広げる。ひんやりとして、痛みが引いていく。手つきは乱暴で、けれど指を押す力は、驚くほど加減されていた。


「痛くない? 我慢しているなら、今のうちに言いなさい。後で文句を言われるのは嫌だもの」


「痛くない」


「……そう」


「今のは、契約の範囲内よ」


手当てが済むまで、二人とも黙っていた。窓の隙間を、風が抜けていく音だけが聞こえた。


「ふむ」


沈黙を破ったのは、オズワルドだった。酒瓶を拾い上げ、ひとくち含んでから、にやにやと笑った。


「お嬢さん、顔が真っ赤じゃぞ」


セラの体が、ぴくりと跳ねた。


俺は、反射的に彼女の顔を覗き込んだ。


「そうなのか?」


薄布の下は、薄布の下でしかなかった。頬の濃淡が、わずかに上がったように見えなくもない。が、それが何を意味するのかは、俺には分からない。


「見ないで」


セラが、顔を背けた。


「……見えないくせに」


手を振りほどかれた。指の間に冷たい空気が入り込む。


「風が通ったから、もう立てるわ。あなたのおかげじゃないから」


「熱でもあるのか」


「ないわ!」


「あるじゃろ」


「ないったら!」


オズワルドが、肩を震わせて笑っている。ガレスなら、ここで咳払いをしただろうと思った。だがあの男は、もういない。


その代わりに、扉が激しく叩かれた。


護衛の声ではなかった。ばん、ばん、と掌で打つ音。息の切れた男の声が、板の向こうから響いた。


「開けてくれ! 学者先生! 先生はいなさるか!」


オズワルドの顔から、笑みが消えた。


扉を開けると、泥だらけの農夫が転がり込んできた。肩で息をしながら、顔を上げる。


「井戸が……水が噴き出して止まらねえ。村の呪い師様は、呪いだって。——けど、おれには、どうも違うように見えるんで」


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