第05話「嘘をつく石」
村の広場の真ん中で、井戸が、空に向かって咳き込んでいた。
水柱は石組みの縁から三人分の背丈ほども噴き上がり、頂で砕けて霧になり、広場じゅうに降り注いでいる。足元の土は泥の海だった。井戸の周りの家々では、土台の下を水が削っているらしく、戸口の石段がじわじわ傾いている。
「見よ、皆の衆! あれは祟りじゃ」
人垣の前で、男が両腕を広げていた。裾の長い派手な衣に、首から幾重にも下げた飾り玉。村の呪い師だという。声に芝居がかった抑揚があって、霧の向こうまでよく通った。
「井戸の主がお怒りじゃ。祓うには祓い料がいる。村の蓄えの穀物と銀を、残らず井戸へ捧げねばならん!」
「残らず、って……」
「春の種籾まで?」
村人たちがざわめく。真ん中にいた白髪の老人が、震える手で革の袋を掲げた。村長らしい。袋の口から、銀貨がちゃらりと鳴った。
「わしの代で、村が潰れては……」
「口の回る男じゃ」
オズワルドが、俺にだけ聞こえる声で言った。
「首の飾り玉は、全部ただのガラスじゃな。値打ちは、舌にしかない」
「待ってくれ」
俺は人垣を割って前に出た。
オズワルドが後ろから、酒瓶を抱えたままついてくる。「村の酒蔵が水浸しになっては困るでな」と、ここへ来る道すがら、三度は言っていた。その隣を、セラが俺の外套の端を指でつまんで歩いている。薄布の下の顔は強張っていた。村人たちの色が、一度に押し寄せているのだろう。
「あの井戸は、魔道具だ。祟りじゃない」
呪い師の目が、俺に止まった。
足の先から頭まで、ゆっくり舐めるように見る。そして、にたりと笑った。
「おお、色なき者か」
声が、わざとらしく広場へ響いた。
「これは災いじゃ。祟りの場に、無彩の者が踏み込めば、村ごと呪われるぞ!」
人垣の空気が、凍った。
背中に、視線が刺さる。聖堂で浴びたのと、同じ種類のものだった。濃い筋が、一斉にこちらへ集まってくる。濡れた頬を、霧のような水滴が伝う。拭う手が、一瞬ためらった。ここで言い返せば、あの日と同じ笑いが起きるかもしれない。
「そうだ、色がねえ……」
「不吉だ、近づけるな」
腕を掴まれた。農夫の太い手だった。別の手が肩を引く。三、四人がかりで、俺は泥の中を後ろへ引きずられていく。
「離せ。あの水は——」
「やめなさい」
セラの声が、広場を切った。
高くはない。けれど、よく通った。引く手が、ぴたりと止まる。
セラが、人垣と俺のあいだに立っていた。薄布を押さえた指先が震えているのに、背筋だけはまっすぐだった。
「ルミエール公爵家のセラフィナよ。——公爵家の名において、この人に触らせなさい」
村人たちが、息を呑んだ。
「公爵家の……」
「お嬢様か、あの」
袖を掴んでいた手が、ひとつ、またひとつと外れた。人垣が左右に割れ、井戸までの道が一本、泥の中に開く。
「行きなさい」
セラは前を向いたまま、小さく言った。
「余計なことはいいから。早く止めて」
「分かった」
返事をした自分の声が、聖堂のときより、ずっと落ち着いていた。泥に濡れた靴の中で、足の指がじっと地面を掴んでいた。
近づくほど、水の音は轟音に変わった。
濡れた石の縁に手をつく。目の前で水柱が、咆哮するように渦を巻いていた。
見えるのは、線だった。
井戸の底から立ち上る無数の水の線が、激しく暴れている。絡み、ちぎれ、また束になる。結び目を探そうとしても、線が多すぎて、どれが核なのか判別がつかない。
井戸の縁には、古びた水の魔道具が据えられていた。その柱の上部に、ひとつ、よく目立つ結び目がある。線が束になって脈打ち、誘うように。
——術を隠したい者は、まず目立つ結び目を作る。
老人の声が耳の奥で鳴り、引きかけた手を止めた。囮だ。
視線を、水柱の根元へ落とす。底のほうで、すべての水の線が同じ一点から流れ出していた。
魔道具の芯に、小さな石が嵌まっている。
親指の爪ほどの、丸い石だった。その周りだけ、線の流れとは別の向きで、薄い膜が被さっている。膜の端が、線からはみ出していた。体に合わない寸法の布を、無理に被せたように。
あの炎と、同じだ。
「祟りなんかじゃない」
声に出していた。
「あの石だ。石が、水を吐き出させてる」
「……言われてみれば、あの石だけ少し眩しいわ」
セラが、俺の背後で呟いた。
「何を言うか! 無彩の戯言に耳を貸すな!」
呪い師が叫んだ。だが、その目は、石のあたりを見ていなかった。見まいとしているように見えた。
「坊主、手を入れるつもりか」
オズワルドの声が、後ろから飛んだ。
「水圧で腕が飛ぶぞ。今朝のずぶ濡れの成果を見せてみい」
「……分かってる」
外套を脱ぎ捨てた。右袖を肩まで捲り上げる。まだ火傷の跡が指に残っているが、軟膏のおかげで動く。
息を吸って、水柱に腕を突っ込んだ。
冷たさが、骨まで貫いた。
一度目は、指が石に触れる前に、水に弾かれた。腕ごと跳ね飛ばされ、背中から泥に落ちる。人垣がどよめいた。誰かが短く悲鳴を上げた。
「数えるのも面倒になったわ。早く立ちなさい」
セラの声が、泥の向こうから飛んだ。毒舌の端が、わずかに湿っていた。
立つ。外套の裾から泥水が滴る。膝が笑っていた。それでも、今朝のずぶ濡れに比べれば、転ぶ位置を体が知っている。もう一度、突っ込む。
水の塊が腕を殴りつけた。肩ごと押し戻される。足が泥に滑り、膝をつきかけた。耳が水の轟音でふさがれ、何も聞こえない。
指のあいだを、水がすり抜けていく。握ろうとすれば逃げる。魚を素手で掴むのと、似ている。今朝、何度も同じ目に遭った。
掴むな。
指の力を抜いて、水の流れに沿わせる。流れに逆らわず、斜めに、すくい上げるように。
水の線が、ほんの一瞬、緩んだ。その隙間に、指を滑り込ませる。
届いた。
石に触れた。冷たい。濡れた表面の下で、小さな塗りの結び目が、虫が這うように蠢いている。
膜の端の一点。そこから、線が何本も絡まって、下へ潜り込んでいる。
水に打たれた頬が痛い。息ができない。それでも、見えていた。
「見えてる。——ほどける」
つまんで、引いた。
膜が、剥がれた。
まるで古い薄皮をめくるように、石を覆っていた塗りがほどけて、水に溶けていった。同時に、水の線が、音を立てて千切れる。轟音が、急に遠ざかった。
水柱が、崩れ落ちた。
降り注いだ最後の水が、屋根を叩き、泥を叩き、やがて雫の音だけになる。広場が、水を打ったように静まった。
俺は泥の中に座り込んでいた。腕が自分のものでないように重い。指先の感覚がない。目の前の濃淡が、霞の向こうへ沈むように滲んでいる。
水面から、石が転がり出た。
石の濃淡が、さっきまでとまるで違っていた。濃く澄んでいたものが、薄く濁り、灰を溶いたように曇っている。
「……濁ってる」
セラの声が、後ろで震えた。
「さっきまで、澄んだ蒼に見えていたのに。ただの屑石よ、これ」
村人たちのあいだから、どよめきが起きた。
「見たか、今の」
「石の色が、変わったぞ……」
「本当にただの石ころじゃねえか」
誰もが見ていた。俺にだけ見えるものではなかった。村人全員の目が、剥がれた石の色を見ていた。
「不吉だ」と叫んだ者たちが、口を閉ざして足元の泥を見つめている。誰も俺と目を合わせようとしなかった。
泥を跳ねる足音が近づいて、肩に濡れた外套が掛けられた。セラだった。護衛を呼ぶでもなく、自分の手で拾ってきたらしい。
「風邪をひかれたら、わたしが困るの」
「契約の範囲内か」
「……そうよ」
オズワルドが、のそのそと近づいてきて、石を拾い上げた。濡れた指先でひっくり返し、鼻に近づけて、眉を寄せる。
「偽彩じゃ」
低い声だった。酒の抜けた声だった。
「色の上に色を塗って、偽物を本物に見せる。ただの屑石に、立派な色を着せたんじゃな。わしも、他人の塗りが剥がれるのを見たのは初めてじゃがな」
老人は石を指で弾いた。
「この塗りは、井戸の水から足りん色を吸い上げすぎて溢れたんじゃ。三日もすれば溢れるよう、加減して塗ってある。……祟りを作る石じゃよ」
老人は石をつまんだまま、ゆっくり振り返った。
視線の先には、呪い師がいた。
呪い師の顔は、さっきまでの芝居がかった笑みを、どこかに置き忘れていた。頬が引きつり、飾り玉を握る指が白くなっている。
「ち、違う」
声が裏返っている。
「わしは知らん。その石は——」
「祟りだと、言ったな」
村長が、袋を握ったまま、一歩前に出た。
「あの石は、三日前にあんたが嵌めたんじゃ。『井戸の守りになる』と言うて。わしらは礼まで包んだ」
「井戸の主の怒りだと。祓い料を残らず出せと。……これは、その石のせいなんだな」
「そ、それは……」
村人たちの輪が、じりじりと狭まった。呪い師は後ずさろうとして、背中が人垣にぶつかる。振り返ると、農夫たちの太い腕が、逃げ道を塞いでいた。
「く……く、くそ!」
開き直った。
「わしは買っただけだ! 祓いの道具として、高い銀を払ってな! 騙されたのは、わしのほうだ!」
「誰から買った」
オズワルドが、静かに訊いた。
呪い師の顔から、血の気が引いた。唇が震え、目が泳ぐ。
「そ、それは……言えん。言えば、わしの命が……」
「ほう」
誰の名も、呪い師の口からは出なかった。ただ、怯え方だけが、石の出どころの深さを語っていた。
村長が、呪い師の手から奪い取るように、革の袋を取り戻した。男二人が縄を持ってきて、呪い師を縛り上げる。飾り玉がじゃらじゃらと鳴って、泥に落ちた。
「あの男は代官に突き出す」
オズワルドが、縄の結び目を一瞥して言った。
「……口は割らんじゃろうがな」
広場の空気が、ふっと緩んだ。
「灰色のお兄ちゃん」
小さな手が、俺の泥だらけの袖を引いた。
見下ろすと、五、六歳の子どもが立っていた。目が丸い。
「水、止めてくれたの?」
「……ああ」
「すごい」
子どもは、真顔で言った。
「ぼくの家、水がきてたんだ。ありがとう」
返す言葉が、見つからなかった。礼を言われたことなど、ほとんどない。喉の奥で、言葉が引っかかる。
そこへ、さっき俺の腕を引いた農夫が、帽子を握りしめてやってきた。
「さっきは、すまなんだ。乱暴に引っ張っちまって」
「いや。祟りだと言われたら、誰でも怖い」
「あんた、変な目をしとるが……いや、悪い意味じゃなくてな。いい目だ」
不器用な男だった。ガレスを思い出した。
「どういたしまして、と言えばいいのよ」
横から、セラが小さく教えた。
見ると、薄布の下の口元が、わずかに緩んでいた。
「笑ったのか」
「笑ってないわ」
「口が」
「笑ってないって言ってるでしょう」
子どもは、俺とセラの顔を交互に見て、きょとんとしている。
「……どういたしまして」
やっと言うと、子どもはにこっと笑って、母親らしい女のところへ駆けていった。
村長が、杖をついて近づいてきた。深く頭を下げる。
「ありがとうございました、旦那様。いや、先ほどは、とんだ失礼を」
「無彩だからな」
言ってから、口が滑ったと思った。けれど村長は、顔を上げて、首を横に振った。
「色なんぞより、あんたの手のほうが、よっぽど確かでしたわい」
どう返せばいいのか、分からなかった。
人垣が解けていく。村人たちは水浸しの家々の様子を見に散り、広場には、オズワルドとセラ、それに泥まみれの俺だけが残った。
老人が、手にした石を、俺に放り投げた。
左手で受け取る。濡れて冷たく、ずしりと重い。ほのかに、獣の匂いがした。
石の底に、何かが残っている。
塗りの名残だった。剥がれ落ちたはずの膜の端に、細い線が一本だけ、ほどけきらずに引っかかっている。
その線を、指先でそっとつまみ上げ、目の高さに持ってきた。
撚りの向き。右へ三度、左へ一度。糸の端が、ほどけるときの、小さな癖。
覚えがあった。
水盤の縁から、薄い膜を広げていった、あの指輪の線。聖堂の石床の冷たさ。香の匂い。司祭の袖から伸びた、糸くずのような線。
同じだ。
「……撚りの癖まで、あの指輪と同じだ」
自分の声が、喉の奥で掠れた。
「——同じ手が、作ったものだ」




