第03話「線画」
「治せん」
扉は、まだ指の幅ほどしか開いていなかった。隙間から酒の匂いが流れ出し、その奥で、老人の声がもう一度言った。
「目は治すもんじゃない。帰れ」
公爵家の馬車を起こして灰塔の麓に着いたのは、日の落ちる頃だった。崩れかけた石の塔が、夕闇の中で傾いて立っている。窓の半分には板が打ちつけられ、壁の裂け目から蔦が垂れていた。ここに、人が住んでいるのか。
「お待ちください」
セラが一歩前に出た。薄布を押さえた指先が、わずかに震えている。
「わたしはルミエール公爵家のセラフィナ。ここに来るのに、十日かかりました。せめて話だけでも」
「公爵家じゃろうが王家じゃろうが、治せんもんは治せん」
「無礼な! お嬢様は——」
護衛が前に出て、扉に手をかけた。板が軋んで、老人の舌打ちが聞こえた。
「家名で脅すなら、帰りに足元を気をつけるんじゃな。この塔の階段は、そう長持ちせん」
閉まりかけた扉の隙間から、片目だけが覗いた。皺に埋もれた小さな目が、セラの上を通り過ぎ、その隣で、止まった。
俺だった。
老人の動きが、止まる。
俺は老人の顔を見ていなかった。扉の隙間からこぼれる灯りの筋と、その奥の燭台から立つ線を、目で追っていた。老人は、その視線の先をゆっくり辿った。
「……ほう」
扉が、さらに開いた。
「お前さん、誰の顔も見とらんな。線を追っとる」
俺は返事をしなかった。ただ、胸の奥に何かが引っかかった。誰かに、生まれて初めて「見ているもの」を言い当てられたような。
「入れ。そこの小僧だけじゃ」
老人の吐く息は、酒と薬草の混じった匂いがした。
「待ちなさい」
セラが一歩踏み出した。
「治療を頼みに来たのはわたしよ。その人は、ついでのはず」
「ついでじゃよ。お前さんも入れ。ただし、酒瓶を蹴るなよ。蹴ったら、弁償してもらうぞ」
「いくらなの」
「一本、銀貨三枚じゃ」
「……ぼったくりね」
塔の中は、黴と古紙の匂いが濃かった。床は書物の山で埋まり、その隙間に空の酒瓶が転がっている。足を出すたびに瓶がぶつかって、澄んだ音を立てた。階段が、段ごとに違う音で鳴る。
「治せないと言った人の家に、わたしが上がり込むなんて。みっともないこと」
毒の混じった声だった。けれど、階段の手すりを握る指が白く強張っているのは、俺にも見えた。
「……ここで、人が暮らしているの?」
セラが、袖で鼻と口を覆って、塔の中を見回した。
「暮らしとるとも。酒もある」
オズワルドは先頭に立って、片手に酒瓶をぶら下げたまま階段を上っていく。足取りは危ういのに、段の軋む位置だけは正確に避けていた。護衛の騎士のほうが、二度ほど足を踏み外した。
最上階の部屋は、酒瓶の森だった。卓の上だけが片付いている。オズワルド・グラウと名乗った老人は、その卓に燭台を二つ並べて、俺たちを向かいに座らせた。
「治せんと言ったのは、嘘ではない。じゃがな、お前さんの目に興味がないわけでもない。そっちの小僧の目にも、興味がある」
「その人の目に、何の関係があるの」
「試すんじゃ。黙って見とれ」
オズワルドが指を鳴らすと、二つの燭台に、同時に炎が灯った。
ひとつは左、ひとつは右。どちらも、ゆらゆらと熱を持った濃い線を立ち昇らせている。
「小僧。どちらが紅じゃ」
俺は、答えられなかった。
どちらも、同じ濃さに見えた。いや、色が分からないのだから、そもそも答えようがない。
「どちらも同じ紅よ」
セラが即座に言った。
「濃さも同じ。何を試しているの」
「ほう。さすがは公爵家の目じゃな」
オズワルドが、俺に目を向けた。
「小僧は、どうじゃ」
「色は分からない」
「色などどうでもよい。見えたものを言え」
老人の声が、少しだけ早口になった。目の奥で、小さな火が灯ったようだった。
見えたもの。
俺は、二つの炎をじっと見つめた。
線が立ち昇っている。右の炎は、線の流れに沿って、素直に伸びていた。
左の炎は、違った。
流れの上に、薄い何かが被さっている。その向きが、線の流れと揃っていない。塗り絵の色が、輪郭を少しだけはみ出すように。
あの水盤で見た、司祭の指輪と、同じだった。
「左は、嘘をついてる」
声が、思ったより低く出た。
「塗りが、線からはみ出してる」
セラが息を呑む音がした。
「何を言っているの。左も右も、同じ紅よ。わたしの目が間違えるはずがない」
「ほう、そうか」
オズワルドが、左の炎に、指を差し入れた。
「おい!」
護衛が声を上げた。だが老人の指は焼けない。炎の表面を、何かを拭うように、すっと横に撫でた。
炎が、揺れた。
そして、変わった。
「……淡い」
セラが、呆然と呟いた。
「さっきまで、あんなに濃かったのに」
左の炎は、右よりも、はるかに薄く、弱々しく燃えていた。俺の目には、塗りが剥がれて、線が細く頼りなくなったのが見えた。
「化粧した炎じゃよ。わしが塗った化粧じゃ。自分で塗ったもんは、自分で落とせる」
オズワルドが、指先を袖で拭った。ちらりと、俺に目を向ける。
「じゃが、他人の塗りは、わしにはどこから剥がせばええか見えん。……見えるのは、線を見とる目だけじゃ」
「そんな。わたしが、見抜けなかった……」
「……言われてみれば、左は少し眩しすぎた気がする。でも、それだけ。偽物だと言える根拠は、何もなかったわ」
セラの声は、小さかった。唇を一度噛んで、顔を上げる。薄布の端を握る手だけが、まだ強張っていた。毒舌を返す余裕さえ、なさそうだった。ややあって、絞り出すように言った。
「……次は、見抜くわ」
「その意気じゃ」
「色の見える者ほど、色に騙される」
オズワルドが、酒瓶を取り上げて口をつけた。
「じゃが色の見えん目は、色に騙されん。線は、塗りの下で、ずっと本当のことを言っとる」
俺は、黙っていた。胸の奥で何かが、ゆっくり動いている。
「小僧」
オズワルドが、酒瓶を卓に置いた。
「お前の目は、欠けてなどおらん。皆が塗り絵を見とるところを、お前だけが線画を見とる」
喉の奥が、熱くなった。誰かにそう言われたのは、十五年で初めてだった。礼を言おうとしたが、言葉が出てこなかった。代わりに、握った指を、ゆっくり開いた。
「それに」
オズワルドが、窓際に降ろしてあった木箱に歩み寄った。教会が追放者に持たせる慣例の、香袋の木箱だ。老人は蓋を開け、鼻を寄せた。
「甘い匂いじゃな」
「ただの香袋でしょう」
「いや」
指で袋を一つ摘まみ、老人は眉を寄せた。
「これは、褪せ狼を呼ぶ香じゃ。色を喰う狼じゃ。教会の香袋に、混ぜてある」
老人は蓋を閉じ、荷紐でぐるぐると縛った。
「……狙われたのは、わたし?」
セラの声が硬かった。
「狼は濃い色へ流れる。お前さんの馬車が近くにおったのは、運が悪かったの」
部屋の空気が、冷えた。
褪せ狼。あの群れは、偶然ではなかった。
あの水盤の前で、笑っていた司祭の顔が浮かんだ。慈悲深く微笑んでいた、あの顔が。
俺は黙って、右手を握った。まだ痺れの残る指先が、かすかに震えている。握りしめないと、震えが全身に広がりそうだった。
「旦那様は、このことをご存じないはずだ。報せにゃなりません」
ガレスが、壁に手をつきながら立ち上がった。腕に巻いた布から、血が滲んでいる。
止めかけて、やめた。
「三十日後じゃ」
オズワルドは、窓辺に酒瓶を抱えて座っていた。窓の外は、すっかり夜だ。崩れた城壁の向こうに、遠い山の稜線が墨のように連なっている。星の下を、風の線が音もなく流れている。俺は老人の隣に立って、しばらく同じ方角を眺めた。老人は何も訊かなかった。それが、居心地よかった。
階段を上がってきたセラが、その隣に並んだ。護衛は下に残したらしい。
「王立学院の入試が、三十日後にある。お前さんの目が何なのか、わしの説では分かっとる。じゃが、色の見える者に、それは証明できん」
「あなたの説を、聞かせて」
「聞かせてもよいが、わしは異端で追放された身じゃ。わしが何を言うても、誰も聞かん。証明するには、学院の中へ入って、皆の前でやってみせるしかない」
「無彩には受験資格がないわ」
セラが、すかさず言った。
「あるんじゃよ、枠が」
「そんなもの、聞いたことがない」
「わしが教授だった頃に作った、推薦の枠じゃ。研究生枠という。学院長が認めれば、無彩の者でも入試を受けられる」
「認められる保証は?」
「ない。実績を作れ。三十日で、学院長が頷くだけの実績をな」
「雑な制度ね」
「作った本人の前でよう言う」
セラが言葉に詰まって、咳払いした。窓の隙間から、夜風が蝋燭の火を揺らす。その炎の線が、ふっと細くなって、また戻った。俺は黙って、二人のやりとりを聞いていた。
「そうだわ」
セラが、思い出したように言った。
「わたしの入試も三十日後なの。治療が受けられないなら、せめてその間、ここに滞在させて。この人の隣にいることにするわ」
「ここに? この塔にか?」
「公爵家が、滞在費を出すわ。もちろん、あなたの酒代も」
オズワルドの手が、ぴたりと止まった。
「……酒代は、いくらじゃ」
「好きなだけ」
「歓迎しよう」
老人は酒瓶越しに、ちらりとセラを見た。
「治せんがな。……お前さん、その小僧の隣では、ずいぶん静かそうじゃな」
セラは口を開きかけて、閉じた。言い返す言葉を探す気配だけが、薄布の下に残った。
あっさり折れた老人に、護衛が呻いた。
塔の外は、星が降るようだった。
馬の鼻息が、夜気の中で白く伸びる。荷を括った鞍の革が、冷えてきしんでいる。ガレスが、手綱を握って立っていた。腕の布は、新しく巻き直されている。公爵家の馬を一頭、借り受けたのだという。
「坊ちゃん」
ガレスが、帽子を取った。頭を下げる。
「おれには、坊ちゃんの目のことは分かりません。難しい話は、半分も」
「ああ」
「でも、あんたの見てるもんは、本物だ。おれが保証します」
それだけ言って、ガレスは顔を上げた。声の端が、少し詰まっていた。
ガレスは鞍に跨ると、一度だけ振り返った。口の端を無理に上げて、片手を挙げる。
馬が、闇の中へ駆けていった。蹄の音が、遠ざかる。
背後で、窓の軋む音がした。
「小僧」
見上げると、塔の窓から、オズワルドが身を乗り出していた。手には酒瓶。
「三十日じゃ。それまでに、その目が本物だと、学院の連中に見せつけてみい」
「……見せる」




