↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/5

第03話「線画」

「治せん」


扉は、まだ指の幅ほどしか開いていなかった。隙間から酒の匂いが流れ出し、その奥で、老人の声がもう一度言った。


「目は治すもんじゃない。帰れ」


公爵家の馬車を起こして灰塔の麓に着いたのは、日の落ちる頃だった。崩れかけた石の塔が、夕闇の中で傾いて立っている。窓の半分には板が打ちつけられ、壁の裂け目から蔦が垂れていた。ここに、人が住んでいるのか。


「お待ちください」


セラが一歩前に出た。薄布を押さえた指先が、わずかに震えている。


「わたしはルミエール公爵家のセラフィナ。ここに来るのに、十日かかりました。せめて話だけでも」


「公爵家じゃろうが王家じゃろうが、治せんもんは治せん」


「無礼な! お嬢様は——」


護衛が前に出て、扉に手をかけた。板が軋んで、老人の舌打ちが聞こえた。


「家名で脅すなら、帰りに足元を気をつけるんじゃな。この塔の階段は、そう長持ちせん」


閉まりかけた扉の隙間から、片目だけが覗いた。皺に埋もれた小さな目が、セラの上を通り過ぎ、その隣で、止まった。


俺だった。


老人の動きが、止まる。


俺は老人の顔を見ていなかった。扉の隙間からこぼれる灯りの筋と、その奥の燭台から立つ線を、目で追っていた。老人は、その視線の先をゆっくり辿った。


「……ほう」


扉が、さらに開いた。


「お前さん、誰の顔も見とらんな。線を追っとる」


俺は返事をしなかった。ただ、胸の奥に何かが引っかかった。誰かに、生まれて初めて「見ているもの」を言い当てられたような。


「入れ。そこの小僧だけじゃ」


老人の吐く息は、酒と薬草の混じった匂いがした。


「待ちなさい」


セラが一歩踏み出した。


「治療を頼みに来たのはわたしよ。その人は、ついでのはず」


「ついでじゃよ。お前さんも入れ。ただし、酒瓶を蹴るなよ。蹴ったら、弁償してもらうぞ」


「いくらなの」


「一本、銀貨三枚じゃ」


「……ぼったくりね」


塔の中は、黴と古紙の匂いが濃かった。床は書物の山で埋まり、その隙間に空の酒瓶が転がっている。足を出すたびに瓶がぶつかって、澄んだ音を立てた。階段が、段ごとに違う音で鳴る。


「治せないと言った人の家に、わたしが上がり込むなんて。みっともないこと」


毒の混じった声だった。けれど、階段の手すりを握る指が白く強張っているのは、俺にも見えた。


「……ここで、人が暮らしているの?」


セラが、袖で鼻と口を覆って、塔の中を見回した。


「暮らしとるとも。酒もある」


オズワルドは先頭に立って、片手に酒瓶をぶら下げたまま階段を上っていく。足取りは危ういのに、段の軋む位置だけは正確に避けていた。護衛の騎士のほうが、二度ほど足を踏み外した。


最上階の部屋は、酒瓶の森だった。卓の上だけが片付いている。オズワルド・グラウと名乗った老人は、その卓に燭台を二つ並べて、俺たちを向かいに座らせた。


「治せんと言ったのは、嘘ではない。じゃがな、お前さんの目に興味がないわけでもない。そっちの小僧の目にも、興味がある」


「その人の目に、何の関係があるの」


「試すんじゃ。黙って見とれ」


オズワルドが指を鳴らすと、二つの燭台に、同時に炎が灯った。


ひとつは左、ひとつは右。どちらも、ゆらゆらと熱を持った濃い線を立ち昇らせている。


「小僧。どちらが紅じゃ」


俺は、答えられなかった。


どちらも、同じ濃さに見えた。いや、色が分からないのだから、そもそも答えようがない。


「どちらも同じ紅よ」


セラが即座に言った。


「濃さも同じ。何を試しているの」


「ほう。さすがは公爵家の目じゃな」


オズワルドが、俺に目を向けた。


「小僧は、どうじゃ」


「色は分からない」


「色などどうでもよい。見えたものを言え」


老人の声が、少しだけ早口になった。目の奥で、小さな火が灯ったようだった。


見えたもの。


俺は、二つの炎をじっと見つめた。


線が立ち昇っている。右の炎は、線の流れに沿って、素直に伸びていた。


左の炎は、違った。


流れの上に、薄い何かが被さっている。その向きが、線の流れと揃っていない。塗り絵の色が、輪郭を少しだけはみ出すように。


あの水盤で見た、司祭の指輪と、同じだった。


「左は、嘘をついてる」


声が、思ったより低く出た。


「塗りが、線からはみ出してる」


セラが息を呑む音がした。


「何を言っているの。左も右も、同じ紅よ。わたしの目が間違えるはずがない」


「ほう、そうか」


オズワルドが、左の炎に、指を差し入れた。


「おい!」


護衛が声を上げた。だが老人の指は焼けない。炎の表面を、何かを拭うように、すっと横に撫でた。


炎が、揺れた。


そして、変わった。


「……淡い」


セラが、呆然と呟いた。


「さっきまで、あんなに濃かったのに」


左の炎は、右よりも、はるかに薄く、弱々しく燃えていた。俺の目には、塗りが剥がれて、線が細く頼りなくなったのが見えた。


「化粧した炎じゃよ。わしが塗った化粧じゃ。自分で塗ったもんは、自分で落とせる」


オズワルドが、指先を袖で拭った。ちらりと、俺に目を向ける。


「じゃが、他人の塗りは、わしにはどこから剥がせばええか見えん。……見えるのは、線を見とる目だけじゃ」


「そんな。わたしが、見抜けなかった……」


「……言われてみれば、左は少し眩しすぎた気がする。でも、それだけ。偽物だと言える根拠は、何もなかったわ」


セラの声は、小さかった。唇を一度噛んで、顔を上げる。薄布の端を握る手だけが、まだ強張っていた。毒舌を返す余裕さえ、なさそうだった。ややあって、絞り出すように言った。


「……次は、見抜くわ」


「その意気じゃ」


「色の見える者ほど、色に騙される」


オズワルドが、酒瓶を取り上げて口をつけた。


「じゃが色の見えん目は、色に騙されん。線は、塗りの下で、ずっと本当のことを言っとる」


俺は、黙っていた。胸の奥で何かが、ゆっくり動いている。


「小僧」


オズワルドが、酒瓶を卓に置いた。


「お前の目は、欠けてなどおらん。皆が塗り絵を見とるところを、お前だけが線画を見とる」


喉の奥が、熱くなった。誰かにそう言われたのは、十五年で初めてだった。礼を言おうとしたが、言葉が出てこなかった。代わりに、握った指を、ゆっくり開いた。


「それに」


オズワルドが、窓際に降ろしてあった木箱に歩み寄った。教会が追放者に持たせる慣例の、香袋の木箱だ。老人は蓋を開け、鼻を寄せた。


「甘い匂いじゃな」


「ただの香袋でしょう」


「いや」


指で袋を一つ摘まみ、老人は眉を寄せた。


「これは、褪せ狼を呼ぶ香じゃ。色を喰う狼じゃ。教会の香袋に、混ぜてある」


老人は蓋を閉じ、荷紐でぐるぐると縛った。


「……狙われたのは、わたし?」


セラの声が硬かった。


「狼は濃い色へ流れる。お前さんの馬車が近くにおったのは、運が悪かったの」


部屋の空気が、冷えた。


褪せ狼。あの群れは、偶然ではなかった。


あの水盤の前で、笑っていた司祭の顔が浮かんだ。慈悲深く微笑んでいた、あの顔が。


俺は黙って、右手を握った。まだ痺れの残る指先が、かすかに震えている。握りしめないと、震えが全身に広がりそうだった。


「旦那様は、このことをご存じないはずだ。報せにゃなりません」


ガレスが、壁に手をつきながら立ち上がった。腕に巻いた布から、血が滲んでいる。


止めかけて、やめた。


「三十日後じゃ」


オズワルドは、窓辺に酒瓶を抱えて座っていた。窓の外は、すっかり夜だ。崩れた城壁の向こうに、遠い山の稜線が墨のように連なっている。星の下を、風の線が音もなく流れている。俺は老人の隣に立って、しばらく同じ方角を眺めた。老人は何も訊かなかった。それが、居心地よかった。


階段を上がってきたセラが、その隣に並んだ。護衛は下に残したらしい。


「王立学院の入試が、三十日後にある。お前さんの目が何なのか、わしの説では分かっとる。じゃが、色の見える者に、それは証明できん」


「あなたの説を、聞かせて」


「聞かせてもよいが、わしは異端で追放された身じゃ。わしが何を言うても、誰も聞かん。証明するには、学院の中へ入って、皆の前でやってみせるしかない」


「無彩には受験資格がないわ」


セラが、すかさず言った。


「あるんじゃよ、枠が」


「そんなもの、聞いたことがない」


「わしが教授だった頃に作った、推薦の枠じゃ。研究生枠という。学院長が認めれば、無彩の者でも入試を受けられる」


「認められる保証は?」


「ない。実績を作れ。三十日で、学院長が頷くだけの実績をな」


「雑な制度ね」


「作った本人の前でよう言う」


セラが言葉に詰まって、咳払いした。窓の隙間から、夜風が蝋燭の火を揺らす。その炎の線が、ふっと細くなって、また戻った。俺は黙って、二人のやりとりを聞いていた。


「そうだわ」


セラが、思い出したように言った。


「わたしの入試も三十日後なの。治療が受けられないなら、せめてその間、ここに滞在させて。この人の隣にいることにするわ」


「ここに? この塔にか?」


「公爵家が、滞在費を出すわ。もちろん、あなたの酒代も」


オズワルドの手が、ぴたりと止まった。


「……酒代は、いくらじゃ」


「好きなだけ」


「歓迎しよう」


老人は酒瓶越しに、ちらりとセラを見た。


「治せんがな。……お前さん、その小僧の隣では、ずいぶん静かそうじゃな」


セラは口を開きかけて、閉じた。言い返す言葉を探す気配だけが、薄布の下に残った。


あっさり折れた老人に、護衛が呻いた。


塔の外は、星が降るようだった。


馬の鼻息が、夜気の中で白く伸びる。荷を括った鞍の革が、冷えてきしんでいる。ガレスが、手綱を握って立っていた。腕の布は、新しく巻き直されている。公爵家の馬を一頭、借り受けたのだという。


「坊ちゃん」


ガレスが、帽子を取った。頭を下げる。


「おれには、坊ちゃんの目のことは分かりません。難しい話は、半分も」


「ああ」


「でも、あんたの見てるもんは、本物だ。おれが保証します」


それだけ言って、ガレスは顔を上げた。声の端が、少し詰まっていた。


ガレスは鞍に跨ると、一度だけ振り返った。口の端を無理に上げて、片手を挙げる。


馬が、闇の中へ駆けていった。蹄の音が、遠ざかる。


背後で、窓の軋む音がした。


「小僧」


見上げると、塔の窓から、オズワルドが身を乗り出していた。手には酒瓶。


「三十日じゃ。それまでに、その目が本物だと、学院の連中に見せつけてみい」


「……見せる」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。