第02話「うるさい世界」
横倒しの馬車の向こうから、悲鳴ではなく、怒鳴り声が聞こえた。
まだ、誰か生きている。
「坊ちゃん、行っちゃいけません」
ガレスが腕を押さえたまま、俺の外套の裾を掴んだ。血の染みた袖口から、指先から濃い滴が落ち続けている。俺の右手も、まだ自分のものではなかった。指を曲げようとすると、関節の奥で細かい針が弾ける。
「線が、あっちを指してる」
「線がなんだってんです。あの数は、坊ちゃんの目でも」
言葉の途中で、ガレスは口を閉じた。森の切れ目の向こうに、それが見えたからだ。
俺たちは木立の陰を抜け、街道の端まで出た。倒れた木々を跨ぎ、茂みを肘で分ける。右手が枝に当たるたび、肩まで痺れが走った。
森を抜けた先の街道脇に、馬車が一台、横倒しになっていた。車体は俺たちの乗ってきたものの倍はある。扉に、盾の形をした紋章が打たれていた。その周りを、狼が囲んでいる。十頭を下らない。唸り声は地面を這うように低く、腹に響いた。
護衛の騎士が二人、馬車を背にして立っていた。ひとりが剣を振る。刃の上に、熱を持った濃い線が走った。
狼が、それを吸った。
隣の騎士が水の魔術を放つ。水の線も、吸われる。喰われるたびに、狼の体を巡る線がふくらみ、焦げた匂いだけが宙に残った。乾いた土に、水の魔術の湿り気がじわりと染みていく。
「くそ、効かん! お嬢様をお守りしろ!」
お嬢様。
「あの紋は、公爵家のものだ」と、ガレスが唸った。「坊ちゃん、手を出していい相手じゃありませんぜ」
「出すんじゃない。助けに行くんだ」
自分の声が、思ったより硬く出た。
目を凝らす。狼たちの体から伸びる線は、一本残らず、横倒しの馬車の中の一点へ向かっていた。
そこだけ、濃淡が飽和している。線が多すぎて、塗り潰されたように形が見えない。見ているだけで目の奥が焼けた。太陽を正面から覗いたときと、似ていた。
軋む音がして、馬車の扉が内側から蹴り上げられた。
薄い布で目を覆った少女が、よろめきながら這い出てくる。長い髪が泥に引きずられ、手が空を探っていた。群れの中でひときわ大きい一頭が、ゆっくりと首をめぐらせ、彼女のほうへ向いた。
群れの頭は、さっきの狼より、ふた回りは大きかった。
体を巡る線は太く、幾重にも絡み合っている。喉の付け根を探したが、そこに結び目はない。毛皮の厚い首の後ろに、深く埋もれていた。正面からでは、指が届かない。
右手を握ろうとして、握れなかった。親指と人差指が、互いの場所を忘れたように空をつまむ。冷えた指で縫い針をつまむような鈍さだった。この手で細い糸を探れば、掴み損ねる。
「坊ちゃん、無理です。その手じゃ」
ガレスが言い、落ちていた折れ枝を杖の代わりに突いた。立っているのがやっとの男の、精一杯の止め方だった。無理なのは分かっていた。
では、どうする。
考えながら、狼たちの動きを見ていた。その間にも、護衛のひとりが膝を折り、もうひとりが馬車の背に押しつけられていく。時間はなかった。護衛の騎士が剣を振るたびに、群れの目はそちらへ集まる。炎へ寄り、水へ寄り、そして馬車の中の一点へ戻る。
狼は、色の濃いほうへ流れる。
さっきの森でも、そうだった。俺の脇を、あいつらは見向きもせず駆け抜けた。
俺には、色がない。
だったら。
俺は街道へ踏み出した。剣も持たず、盾も持たず、真っ直ぐに群れへ向かって歩いた。
「おい、そこの者! 下がれ!」
護衛の騎士が叫ぶ。聞こえないふりをした。足の下で、乾いた土が砂利のように鳴る。
最初の狼が、俺の正面から突っ込んできた。牙が見える。息が熱い。
そして、俺の左を通り過ぎていった。
二頭目は右へ、三頭目は肩口をかすめて、少女のほうへ。川の中に立つ石を避けて流れる水のように、群れが俺を避けていく。毛皮が外套の裾を擦り、爪の音が耳元で弾けた。尾に右腕を打たれ、痺れた指から鈍い痛みが這い上がる。歯を食いしばって、足は止めなかった。
馬車の前の騎士が、剣を下ろして目を見開いている。「なぜ襲われない……」という呟きが、唸り声の隙間から届いた。
俺は少女の前に立った。
背中の向こうで、少女が息を詰めるのが分かった。護衛の叫びが遠くなる。耳の中で、自分の脈だけがうるさい。目の前には、群れの頭がいる。低い唸りが、胸骨を震わせた。ここなら、頭が少女へ跳ぶとき、その首に手が届く。左手しか使えない。外せば、次はない。
頭が跳んだ。
少女ではなく、少女の色へ。巨体が俺の肩をかすめ、通り過ぎる。その首の後ろが、すぐ脇にあった。
左手を伸ばす。
右ほど器用には動かない。指が毛皮に沈み、結び目の端に触れた。つまむ。引く。
ほどけた。半分だけ。
束になった線の片側がゆるんで、もう片側が残った。頭の体が空中で傾き、地面に落ちる。転がりながら、立ち上がろうとしてもがいた。力の抜けた半身と、まだ脈打つ半身が、ちぐはぐに暴れる。
もう一度、左手で押さえた。残った結び目を、指で探る。熱い。毛皮の下で、跳ねるように逃げる。
「——ここだ」
つまんで、引いた。
線が、解けた。
群れの頭の輪郭が、ほぐれる縄のように崩れて、灰になる。その瞬間、周りの狼たちの動きが止まった。頭を失った群れは、互いに顔を見合わせ、ひとつ、またひとつと、森のほうへ散っていく。
静かになった。
左手の指先が痺れている。右と違って、感覚がじわじわと薄れていく。膝が笑い、俺は地面に片手をついて息を整えた。灰の混じった風が、頬の傷にしみた。
「うるさい……」
背後で、少女が呻いた。
薄布を押さえて、膝をついている。外傷はなかった。それなのに、身体を折り、爪を頭に食い込ませて、苦しんでいる。
「うるさい、うるさい、うるさい……」
「おい。怪我は」
近づいた俺の足を、護衛のひとりが遮った。
「近寄るな、無彩の者。お嬢様に触れるな」
硬い敬語の底に、露骨な蔑みがあった。色の見える者には、俺に色がないことが一目で分かるらしい。護衛の目は、俺の顔ではなく、俺のまわりの何もない場所を見ていた。
「怪我をしてるかもしれない」
「お嬢様は、彩過敏だ。お前のような者に分かることではない」
「サイカビン」
聞いたことのない言葉だった。護衛は答えず、少女の肩に手を伸ばした。その手を、少女が払いのける。
「触らないで。あなたたちの色が、うるさいの」
少女の声には、怒りよりも疲れが濃かった。
「しかし、お嬢様」
「うるさい、と言ったわ」
少女がふらりと立ち上がり、足がもつれた。倒れる、と思ったときには、体が前へ出ていた。
腕を差し出す。細い体が、俺の胸に落ちてきた。
重さは、ほとんどなかった。焼けていた一点は、腕の中では、ただの細い少女の形をしていた。
少女の呻きが、止まった。
「……え」
薄布の下の目が、俺のほうを向いていた。肩が小さく上下している。さっきまで爪を立てていた指から、力が抜けていった。
「どうして。あなたの周りだけ、色が、静か」
声が震えていた。
「赤も、青も、金も、全部が叫んでるの。この目を開けた瞬間から、ずっと。耳を塞げば音は消えるのに、目は閉じても閉じても、頭の中に流れ込んでくる。それなのに——」
少女は、薄布越しに、俺の顔を見上げた。
「あなたのそばだけ、何もない」
返す言葉が見つからなかった。静かだと言われても、俺はただ立っていただけだ。
「何もない、か」
「褒めてないわ」
言いながら、少女は薄布の端を指で押さえた。
「こんな目、いらないのよ。……聞かなかったことにして」
聞こえてしまったものは、仕方がない。それでも俺は黙っていた。見えすぎる苦しみは、見えない俺には分からない。ただ、さっきまで折れそうだった肩が、俺の腕の中で静かになったことだけは確かだった。
少女は俺の腕から身を離し、姿勢を正して、泥のついた裾を払った。
「セラフィナ・ルミエール。公爵家の娘よ。灰塔のオズワルド様に、この目の治療を頼みに行く途中だったの」
「リオだ」
「それだけ?」
「廃嫡されたから、姓はない」
護衛がなにか言いかけたが、セラの視線が向いただけで口を閉じた。
「頼んではいないわ。……でも、礼は言っておく」
振り返ると、腕から血を流したガレスが、いつの間にか俺の後ろに立っていた。
「うちの坊ちゃんがいなけりゃ、あんたら全員、狼の腹の中でしたぜ」
「無礼な」
「事実でさあ」
ガレスは胸を張ったつもりらしく、傷ついた腕が痛んで顔をしかめた。
護衛の肩が強張った。
ガレスの袖から落ちる滴を見て、セラが眉を寄せた。「その腕、早く縛りなさい。公爵家の馬車を守って死なれては、寝覚めが悪いもの」。言い方は刺々しかったが、護衛に布を出させる手配は早かった。
セラは、まじまじと俺を眺めていた。
「あなた、顔は悪くないのね」
「見えないから分からない」
「……そういう意味じゃないわ」
ガレスが、後ろで小さく咳払いした。
「あなたは、どこへ行くの」
「灰塔領だ。追放先になる」
「奇遇ね。わたしも、同じ道よ。三十日後には、王立学院の入試も受けなければならないのだけれど」
最後の一言を、セラはついでのように言った。まるで、天気の話でもするように。
それから、護衛を見た。
「下がっていなさい。この人とは、わたしが話すわ」
「お嬢様、しかし」
「二度言わせないで」
護衛は黙って、半歩下がった。鎧の擦れる音だけが、遅れて残った。
セラは薄布を押さえ、再び俺に向き直る。
「あなたの隣は、静かな場所ね。使えるわ。手放す理由がないもの」
「わたしの隣にいなさい。——報酬は払うわ」




