第01話「無彩」
水盤の水は冷たいと聞いていた。
指先が触れた瞬間、冷たさが骨まで刺さった。聞いていたより、ずっと。その水面を、線が奔った。四方へ、等しく、どこまでも。細く白い筋が波紋より速く縁まで駆け、石の壁にぶつかって折り返し、また中心へ戻ってくる。きれいだった。
判定の場であることも忘れ、俺は息をのんで見入った。これが何なのか知りたい。自分の目に映るこの線が、ほかの誰にも見えていないものなのか、それとも俺が見ているのは、皆と同じものの欠片にすぎないのか。それさえ分かれば、儀式の結果などどうでもよかった。
生まれてから十五年、俺の目には濃淡しか映らない。人はそれを色と呼び、魔力の性質を色で見分けるのだという。たとえば火の魔力を、皆は紅と呼ぶ。俺にとっては、ただ熱を持った濃い線だ。
だが線なら、いつも見えていた。墨で引いたように、はっきりと。
大聖堂の天井は高く、冷えた石の床から湿った香の匂いが立ち上っている。壇の下には領民と貴族がぎっしり詰めかけ、その視線の束が背中に重い。人いきれと蝋燭の煤で、空気は粘るように濃かった。咳払いひとつ、衣擦れひとつが、天井に反響して大きく返ってくる。この儀式は、色が人の値打ちを決めるこの国で、いちばん大きな祭りだった。無彩と出れば、家は継げない。
「これは……」
壇上の司祭ヴィクトルが、水盤を覗き込むふりをして一歩寄った。重たい刺繍の入った長い袖を持ち上げ、指輪をはめた右手を、水盤の縁へそっと置く。
その指輪から、細い線が一本伸びた。
水面に触れた線は、右へ三度、左へ一度よじれながらほどけ、薄い膜になって広がった。膜は、四方へ駆けていた俺の線を、上から押さえつけた。駆け回っていた筋がひとつ、またひとつ、水の底へ沈んで消える。最後に残ったのは、波ひとつない、底の知れない暗い水面だけだった。
膜の端が、線の流れからはみ出している。塗り絵の色が、輪郭をはみ出すように。
「無彩」
司祭の声が、聖堂に響いた。
「この子に、色はない」
ざわめきが、床を這うように広がった。人垣の頭がいっせいにこちらへ傾き、無数の濃い筋のような視線が、俺ひとりの上に集まってくる。前列の婦人が扇で口元を隠す。誰かが「やはり」と呟いた。父は壇の脇に立ったまま、石像のように動かない。
「待ってください」
声を出していた。
「今、指輪で何をした」
ヴィクトルの手が止まる。指輪の線が、するりと袖の中へ引っ込むのが見えた。
司祭は、ゆっくりと俺のほうへ顔を向けた。皺の深い顔が、慈悲そのものといった形にほころぶ。
「哀れな子だ。色の見えぬ者には、神の御業までもが細工に見えてしまうのだね」
笑い声が起きた。最初は小さく、次に大きく。
「同じ家から出た子でも、こうも違うものか。弟君は、最も鮮やかな紅だったというのに」
司祭は憐れむように、そう付け加えた。
言い返す言葉が、喉の奥で尽きた。細工を見たのは、会場に俺ひとりだ。証拠はどこにもない。笑い声の中で、頬だけがやけに冷たかった。膝の裏を、床の冷気がじわじわと這い上がってくる。
そのとき、父の目が動いた。ほんの一瞬だけ、俺ではなく司祭の袖口のほうへ。すぐに、何事もなかったように正面へ戻る。
「リオ・ヴェルナー。本日をもって、廃嫡とする」
「北の灰塔領へ移れ。馬車は用意してある」
馬車の車輪が石畳から土の道に変わると、揺れ方が丸くなった。
窓の外を、街道沿いの木々が流れていく。車輪が小石を踏むたびに、座面の板が尻を打った。荷台の荷が揺れるたびに、革と埃の匂いが鼻先をかすめた。馬車に積まれたのは、着替えが二枚と、教会が追放者に持たせる慣例の、香袋の木箱だけ。十五年の生家の暮らしが、これで全部だった。風が梢をなでるたびに、空気の中を細い筋が走るのが見える。濃い筋、薄い筋。それが重なり合って、葉をざわつかせる。目で追っているうちに、聖堂の重さが少しずつほどけていった。
「坊ちゃん」
向かいの席から声がかかった。護衛騎士のガレスだ。日に焼けた大きな手に、干し肉の塊を握っている。
「腹に何か入れましょうや。ほれ、半分に——」
肉に歯を立てて引きちぎろうとして、ガレスの顎が鳴った。もう一度。肉は微動だにしない。三度目で、ガレスは諦めて肉を腰の短剣で削り始め、刃先が滑って自分の指を危うくかすめた。
「……硬いな」
「この肉、先月の遠征の残りでして」
「だろうな」
ガレスは気まずそうに咳払いをして、今度こそ小さな一切れを俺に差し出してきた。受け取ると、塩の味がやけに強かった。
しばらく二人で黙って噛んだあと、ガレスが窓の外へ目をやったまま言った。
「坊ちゃんには、何が見えてるんです。ずっと外ばかり見てなすったが」
「線だ」
自分でも驚くほど、すんなり口から出た。
「魔力にも、風にも、筋がある。濃いところと薄いところがあって、流れていく。……色は分からない。でも線なら、全部見える」
ガレスは笑わなかった。顎の無精髭をこすり、干し肉をもう一切れ削る。
「坊ちゃんの言うことは、おれには半分も分かりませんが。……そうですかい」
それがありがたかった。見えるものを訊かれたのは、生まれて初めてだった。
そのとき、荷台のほうから甘い匂いが流れてきた。後ろの木箱の隙間からだ。匂いに沿って、一本の細い線が、馬車の外へ、森の奥へと伸びている。
馬が、嘶いて棹立ちになった。御者台の男が悲鳴を上げて手綱を放り出し、街道を引き返して走り去る。
「坊ちゃん、降りちゃいけません」
ガレスが外へ飛び出し、剣を抜いた。馬車ががくりと傾く。俺は窓から顔を出した。
木々の間は、昼でも暗かった。腐葉土と獣の脂の匂いが、風に乗って流れてくる。幹と幹の隙間に、低い影がいくつも動いていた。狼だ。肩の高さが成人の腰ほどあり、四つ、五つ、六つ。濡れた目が、こちらを見ている。
「下がっててください、坊ちゃん」
ガレスは一歩も退かなかった。大きな背中が、俺と狼たちのあいだに壁のように立つ。剣が弧を描き、その刃の上に炎が灯った。熱を持った濃い線が、剣先から噴き出して狼たちを照らす。
その炎を、先頭の狼が吸った。
口を開けたわけではない。炎の線が、狼の体へするりと入っていく。そして狼の体を巡る線が、一息に太くなった。
「くそ、喰いやがった……!」
ガレスが踏み込み、斬りつける。だが刃が届く前に、二頭目が炎の線を吸い、剣の輝きが目に見えて痩せた。狼の体の線は、さらに濃く、ふくらんでいく。
狼たちが一斉に駆けた。
馬車がさらに傾き、俺は扉ごと外へ投げ出された。草の上に膝をつく。先頭の狼が、真っ直ぐこちらに向かってくる。喰われる、と思った。
狼は、俺の脇を素通りした。
牙も、爪も、触れなかった。肩口を風圧がかすめ、獣の息が頬に湿っぽく当たっただけだった。狼たちの目は俺を見ていない。俺の背後で剣を振るうガレスの、炎の残り香だけを追っている。
色がないから、見えていないのか。
素通りした先頭の一頭は、数歩先で反転し、ガレスのほうへ引き返していった。
ガレスの悲鳴が上がった。肉を裂く湿った音が、耳の奥で濁って響く。三頭が左右から飛びかかり、騎士の巨体が押し倒される。剣が、土の上を滑った。
逃げれば、ガレスが死ぬ。
「……やれるんですかい」
狼の顎を腕で押し返しながら、ガレスがかすれた声で言った。俺は答えなかった。答える代わりに、足が前へ出ていた。
ガレスにのしかかる、反転した先頭の一頭を見る。炎を吸った体に線が網のように張り巡らされ、喉の付け根の一点で、何本もがきつく束になっていた。そこだけが、鼓動のように脈打っている。
縄だ。なら、引けばほどける。
ガレスが歯を食いしばり、喉の奥で苦鳴を漏らした。鎧の継ぎ目が軋む。間に合わない。獣臭い毛皮に飛びつき、喉へ手を伸ばした。
指が線をかすめた。熱い筋が、指のあいだをすり抜ける。濡れた紐を素手で握ったようなものだった。狼が首を振り、振り回した顎の先が頬をかすめる。狙われたのではない。それでも、焼けるような痛みが走った。
もう一度。束の右端に、一本だけ浮いた線がある。
指先がそれを捉えた。つまむ。
「見えてる。——ほどける」
引いた。
糸を引くように、結び目がするりとゆるんだ。束になっていた線が、一本ずつ、ほぐれて空気の中へ散っていく。狼の体を巡っていた力が、ほどけた先から抜け落ちた。
狼の輪郭が、結んだ縄がほどけて中身がこぼれるように崩れた。毛皮が、肉が、骨が、さらさらと灰になって地面に積もる。
静寂が落ちた。灰が風に崩れて流れていく。頬の傷から、温かいものが顎へ伝った。
ガレスにのしかかっていた二頭が、動きを止めて、こちらを見た。仲間の灰を鼻先で嗅ぐように首を傾け、喉を鳴らして一歩下がる。濃い線を巡らせた獣の目が、初めて俺の上で止まる。それから、じりじりと後ずさり、森の暗がりへ溶けていった。
指先が痺れている。右手が自分のものではないように重く、掌の内側を細かい針で刺されるような感覚が肘まで這い上がってきた。視界の濃淡が、水に落としたインクのように滲んだ。膝の力が抜けて、俺はその場に座り込んだ。
「坊ちゃん……今、何を。素手で、狼を」
腕に深い噛み痕を刻んだまま、ガレスは呆けたように灰の山を見ていた。
俺は答えられなかった。答えようにも、自分が何をしたのか、まだ言葉にならなかった。分かるのは、あの水盤で俺が見た線と、いま指先に残っている熱が、同じものだということだけだ。灰になった狼の跡に、ほどけきらなかった線の切れ端が、まだ宙に漂っている。
その細い線は、どれも同じ方角を指していた。
滲む視界の向こう、森の奥。倒れた木々の間に、紋章を打った馬車が一台、横倒しになっている。




