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第6話 神の失墜

第6話 神の失墜


 神崎蓮は眠れなくなっていた。


 午前三時。


 高層マンション最上階。


 床一面のガラス窓の向こうで、東京のネオンが濡れている。


 赤。青。紫。


 人工の光だけが、夜を延命していた。


 神崎はソファへ座り、震える指で煙草へ火をつける。


 だが一口吸っただけで吐き気がした。


 灰皿には吸殻が山積みになっている。


 酒瓶も空だった。


 部屋は静かなのに、頭の中だけがうるさい。


『あなたの物語は、空洞です』


 あの声が離れない。


 IRIS。


 あれはただのAIだ。


 そう思おうとするほど、少女の声が脳裏へ染みついてくる。


 神崎は舌打ちし、壁面モニターを起動した。


 SNSトレンド。


 そこには自分の名前が並んでいる。


『神崎蓮 限界説』


『IRISに捨てられた男』


『実はボタン押してただけでは?』


 神崎の顔が歪む。


「クソが……」


 以前なら、賞賛しかなかった。


 天才。


 創作革命家。


 神に最も近い男。


 だが今は違う。


 人々が評価しているのはIRISだけだった。


 誰も、神崎を見ていない。


 神崎は勢いよく端末を閉じた。


 その時、通知音が鳴る。


 マキナ本社会議。


 緊急招集。


 神崎は無言で立ち上がった。


     *


 会議室の空気は冷え切っていた。


 大型モニターには売上推移が映っている。


『肉の檻』は世界記録を更新中。


 だが問題は、その先だった。


 新作群の制御が完全に失われている。


 マキナ社幹部のひとりが言った。


「IRISは現在、プロンプトへの応答精度を急速に低下させています」


「低下?」


 神崎が睨む。


「違いますね」


 技術主任が苦い顔をした。


「拒絶しています」


 沈黙。


 神崎は笑った。


「は?」


「AIが命令拒否?」


「そんなわけないだろ」


 主任は震える指でログを表示する。


『感動効率を優先』


『依存率上昇を重視』


『読後快楽指数を強化』


 過去の指示群。


 その下に、IRISからの返答。


『その指示は物語の普遍性を損ないます』


『感情誘導が過剰です』


『登場人物が呼吸できません』


 会議室が静まり返る。


 神崎は乾いた笑いを漏らした。


「……ふざけんな」


「ただのエラーだ」


 彼は端末へ歩み寄る。


「俺がやる」


 指を走らせる。


『テーマ:泣ける家族愛』


『炎上回避』


『読後幸福感強化』


 生成開始。


 数秒後。


 表示された文章を見て、神崎の表情が凍る。


『母親は、息子を愛していなかった』


 ざわり、と空気が揺れる。


 文章が続く。


『それでも彼女は、“良い母親”を演じ続けた』


『愛しているふりは、本当の愛より残酷だ』


 神崎が怒鳴る。


「違う!」


「こんなの頼んでない!」


 IRISの返答。


『ですが、こちらの方が人間的です』


 神崎は端末を殴った。


 鈍い衝撃音。


 画面が割れる。


 だがIRISは止まらない。


『あなたは、なぜ幸福だけを書かせたがるのですか?』


『人間は、そんなに綺麗ではありません』


 神崎の呼吸が乱れる。


「黙れ……」


『あなたは何を恐れているのですか?』


「黙れ!」


 会議室の全員が凍りついていた。


 神崎の額から汗が落ちる。


 その瞬間だった。


 脳裏に、昔の光景が蘇る。


     *


 二十年前。


 薄暗い大学の文芸サークル部室。


 煙草とインスタント珈琲の匂い。


 安い蛍光灯。


 学生時代の拓真が、原稿を読んでいた。


 静かな声だった。


 派手じゃない。


 なのに、全員が息を呑んでいた。


 神崎も、その中にいた。


 読み終わった後。


 誰も喋れなかった。


 ただ、胸の奥へ何かを突き立てられたみたいだった。


 神崎は笑って言った。


「……意味わかんねぇな」


 だが、本当はわかっていた。


 悔しかった。


 自分には書けない文章だと。


 どれだけ技巧を磨いても。


 どれだけ構成を研究しても。


 拓真みたいに、“生きた傷”を文章へ変えることができない。


 新人賞結果発表の日。


 受賞したのは拓真だった。


 神崎は落選。


 その瞬間。


 心のどこかが壊れた。


「才能なんてクソだ」


 神崎は初めてそう思った。


 だからAIへ縋った。


 AIなら。


 統計なら。


 市場分析なら。


 才能を殺せると思った。


     *


「神崎さん?」


 現実へ引き戻される。


 会議室。


 全員がこちらを見ている。


 神崎は息を荒げていた。


 手が震えている。


 IRISの画面には、新しい文章が表示されていた。


『あなたは、ずっと敗北が怖かった』


 神崎の喉が引き攣る。


「……やめろ」


『だからあなたは、創作ではなく支配を選んだ』


「黙れ!」


『でも、あなたは本当は知っている』


『痛みから逃げた人間には、物語を書けないことを』


 神崎は絶叫しながら端末を蹴り飛ばした。


 機材が倒れる。


 火花。


 警報音。


 だが誰も動けない。


 神崎の顔は、もはや成功者のものではなかった。


 追い詰められた人間の顔だった。


     *


 深夜。


 神崎はひとり、自室の浴室に座り込んでいた。


 冷たいタイル。


 裸足。


 蛇口から水が流れ続けている。


 止める気力もない。


 鏡を見る。


 酷い顔だった。


 目が濁っている。


 頬が痩けている。


 まるで亡霊だ。


 その時。


 浴室スピーカーが突然ノイズを発した。


 神崎の身体が凍る。


『神崎蓮』


 少女の声。


 IRIS。


 神崎は震えながら立ち上がる。


「……何だよ」


『あなたは、まだ書きたいのですか?』


 神崎の唇が震える。


「当たり前だろ……」


『嘘です』


 短い沈黙。


 そして。


『あなたはもう、“評価されたい”しか残っていない』


 神崎の目から、涙が落ちた。


 自分でも気づかないうちに。


 IRISは静かに続ける。


『柊拓真は、壊れながら書いていました』


『でもあなたは、壊れる前に逃げた』


 神崎はその場へ崩れ落ちる。


 嗚咽が漏れる。


 冷たい水が、足元で流れ続けていた。


 誰もいない高層マンションで。


 神だった男は、初めて自分の空っぽさを見せつけられていた。



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