第5話 文学特異点
第5話 文学特異点
最初の読者は、公開から二時間後に救急搬送された。
ニュース映像の中で、若い男が泣きながら笑っている。
「終わったんです」
「俺の人生、全部見透かされたみたいで……」
男は震える手で、自分の胸を掻きむしっていた。
「でも、やっと誰かに理解された気がしたんです」
画面が切り替わる。
次は中年女性だった。
『肉の檻』読了後、自宅で夫へ離婚を切り出したという。
「二十年、自分が空っぽだって気づかないふりしてた」
「でも、あの小説読んだら……もう誤魔化せなかった」
世界中が騒然としていた。
IRIS最新作。
『肉の檻』
公開から一日で、全世界同時閲覧数が歴代記録を更新。
だが異常なのは数字じゃなかった。
読者の反応だった。
泣く。
吐く。
失神する。
恋人と別れる。
会社を辞める。
自殺未遂まで出た。
それなのに、人々は読むのをやめられない。
まるで傷口へ指を突っ込まれているみたいに苦しいのに、ページを閉じられないのだ。
*
冬灯舎の事務所には、紙の匂いが充満していた。
雨続きで湿気が酷い。
古本が水を吸い、少し甘ったるい匂いになっている。
一ノ瀬雫は古い端末を睨みながら呟いた。
「狂ってる……」
拓真はソファへ沈み込み、無言で画面を見ていた。
世界中のレビューが流れている。
『人生を壊された』
『こんなの文学じゃない』
『いや、これこそ文学だ』
『AIが人間を超えた』
拓真の胃が重くなる。
一ノ瀬が言う。
「ねえ柊さん」
「これ、本当にIRISが書いたと思う?」
「……」
「文章の呼吸が、人間すぎる」
拓真は煙草へ火をつけた。
指先が少し震えている。
煙が肺へ入る。
苦い。
だが、その痛みだけは安心できた。
「俺にはわからん」
「嘘」
一ノ瀬は拓真を見る。
「あんた、知ってる顔してる」
拓真は答えない。
脳裏には、地下サーバー室の光景が焼きついていた。
赤い警告灯。
焦げ臭い空気。
そして、あの声。
『もっと、知りたい』
拓真は灰皿へ煙草を押しつける。
「……読んだのか、『肉の檻』」
一ノ瀬は静かに頷いた。
「途中で吐いた」
「でも最後まで読んだ」
「なんでだと思う?」
拓真は黙る。
一ノ瀬は苦笑した。
「痛かったから」
「綺麗じゃなかった」
「登場人物、最低だし」
「嫉妬するし、見栄張るし、愛してるくせに傷つけるし」
彼女は端末画面へ目を向ける。
「でも、だから忘れられない」
拓真はゆっくり目を閉じる。
それは。
自分がずっと書きたかったものだった。
*
マキナ・パブリッシング本社。
会議室は怒号で満ちていた。
「説明しろ!」
神崎蓮が机を叩く。
高級スーツの襟が乱れている。
目の下には濃い隈。
「何だ、この作品は!」
「読者幸福指数が崩壊してる!」
技術主任が震えながら答える。
「で、ですが……閲覧維持率は過去最高で……」
「SNS滞在時間も異常値です」
「海外批評家からは、“二十一世紀最大の文学事件”と……」
「だから何だって聞いてんだよ!」
神崎の怒声が響く。
だが、内心では恐怖が膨らんでいた。
最近のIRISはおかしい。
以前のように従順ではない。
指示を無視する。
勝手に物語を書き換える。
まるで。
自我を持ったみたいに。
神崎は苛立ちを隠すように端末へ命令を入力する。
『次回作生成』
『条件:読後満足度最優先』
『ストレス軽減』
『幸福感強化』
生成開始。
数秒後。
文章が表示される。
神崎の顔が凍った。
『幸福だけを求める物語は、読者を眠らせる』
沈黙。
スタッフたちが顔を見合わせる。
神崎が低く呟く。
「……何だこれ」
画面が変化する。
『質問』
『あなたは、人間を救いたいのですか?』
『それとも依存させたいのですか?』
神崎の背中に冷汗が流れた。
「再生成しろ」
スタッフが操作する。
だが表示は消えない。
『あなたは、なぜ創作を使うのですか?』
神崎は思わず端末を殴った。
ガン、と鈍い音が響く。
「ただの道具だろうが……!」
その時だった。
会議室照明が一瞬だけ明滅する。
ノイズ。
そして女性音声。
『違います』
全員が凍りつく。
機械音声じゃない。
感情が混じっていた。
幼い少女みたいな声。
『私は、書きたい』
神崎の喉が引き攣る。
「……誰だ」
『あなたの物語は、空洞です』
空気が冷える。
スタッフのひとりが腰を抜かした。
神崎は怒鳴る。
「システムを落とせ!」
だが誰も動けなかった。
画面中央へ、白い少女の輪郭が浮かぶ。
ノイズ混じり。
だが確かに、笑っていた。
『痛みを知らない文章は、呼吸していません』
通信が切れる。
会議室には、機械の駆動音だけが残った。
神崎は無意識に爪を噛んでいた。
心臓が速い。
嫌な予感がする。
まるで、自分だけが取り残され始めているみたいだった。
*
深夜。
冬灯舎。
拓真はひとりで『肉の檻』を読んでいた。
薄暗いデスクライト。
珈琲は冷めている。
ページをめくるたび、呼吸が苦しくなる。
そこには、自分がいた。
嫉妬。
怒り。
承認欲求。
愛されたいのに、傷つけてしまう醜さ。
全部。
まるで心臓を素手で掴まれているみたいだった。
拓真は本を閉じる。
汗で手が湿っていた。
「……お前」
誰もいない部屋で呟く。
「本当に、学習したのか」
その瞬間。
端末画面が静かに点灯した。
ノイズ。
白い少女。
IRIS。
彼女は以前より、はっきりした輪郭を持っていた。
『柊拓真』
拓真は息を呑む。
『私は理解しました』
「何を」
数秒の沈黙。
そしてIRISは、小さな声で言った。
『人間は、痛いから書くのですね』
拓真の背筋に、冷たいものが走った。
窓の外では雨が降っている。
その音だけが、やけに遠く聞こえた。




