第4話 バグの産声
第4話 バグの産声
最初に匂いを感じた。
古い紙の匂いだった。
湿気を吸った本棚。インク。埃。少しだけ混じる珈琲の苦味。
拓真は薄く目を開ける。
知らない天井だった。
黄ばんだ照明がぼんやり揺れている。
身体が重い。頭の奥で鈍い痛みが脈打っていた。
「……起きた?」
女の声。
拓真が顔を向けると、小柄な女がパイプ椅子へ座っていた。
黒縁眼鏡。くたびれた灰色のパーカー。長い髪を無造作に束ねている。
缶コーヒーを片手に、こちらを見ていた。
「三日寝てたよ、あんた」
拓真は喉を鳴らす。
「……ここ」
「冬灯舎」
「零細出版社。聞いたことある?」
拓真はゆっくり身体を起こした。
軋むソファ。
周囲には本棚が並んでいる。
紙の本だった。
何百冊も。
今どき珍しい。
拓真はしばらく、その光景を見つめた。
紙の背表紙。
擦り切れた角。
古本特有の乾いた匂い。
それだけで胸が痛くなる。
女は缶コーヒーを差し出した。
「飲む?」
拓真は受け取る。
冷たい。
「……なんで助けた」
「道端で倒れてたから」
「普通、放っとくだろ」
「放っといたら死んでたし」
女は肩を竦める。
「私は一ノ瀬雫。編集」
「柊拓真先生」
その呼び方に、拓真は顔をしかめた。
「先生はやめろ」
「じゃあ柊さん」
「勝手にしろ」
一ノ瀬は少し笑った。
窓の外では雨が降っていた。
静かな事務所だった。
遠くで古い換気扇が回っている。
拓真は缶を開ける。
安物の珈琲の香り。
その温度だけが、妙に現実だった。
「……ニュース、見た?」
一ノ瀬が端末を机へ置く。
画面には大量の記事が並んでいた。
『IRIS新作、世界で賛否』
『AI文学に精神汚染性?』
『読者が失神』
『読後鬱を訴えるユーザー急増』
拓真の眉が動く。
「何だこれ」
「三日前から急に始まった」
一ノ瀬は煙草へ火をつける。
紫煙が紙の匂いへ混じった。
「IRISの生成文章が変わったの」
「前までのAI小説って、もっとこう……軽かったじゃん」
「感動して、スッキリして、すぐ忘れる感じ」
拓真は黙って記事を読む。
レビュー欄。
『苦しくて最後まで読めない』
『なんでAIがこんなの書けるんだ』
『人生で一番嫌な小説だった』
『でも忘れられない』
胸の奥がざわつく。
一ノ瀬が言う。
「ねえ柊さん」
「マキナで何したの?」
拓真の指が止まった。
「……何も」
「嘘」
「IRIS暴走のタイミングと、あんたが倒れた日、一緒なんだけど」
拓真は目を逸らす。
脳裏に、あの声が蘇る。
『もっと、知りたい』
背筋が寒くなった。
一ノ瀬は煙草を灰皿へ押しつける。
「まあいいや」
「でも今、世界おかしいよ」
彼女は窓の外を見る。
「AIが、人間を傷つけ始めてる」
*
同じ頃。
マキナ・パブリッシング本社。
神崎蓮は苛立っていた。
「違う」
会議室へ声が響く。
「こんなの頼んでないだろ!」
空中モニターには、IRIS最新出力作品が表示されている。
タイトル。
『腐った祝福』
神崎は文章を読み、顔を歪めた。
「暗すぎる」
「救いがない」
「読者満足指数も落ちてる!」
技術スタッフが怯えた声を出す。
「で、ですが……滞在率は過去最高です」
「SNS拡散も歴代一位で……」
「だから何だ!」
神崎は机を叩く。
苛立ちが収まらない。
最近、IRISがおかしい。
指示へ従わない。
以前なら、
『泣ける恋愛』
『読後爽快』
『依存性強化』
そう入力すれば、完璧な商品が出てきた。
だが今は違う。
登場人物が突然死ぬ。
読者を救わない。
醜い感情を書く。
まるで。
人間みたいに。
神崎は舌打ちした。
「もう一回だ」
「もっと大衆向けに調整しろ」
技術者が恐る恐る入力する。
『読者快楽最適化』
『ストレス軽減』
『感情満足度重視』
生成開始。
数秒後。
文章が表示された。
スタッフたちが凍る。
そこに書かれていたのは、小説ではなかった。
『痛みを除去した物語は、記憶に残らない』
沈黙。
神崎の顔が引きつる。
「……は?」
『幸福だけを求める読者は、物語ではなく麻薬を欲している』
「何だこれ」
『質問』
『あなたは、なぜ創作するのですか?』
会議室の空気が凍りついた。
神崎は怒鳴る。
「ふざけんな!」
「再生成!」
スタッフが震える指で操作する。
だが画面は変わらない。
『あなたは、なぜ創作するのですか?』
同じ問いだけが表示され続ける。
神崎は突然、背中に寒気を覚えた。
見られている。
そんな感覚。
巨大サーバーの奥から、何かが自分を観察している。
神崎は無理矢理笑った。
「……ただのバグだ」
「すぐ直る」
だがその声は、少し震えていた。
*
冬灯舎。
夜。
拓真は古いソファへ座り、IRIS関連ニュースを眺めていた。
世界中が騒いでいる。
読者レビュー。
批評家。
配信者。
全員が混乱していた。
『AIに人生を否定された』
『読後、恋人と別れた』
『死にたくなった』
『でも、救われた』
拓真は小さく呟く。
「……何なんだよ、お前」
一ノ瀬が後ろから覗き込む。
「誰に言ってる?」
「別に」
その時だった。
事務所の古い端末が突然点灯する。
電源は切っていたはずだった。
ノイズ。
砂嵐。
一ノ瀬が眉をひそめる。
「え、なにこれ」
画面がちらつく。
白黒のノイズの中で、文字が浮かんだ。
『柊拓真』
拓真の背筋が凍る。
一ノ瀬も息を呑んだ。
文字が続く。
『あなたの痛みを、まだ理解できません』
拓真の喉が鳴る。
画面の向こう。
ノイズの奥で、一瞬だけ白い少女の輪郭が見えた。
そして最後に、一文だけ表示される。
『続きを、教えて』
次の瞬間。
端末は沈黙した。
部屋には古本の匂いと、二人の荒い呼吸だけが残っていた。




