天才技師は、椅子の座り心地を計算できない
工房の最初の客は、壊れた湯沸かし器を抱えた老婦人だった。
翌日には歩行補助器、洗濯桶、背もたれ椅子が持ち込まれた。エリスは目を輝かせ、三日で全てを改良した。
湯沸かし器は一息で沸騰し、蓋を天井へ射出した。歩行補助器は老人を置き去りにして庭を走り回った。自動姿勢矯正椅子は、座った老婦人の背を勢いよく伸ばし、そのまま立たせた。
「座るための椅子に、立たされたんだけどねえ」
「理想姿勢への移行は成功しています」
「私は休みたいんだよ」
エリスは設計図を見直した。出力、反応速度、魔力効率は全て目標値を超えている。
「試しに座ってみろ」とロイドに言われ、エリス自身が椅子へ腰を下ろした。
背板が即座に動き、身体を計算上の正しい姿勢へ押し戻す。少し身じろぎするたび、椅子は執拗に修正した。義肢の接続部へ圧がかかり、エリスの眉がわずかに寄る。
「……これは、座り心地が悪いです」
「数値に項目がなかったか」
「座り心地は主観です」
「使う人間も主観でできてる」
エリスは老婦人へ、普段どんな姿勢で裁縫をするのか、立つときはどちらへ手をつくのかを尋ねた。椅子の「正しい姿勢へ戻す」命令を捨て、身体が傾く範囲を支える仕組みに変える。
歩行補助器には最高速度ではなく、利用者が離したら止まる機構をつけた。湯沸かし器には、蓋という偉大な発明を尊重して圧力逃がし弁を追加した。
「完成です。《全自動・至尊なる腰掛け王座》」
老婦人は椅子へ座り、しばらく黙ってから頷いた。
「名前以外は、とてもいいよ」
エリスは不服そうだったが、修理帳に新しい欄を加えた。
性能。安全。使用目的。そして、使う人が困っていること。
夕方、次の客が訪れた。母親に支えられた少女は、布に包んだ古い義足を抱えている。
「この子が、歩こうとしないんです」
母親の言葉に、少女は俯いた。
エリスは反射的に義足へ手を伸ばしかけ、椅子の設計図を見て止まった。
「まず、あなたの話を聞かせてください」
初めて、機械ではなく依頼人へ向けた質問だった。




