完璧な手は、子どもの頭を撫でられない
元兵士のバルクは、工房へ入ってから一度も右手を開かなかった。
黒鋼の軍用義手は、厚い外套の下でも異様な大きさが分かる。指は岩を砕く出力を持ち、掌には盾を固定する磁着機構がある。
その背後に、七歳ほどの少女が隠れていた。
「娘のティアです」とバルクが言った。「この手を、もっと安全にしてほしい」
「最大握力を下げ、指先へ触覚帰還を追加します。日常用途なら出力は現行の一割で十分です」
「一割?」
彼の表情に迷いが浮かぶ。軍用義手を弱くすることは、国から与えられた力を捨てるように感じるのだろう。
ティアは父の外套を掴み、小声で言った。「お父さん、帰ってきてから頭を撫でてくれないの」
バルクの黒鋼の指が、さらに強く握られた。
戦場ではその手で仲間を瓦礫から救った。だが帰還後、木の椀を三つ潰し、扉の取っ手を引き抜いた。娘へ触れようとすると、最悪の光景が頭に浮かぶ。
「強いまま、安全にはできないのか」
以前のエリスなら、制御精度を上げれば両立できると答えただろう。だが魔導工学には交換条件がある。高出力を残せば、制御石が乱れた瞬間の危険も残る。
「できます、とは言いません。戦場の力を残すなら、日常での故障時危険度は上がります」
バルクは長く黙った。
「俺は、もう兵士じゃない」
その言葉を確認してから、エリスは設計を始めた。
軍用の主魔石を外し、小型魔石へ交換する。指関節には柔らかな革膜と圧力弁を追加し、握る力が一定値を超えると指が自動で開くようにした。掌の磁着機構は撤去し、代わりに布や髪の細さを感じ取る触覚線を通す。
「名称は《慈愛なる微風・幼子絶対粉砕回避掌》です」
「粉砕を入れるな」とロイドが言った。
「回避しています」
「その前に想像させる」
バルクまで真顔で頷いたため、名称は《生活用柔圧義手》に修正された。エリスは最後まで不満そうだった。
調整にはバルク自身も参加した。木片、卵、薄い紙、熟した果実。握っても壊さない圧を一段階ずつ覚える。最初は触れる前に手を引いていたが、ティアが作業台へ布人形を置いた。
「これで練習して。ちょっとくらい潰れても直せるから」
バルクは義手で人形を持ち上げた。圧力弁が小さく鳴り、指が緩む。落としかけた人形を左手で受け止めた。
「失敗です」とエリスは言った。「ただし、危険のない失敗です。感覚を記録して、もう一度」
十七回目で、人形は片手の上に安定した。
ティアが父の前へ立つ。
「次、わたし」
バルクの顔から血の気が引いた。「まだ早い」
「触れるかどうかは、あなたが決めていい」とリンファがバルクへ言い、それからティアにも尋ねた。「お父さんに触ってほしい?」
少女は頷いた。「頭じゃなくて、最初は手がいい」
彼女は小さな掌を差し出した。
黒鋼の義手が、ゆっくり近づく。新しい触覚線が皮膚の温度と柔らかさを拾い、バルクの腕へ弱い信号を返した。
指先が、少女の掌へ触れる。
壊れない。逃げない。
バルクは息を震わせた。ティアはその大きな指を両手で包み、「あったかくないけど、お父さんの手だ」と笑った。
エリスは測定板を見つめたふりをした。数値に異常はない。だが、強さを九割捨てた義手が、以前より多くのものを取り戻したことは認めざるを得なかった。
「弱くすることも、改良なんだな」とバルクが言う。
「目的に対して適切にすることが改良です」
その答えは、少し前までの彼女なら言えなかった。
引き渡しのため製造記録を整理していると、ロイドが軍用義手の内側に刻まれた署名を見つけた。
設計主任、カインゼル・ヴァルハルト。
さらに触覚回路の下には、本来なら軍用品に不要な白晶石の薄片が埋め込まれていた。使用者の動作を学習し、最も安定した形へ固定するための試験部品だ。
「師匠は、兵士の手で何を完成させようとしていたんでしょう」
答える者はいなかった。
その夜、エリスは自分の義手の感応回路を開いた。
同じ位置に、同じ形の空き溝があった。




