痛くないなら、壊れていないと思っていました
治療三日目の朝、エリスは誰より早く起きた。
隣室からトルヴァンの鼾が聞こえる。ロイドは入口近くの長椅子、リンファは療院へ戻っている。寝台脇には、頼んで置いてもらった右義腕があった。
肩の炎症はまだ残っている。装着禁止。それは理解していた。
エリスは歯で固定帯を引き、身体を少しずつ義腕へ寄せた。
「一時的な動作確認です」
誰に向けたでもない説明を呟き、肩の接続環へ義腕を合わせる。術式が生体信号を捉え、銀の指が開いた。
動く。
胸に安堵が広がった直後、右肩の奥で焼けるような痛みが走った。エリスは反射的に遮断術式を起動する。痛みは消え、義手は滑らかに動いた。
「問題ありません」
そう結論づけ、作業台へ手を伸ばした瞬間、義腕が停止した。
接続部から赤い液が一筋、寝間着を濡らしていた。
「問題しかないわ」
扉のところにリンファが立っていた。
彼女は走り寄りかけ、途中で止まる。「義腕を外す。触れていい?」
エリスは唇を噛み、頷いた。
リンファは停止手順を読み上げ、ロイドとトルヴァンを起こした。三人で義腕を支え、接続環を解放する。再び露出した装着部は、前日まで閉じかけていた傷が開いていた。
処置が終わるまで、誰も冗談を言わなかった。
「痛みは?」とリンファが尋ねる。
「ありません」
「遮断したからでしょう」
「作業に不要な信号です」
リンファの指が止まった。「痛みはあなたを罰するためにあるんじゃない。今以上に壊さないでと、身体が送っている情報よ」
「情報なら、数値化すればいい。主観的な苦痛として受け取る必要はありません」
「数値化した警告を、自分に都合が悪いから非表示にしたのは誰?」
答えられなかった。
エリスは義肢の不調なら徹夜で原因を探す。歯車の異音も、魔石の温度上昇も見逃さない。なのに身体から来る警告だけは、精度の低い雑音として消してきた。
リンファは怒りを抑えるように息を吐いた。
「今日は治療を一日戻す。責めたいわけじゃない。でも、自分の身体で勝手に試験をしたことは見過ごせない」
「私の身体です」
「そうよ。だからこそ、あなた自身の同意が必要なの。昨日のあなたは、今日痛みで判断力が落ちる自分へ、何の説明も選択肢も渡していない」
エリスは眉を寄せた。未来の自分を別の使用者として考える発想はなかった。
午後、リンファは一枚の小さな水晶板を持ってきた。装着部の圧、熱、魔力脈の乱れを色と音で知らせるだけの装置である。
「単純すぎます」
「単純でいいの。警告を消せないようにする」
「使用者権限で設定変更できない装置は欠陥品です」
「あなたが使用者権限で全部消すからでしょう」
エリスは反論しながらも、設計図を見つめた。単なる警報では、作業中の瞬間的な負荷で鳴り続ける。無視される装置になる。
「三段階にします。黄色は休止推奨、橙は出力制限、赤は緊急停止。ただし停止前に使用者へ理由を表示する。勝手に身体を奪う機構にはしません」
「赤でも解除できる?」
「意識があり、危険を理解したうえでなら。一度だけ。解除記録は残します」
リンファはしばらく考え、頷いた。
ロイドが木枠を切り、トルヴァンが留め具を鍛えた。エリスは口頭で術式を組み、リンファが身体側の閾値を決める。夕方には掌ほどの試作器が完成した。
「名称は《痛覚絶対統治・身体防衛最終審判機構》です」
「怖い」とロイドが即答した。
「警告器でいい」とトルヴァン。
「設計思想が一文字も入っていません!」
正統派の美少女が寝台の上から真剣に抗議する姿に、工房の空気がようやく緩んだ。
試作器を接続すると、右肩の表示は橙になった。数値を見たエリスは黙る。遮断術式の下で、身体はずっと休止を求めていた。
「痛くないから壊れていないと思った?」
リンファの問いに、エリスはすぐには答えなかった。
「……壊れていると認めたら、止めなければならないからです」
それは機械の話ではなかった。
リンファは慰める代わりに、試作器をエリスから見える位置へ置いた。「黄色へ戻るまで、今日は何をする?」
「設計図を読みます。口頭指示は一時間ごとに十分休止します」
「自分で決めたのね」
「はい」
夜、警告器は橙から黄色へ変わった。エリスはその色を、失敗ではなく回復の進行として記録した。
翌朝、工房へ奇妙な依頼が届く。
王都で評判の新型治療器が、患者の痛みを完全に消すという。
その装置を使った老人が、骨折した脚のまま三日間歩き続けていた。




