天才技師、スープ一杯に完全敗北する
湯気の向こうで、木の匙がゆっくり近づいてきた。
「口を開けて」
「必要ありません。吸飲管を作れば自力で摂取できます」
椅子に固定されたエリスは、端正な顔をできる限り威厳のある角度に保った。四本の義肢は診察台の向こうで停止している。いつもの黒い作業着も装着部を圧迫しない柔らかな寝間着へ替えられ、銀の工具ベルトすらない。
老婦人は匙を引かなかった。
「その吸飲管は、今、誰が作るんだい?」
エリスは作業台を見た。銅管も弁も工具も揃っている。どれ一つ、自分では取れない。
「ロイドに加工指示を出します」
「俺は鍛冶屋じゃない」とロイドが言った。
「寸法は私が一万分の一まで指定します」
「スープが冷める方が早い」
完全な正論だった。
老婦人が笑い、匙をエリスの唇へ運ぶ。野菜を柔らかく煮た薄味のスープは、悔しいほど温かかった。飲み込んだ瞬間、空腹だった身体が勝手に安堵する。
「味覚刺激による一時的な生理反応です」
「おいしいって言えばいいのよ」
「評価には再現性が必要です」
「じゃあ、もう一口で確認だね」
二口目もおいしかった。三口目まで検証したところで、リンファが治療道具を持って戻ってきた。
「患者の顔色は?」
「スープに敗北中」とロイドが答えた。
「敗北ではありません。継続試験です」
リンファは笑わず、エリスの装着部を確認した。赤みはわずかに引いているが、右肩の深部にはまだ熱が残っている。
「今日一日は義肢を戻さない。続けられそう?」
エリスはすぐに答えず、匙を持つ老婦人へ視線を向けた。食べさせてもらうたび、胸の奥がざらつく。親切を受けているだけなのに、身体を預けたまま逃げられない感覚が蘇る。
「食事の補助具を作ります。口元で傾きを検知し、嚥下に合わせて流量を自動調整する《孤高なる美食家の完全自立式栄養供給――》」
「長い」とロイドが言った。
「まだ仮称です」
「完成するまで、私が食べさせるよ」と老婦人は言った。「嫌なら嫌と言っておくれ。急がせないし、こぼしても怒らない」
エリスは意外そうに彼女を見た。助ける側が方法を決めるのではなく、助けられる側へ選択を戻している。
「……一口の量を、今の八割にしてください」
「はいよ」
午前中、エリスは工房の椅子から指示を出した。ロイドが依頼品を分類し、老婦人が受付を手伝う。だが、工具の角度も部品を置く順番も自分の思いどおりにならない。
「違います。三番の細軸レンチは右から二列目――そこではなく、その隣です」
「これか?」
「それは五番です。持ち手の銀線が二本でしょう」
「肉眼では同じだ」
「全然違います!」
説明が熱を帯びるにつれ、エリスの早口は加速した。黙っていれば療養中の美しい令嬢にしか見えないのに、口から出てくるのは工具棚の配置と歯車の歯先角についての抗議ばかりである。
昼前、裏口から大柄な男が入ってきた。煤けた革前掛け、灰色の髭、丸太のような腕。廃工房の持ち主であり、奥の鍛冶場を使っているトルヴァン・バルガスだった。
「朝から鐘みたいな声が聞こえると思ったら、店主が椅子になってるな」
「椅子ではありません」
「手足が休みなら、頭も休ませろ。鍛冶場まで指示が飛んできてかなわん」
トルヴァンは事情を聞くと、同情も慰めもせず、工房の棚を一つ動かした。次に滑車を天井梁へ通し、卓上の小物を足元のペダルではなく肩の動きで引き寄せられる簡素な台を作る。
「複雑すぎます。滑車比を変えれば三割軽く――」
「今日使う物に、今日一日かけるな」
「耐久試験が」
「紐が切れたら結び直す」
エリスは言葉を失った。壊れない完璧な補助具ではなく、壊れても誰でも直せる道具。自分なら最初から選ばない設計だった。
けれど、肩をわずかに動かすと、台の上の水差しが近づいてきた。ロイドが取っ手へ布輪を付ける。エリスは首と肩で輪を引き、水を一口飲んだ。
「精度は低いです」
「飲めたな」とトルヴァン。
「改良の余地が多いという意味です」
夕方、リンファが再診に来た。炎症は朝より確実に下がっていた。
「残り六日、どうする?」
エリスは停止した義肢を見た。すぐ戻したい。だが今日一日、誰かに頼っても工房は消えなかった。工具の位置は乱れ、修理は遅れ、スープには完全敗北した。それでも仕事も生活も、形を変えれば続いた。
「治療を継続します。ただし、生活補助具は私も設計に参加します」
「患者として?」
「技師としてです」
「両方よ」
不満はあったが、エリスは頷いた。
夜、トルヴァンが工房の奥に簡素な寝台を置いた。ロイドが扉の錠を確認し、リンファが義肢を手の届かない保管台へ移す。
エリスの呼吸が浅くなる。
「一本だけ、近くへ置いてください」
リンファは理由を問わなかった。「どれを、どこに?」
「右腕を。寝台の横へ。装着はしません」
それはまだ完全に警戒を預けることではない。それでも、義肢を付けないまま夜を迎える選択だった。
灯りが消えたあと、エリスは隣室から聞こえるトルヴァンの槌音を数えた。一定の間隔で響く音は、工房に誰かがいる証明だった。
眠りへ落ちる直前、右肩の奥で鈍い痛みが脈打った。
遮断していたはずの感覚が、戻り始めていた。




