その義肢を今すぐ全部外しなさい
「あなたがエリス・クロイツェルね。その義肢を、今すぐ全部外しなさい」
朝の工房へ押し入ってきた女性は、挨拶より先にそう言った。
長い黒髪を高い位置で束ね、深緑の診療衣の上から灰色の外套を羽織っている。年齢は二十代半ばほど。片手には革張りの医療鞄、もう片方には王都の魔力脈療院が発行する銀の診療札があった。
黒褐色のエアリーなボブを耳へかけたエリスは、作業台の前で瞬きをした。黙っていれば東方の名家の令嬢にも見える端正な顔立ちだったが、右手には細い分解針、左手には昨夜から調整していた自動給仕機の車輪が握られている。
「お断りします」
「診察はまだ始めていないわ」
「始める前から結論が間違っています。これは義肢ではなく、私が独自開発した四肢統合型高精度魔導機構《天上天下・完全無欠なる鋼鉄四天王――》」
「四本とも外しなさい」
「最後まで聞いてください。名称には設計思想が――」
「名前が長い装置ほど身体に優しいという医学的根拠はないわ」
壁際で工具を整理していたロイドが、静かに顔を背けた。笑いをこらえているのが肩の動きで分かる。
エリスは不服そうに分解針を置いた。
「どなたですか」
「リンファ・セイラン。魔力脈療院の治療師よ。あなたが無資格で人体接続義肢を修理した件について、監査院から意見を求められている」
「営業停止を追加しに来たのなら、書類はそちらへ。現在、私が販売しているのは人体接続を伴わない生活魔導具だけです」
そう言ってエリスが示した先で、《全自動お茶運び機・優雅なる給仕王》が壁に向かって力強く直進していた。昨夜追加した旋回機構は、なぜか車体だけを回転させ、進行方向を変えていない。
台車は半回転した姿勢のまま棚へ衝突し、積んでいた空の茶器を一斉に鳴らした。
「旋回には成功しました」
「進む向きは変わっていないぞ」とロイドが言った。
「次の改良点が明確になったという意味です」
リンファは給仕王に一度だけ目を向けたあと、エリスへ歩み寄った。
「監査院には、あなたが規則違反を承知のうえで救命処置を行い、本人の同意も確認したと報告するつもりよ。処置そのものにも重大な誤りはなかった」
「では、問題ありませんね」
「患者にはね」
その言葉と同時に、リンファの指先がエリスの右肩へ触れた。
肩を覆う作業着の下、義腕との接続環が埋め込まれた部分だった。ごく軽い接触だったにもかかわらず、エリスの右腕が反射的に持ち上がる。銀色の指がリンファの手首を掴む寸前で止まった。
工房から、茶器のかすかな揺れる音まで消えた。
「触るなら、先に言ってください」
エリスの声は低かった。
リンファは手を引き、謝罪するように掌を見せた。
「ごめんなさい。次から必ず確認する。今の反応も診断材料にはするけれど、許可なくもう一度触ることはしないわ」
まっすぐな返答に、エリスはわずかに力を抜いた。義手の指が一つずつ開く。
「診察の目的を説明してください」
「あなたの患者を見たあと、監査官から救命処置の記録を受け取った。術式は大胆だったけれど、判断は正確だった。でも記録に残った波形を見て、別の問題に気づいたの」
リンファは医療鞄から薄い水晶板を取り出した。表面へ魔力を流すと、四本の波形が淡い光の線となって浮かび上がる。
一つは救命処置を受けた護衛のもの。残りは、処置中に義肢を動かしていたエリス自身の記録だった。
「あなたの四肢統合制御は、動作命令を出すたびに生体側の魔力脈を引っ張っている。機構の反応が速すぎて、身体が義肢へ合わせる状態になっているわ」
「反応速度は一万分の三秒です。現行の軍用義肢より二割速く、負荷予測術式《疾風迅雷・先読みする神速の――》によって動作開始前に必要魔力を――」
「早口になったな」とロイドが呟いた。
エリスは一息で説明を続けようとしたが、リンファが水晶板を目の前へ差し出した。
「性能の話をしているんじゃない。あなたの身体の話をしているの」
波形の一部が、細かく震えていた。右肩、左肘上、両脚の装着部。四か所すべてに赤い濁りが重なっている。
エリスの表情から、発明を語るときの熱が消えた。
「接続部の炎症ね。右肩は皮膚だけではなく、深部の魔力脈まで傷んでいる。左脚は感覚回路が圧迫を正常な入力として覚え始めている。痛みを遮断しているから気づきにくいでしょうけれど、このまま使い続ければ――」
「痛覚遮断は安全機構です。作業中の不要な信号を減らします」
「警告を消す装置は、安全装置とは呼ばないわ」
即答だった。
エリスは水晶板から目を逸らさなかった。しかし、右脚のつま先だけが床を小さく二度叩いた。苛立ったときではない。制御の遅れを確かめる癖だと、ロイドは知っている。
リンファもその動きを見逃さなかった。
「今、命令してから動くまで遅れたでしょう」
「許容範囲です」
「いつから?」
「……三日前から」
「右脚が止まったのは?」
技術院を追われた直後、森の街道で右脚が最後の命令を繰り返し、前へ進み続けた。その後も完全には原因を除けず、制御石の白化らしき反応を調べている。
エリスは答えなかった。
「いつから?」とリンファが繰り返した。
「技術院を出た日です。ただし、外部要因による一時的な制御異常であり、現在は補助回路を三重化しています。停止しても他の三肢で姿勢を保持できるので、実用上の問題は――」
「四本のうち一本が止まっても、残り三本で無理やり身体を支えられるようにしたのね」
「合理的です」
「痛んだ脚を休ませる仕組みではなく、痛んでも動き続けられる仕組みを作った」
リンファの声は厳しかったが、責める響きとは少し違った。腹を立てている相手はエリスではなく、エリスが当然だと思い込んでいる状態そのもののようだった。
「高性能ね。恐ろしく精密で、普通の技師には触ることすらできない。でも、身体を守るという目的では失敗作よ」
エリスの灰褐色の瞳が鋭く細められた。
ロイドが一歩前へ出ようとしたが、リンファは退かなかった。
「私の義肢を、失敗作と呼ばないでください」
「義肢の性能を否定しているんじゃない。あなたがこれを作るために費やした時間も、これで取り戻した生活も、否定するつもりはないわ」
リンファは水晶板を伏せた。
「でも、その義肢を守るために、あなたの身体を壊していい理由にはならない」
工房の窓から朝の光が差し込み、作業台の上に置かれた四肢用の交換部品を照らした。どれも精巧で、美しく、エリスが一人で生きるために積み重ねてきた答えだった。
その答えを、初対面の治療師は性能表ではなく、接続されている側から見ている。
エリスは左手で右肩の接続環へ触れた。
痛みはない。触圧も正常。温度差も許容範囲。診断術式には異常なしと表示されている。
だが、そう表示するよう設定したのは自分だった。
「診察を許可します。ただし、接続部へ触れる前に声をかけてください。義肢の取り外しは一本ずつ。私が停止命令を出し、ロイドが固定具を支えます」
リンファは頷いた。
「条件を追加しても?」
「内容によります」
「途中でやめたくなったら、やめると言っていい。診察を受けると決めたことと、最後まで耐えることは同じではないわ」
エリスは少しだけ眉を寄せた。そんな条件を提示された経験がないような顔だった。
やがて彼女は、短く答えた。
「分かりました」
工房の奥に衝立を立て、作業台を臨時の診察台へ変えた。ロイドは頼まれたとおり工具と固定具を揃えたが、義肢そのものには触れず、エリスの指示を待った。
最初は右腕だった。
停止命令とともに、銀の指から力が抜ける。肩の接続環を解放すると、重い義腕が固定具へ預けられた。作業着の下から現れた装着部は赤く腫れ、一部には皮膚が硬く変色した箇所があった。
ロイドが息を呑む。
「そんな顔をしないでください。表皮の炎症なら交換膜で――」
「交換するのは部品だけよ」
リンファは触れる場所を一つずつ告げ、許可を取ってから診察した。指先に淡い緑色の光が灯り、魔力脈の流れが薄く浮かび上がる。
右腕の次は左腕。続いて右脚。
三本目を外した時点で、エリスの呼吸が浅くなった。
身体は診察台へ固定されている。転落防止の帯もある。ロイドはすぐそばにいて、閉めた扉の向こうには誰もいない。それでも彼女の視線は、外した義肢の位置と入口の錠を何度も往復していた。
「左脚は後日にします」とエリスが言った。
リンファは反論しなかった。
「分かった。今日はここまでにしましょう」
「診断には四か所すべて必要なのでは?」
「必要よ。でも、あなたがやめると言った」
エリスは唇を結んだ。耐えられないと思われたくないのか、診断を不完全なまま終えるのが嫌なのか。おそらく両方だった。
「……五分ください」
「休むための五分?」
「続けるかを決めるための五分です」
「ええ」
誰も急かさなかった。
しばらくして、エリスは左脚の停止命令を出した。最後の接続環が外れた瞬間、彼女の肩が目に見えて強張った。
リンファは診察だけを行い、余計な言葉をかけなかった。
四か所の結果が揃うまで、工房で聞こえたのは魔力脈を測る水晶音と、壊れた給仕王の車輪が惰性で回る音だけだった。
診察を終えると、エリスはすぐに右腕を戻そうとした。
「待って」
「診察は終わりました」
「治療は始まっていない。結論を伝えるわ」
リンファは四枚の記録板を横に並べた。炎症、神経損傷、魔力脈の誤学習。どれも一日二日の休息で消える状態ではない。
「七日間、四本すべての義肢を停止する必要がある」
「却下します」
返事は、診断を聞く前から用意していたように速かった。
「最低でも七日よ。装着部の治療と、義肢側の感応回路を再調整する。今のまま動かせば、身体が誤った信号を正常と覚える。そうなれば、部品を交換しても戻らない」
「工房には依頼が残っています。営業停止中でも生活魔導具の修理はできます。魔導炉の管理も、同調石の解析も――」
「ロイドがいる」
「彼は技師ではありません」
「全部を任せろとは言っていないわ。今できない仕事を、できる人に分けなさい」
「できる人がいなければ?」
「待たせる。断る。助けを呼ぶ。あなたは患者には選択肢を渡したのでしょう?」
第9話で、事故を起こした護衛に問いかけた。腕を残すための応急処置を受けるか。危険も含めて説明し、本人に選ばせた。
今度は、その問いが自分へ向けられている。
「エリス」とロイドが呼んだ。
彼は義肢を外した彼女へ近づきすぎず、視線の高さを合わせるために床へ膝をついた。
「七日で戻せるんだな?」
リンファは曖昧に頷かなかった。
「七日後に必ず元どおりとは約束できない。炎症が引かなければ延長する。感応回路も以前の速度には戻せないかもしれない」
「性能が下がる可能性があるということですか」
「身体に合わせるなら、反応速度も出力も下げる必要がある」
エリスの顔が強張った。
出力を上げることは改良だった。速くすることも、強くすることも、できなかった動作を可能にすることも。
遅くすることを、彼女はまだ改良と呼べない。
「今すぐ決めなくていいわ」とリンファは言った。「今日は炎症を抑える処置だけする。義肢を戻すかどうかも、あなたが決めて」
その言葉を聞いて、エリスは外された四本の義肢を見た。
戻せば立てる。工具を握れる。何事もなかったように今日の仕事を始められる。
ただし、それは身体が出していた警告を、もう一度遮断する選択だった。
長い沈黙のあと、エリスは右腕だけを見た。第6話の夜、魔導炉を冷やすために一度だけ外した腕。あのときも最後まで全部は外せず、一本を戻して眠った。
「七日は長すぎます」
「そうね」
「給仕王の旋回機構は、今日中に直す予定でした」
「工房の平和のためには、七日ほど眠らせた方がいい」とロイドが言った。
エリスは彼を睨んだが、いつもの勢いはなかった。
やがて彼女は、義肢ではなくリンファへ視線を戻した。
「一日だけです」
「何が?」
「まず一日、四本とも停止します。その結果を見て、明日、残り六日を決めます。治療内容と再調整の手順は、すべて私にも開示してください。私の身体と私の義肢です。どちらか一方だけを、勝手に決めさせるつもりはありません」
リンファの表情が、初めてわずかに緩んだ。
「それでいいわ。治療する側にも、勝手に決めさせないで」
その日の朝、クロイツェル魔導工房は臨時休業となった。
入口へ札を掛けたのはロイドだった。椅子へ移されたエリスは、四肢のない身体で作業台を見つめている。工具は目の前にあるのに、一本も取れない。
そこへ、事情を知らない近所の老婦人がスープ鍋を持って現れた。
「ちょうどよかった。朝ご飯、まだでしょう?」
エリスは反射的に「自分で食べられます」と答えかけた。
しかし、四本の義肢は診察台の向こうで完全に停止している。
作ることも、直すことも、食べることさえ、一人ではできない一日が始まろうとしていた。




