入学試験
ルービリアスとヴィルツの生活は、朝から晩まで勉強に費やされることになった。
魔法学校の入学試験は、単なる学力試験ではない。
魔法の歴史、杖に宿る魂の性質、魔法使いが負うべき責任。そして、社会を形作る法律や宗教、国家間の対立に至るまで、出題範囲は際限なく広がっていた。
魔法学校を卒業しなければ、魔法魔術大学校へ進むことはできない。そして魔法魔術大学校を卒業した者だけが、正式な魔法使いとして認められる。
魔法使いの隣には、必ず一人の召使いがいる。
それは単に身の回りの世話をするためではない。寿命を削り、強大な力を振るう魔法使いが、その力に溺れないよう支えるためだ。
だからこそ、入学試験では魔法使いとなる者だけでなく、将来その相棒となる召使いも試される。
知識があるか。論理的に考えられるか。そして何より、強大な力を持つ人間を支えるだけの判断力と人格があるか。
「つまり、頭がいいだけじゃ駄目ってことか」
参考書を閉じながら、ヴィルツが言った。
「そういうことだろうね」
「なら、君が不合格になる可能性もあるわけだ」
「君もね」
ルービリアスが微笑むと、ヴィルツは小さく笑った。
二人は互いの答えを批判し合った。ヴィルツが貴族の常識に疑問を投げかければ、ルービリアスは歴史的な背景から反論する。反対に、ルービリアスが伝統を根拠に答えを出そうとすれば、ヴィルツは必ず問い直した。
そのたびに、二人のノートには新しい疑問が増えていった。
勉強は順調だった。
ただ一つ、二人の間で決して簡単には埋まらないものを除いて。
宗教である。
ある日の夕暮れ、ヴィルツは屋敷の中にルービリアスの姿がないことに気づいた。
書斎にも、食堂にも、庭にもいない。
探し回った末、屋敷から少し離れた石造りの小さな礼拝堂で、彼を見つけた。
ルービリアスは祭壇の前にひざまずいていた。
「……神様にお願いごとでもしているのか?」
声をかけると、ルービリアスは振り返った。
「お願いごと?」
「試験に合格できますように、とか」
「違うよ。これは礼拝だ」
ルービリアスは立ち上がり、服についた埃を払った。
「礼拝は、神様に何かをお願いするための時間じゃない。今日、自分が過ごした数時間を振り返って、自分は本当に最善を尽くせたのか、間違ったことをしなかったかを考える時間なんだ」
「それを神様に報告するのか?」
「報告というより、自分自身に嘘をつかないためかな。神様が見ていると思えば、自分に都合のいい言い訳をしにくくなるだろう?」
ヴィルツは祭壇を見つめた。
「神様がいなくても、反省くらいできると思うけど」
「もちろん。神様を信じない人間には反省ができない、なんて僕は思わないよ」
ルービリアスは穏やかに答えた。
「ただ、宗教の行動には、神様の存在を想像することだけじゃなく、実生活に生かせるものもあるんだ。自分の行いを振り返ることも、その一つだと思う」
「……君は、宗教が正しいから礼拝しているのか?」
「正しいと思う部分があるから、続けているんだよ。何もかも正しいと決めつけているわけじゃない」
ヴィルツは意外そうに彼を見た。
信仰を持つ人間は、信仰を疑うことそのものを拒むのだと思っていた。
少なくとも、これまで出会った人々の多くはそうだった。
「君って、思ったより面倒くさい信者なんだな」
「それは褒め言葉かな?」
「さあね」
二人は屋敷へと戻った。
その夜、ヴィルツはいつもより長く、宗教に関する参考書を読んでいた。
入学試験の日がやってきた。
試験会場は、隣国との国境に近い場所にあった。
ユリウス教皇国と敵対する国家の影響が及ぶ地域。そこにある魔法学校は、周囲一帯を覆う高度な隠蔽魔法によって、その存在を外部から隠されていた。
森の奥へ進むほど、空気が奇妙に歪んで見えた。
一歩踏み出すと、景色が変わった。
目の前に現れたのは、巨大な石造りの校舎だった。
「……こんな場所に学校を造るなんてね」
ヴィルツが呟いた。
「見つからないようにする必要があったんだろう。国境に近いからこそ、守らなければならないものも多い」
「守るため、か。何を守るかによって、ずいぶん意味が変わりそうだけど」
ルービリアスは答えなかった。
受付を済ませた二人は、別々の試験室へ案内された。
試験はすべて筆記形式。
机の上には、分厚い問題冊子と解答用紙が置かれていた。
開始の合図とともに、二人は問題を解き始めた。
魔法の歴史。杖の継承制度。魔法使いの寿命と責任。宗教と法律の関係。国家間の紛争を解決する方法。
どの問題も難しかったが、二人は着実に答えを書き進めた。
やがて、ルービリアスは最後のページにたどり着いた。
問題冊子を裏返す。
そこには、それまでの問題とは明らかに異なる、たった一つの質問が記されていた。
『神様とはなんですか』
その下には、大きな解答欄が設けられていた。
さらに、その下に小さな文字が続いていた。
『この質問に、決められた正解はありません。
これは知識を問う問題ではありません。あなたと、将来あなたの相棒となるもう一人の受験者が、互いの考えや価値観を理解し、共に歩むことができるのかを問うものです。』
ルービリアスの手が止まった。
神様とはなんですか。
何度読み返しても、その問いは変わらなかった。
彼にとって神は、ただ願いを叶える存在ではない。
自分の行いを見つめ直すための存在であり、正しいと思うことを選び続けるための指標でもあった。
しかし、ヴィルツにとってはどうだろう。
彼は、信仰が人を救うこともあれば、信仰によって人が苦しめられることもあると考えている。
もし自分が神を信じると書けば、ヴィルツの思想とは相容れないと判断されるのだろうか。
反対に、神を否定する答えを書けば、自分自身の信仰を偽ることになる。
それでも、二人が相棒になるためには、価値観が一致していることが求められている。
ルービリアスは問題文を見つめた。
ヴィルツは、きっと自分の考えを曲げないだろう。
彼は他人のために嘘をつくような人間ではない。少なくとも、自分が知る限りでは。
ならば、自分がヴィルツに合わせるべきなのか。
だが、それは本当に彼を尊重することなのだろうか。
信じてもいないことを信じていると書くことが、相手を理解することになるのだろうか。
それとも、考えが違っていても互いを理解しようとすることこそが、二人に必要なものなのだろうか。
彼は、これまで何度もヴィルツと議論をしてきた。
意見が食い違うことはあった。それでも、二人は相手の言葉に耳を傾けてきた。
ならば、なぜ今になって、同じ答えを書く必要があるのだろう。
ルービリアスはペンを握り直した。
しかし、何も書けなかった。
自分の信仰を守りたい。
ヴィルツと共に進みたい。
どちらも、偽りのない気持ちだった。
けれど、その二つを同時に守る答えが、本当に存在するのかは分からなかった。
教皇国の貴族として生まれた自分が、信仰を否定することの意味。
信仰を否定するヴィルツが、信仰を持つ自分と歩むことの意味。
そのどちらも、彼には簡単に決められなかった。
やがて、試験終了を告げる鐘が鳴った。
「そこまで。筆記用具を置いてください」
試験官の声が響いた。
ルービリアスは、最後の解答欄を見つめた。
そこに何を書いたのか。
その答えが二人の未来を決めるのか。
彼には、まだ分からなかった
試験が終わった帰り道、二人はほとんど口を利かなかった。
馬車の窓の外を流れていく景色を眺めながら、ルービリアスは何度も口を開きかけた。けれど、そのたびに言葉を飲み込んだ。
最後の問題。
ヴィルツは、何と書いたのだろう。
自分の答えを聞いて、彼はどう思うのだろう。
尋ねるのが怖かった。
もし、二人の考えが決定的に食い違っていたら。
もし、あの問題をきっかけに、ようやく築き始めた関係が壊れてしまったら。
結局、屋敷に着いても、二人は最後の問題について一言も話さなかった。
そして、一週間が過ぎた。
合格発表の日。
ルービリアスとヴィルツは、再びあの魔法学校を訪れていた。
馬車を降り、石畳の上を歩く。
校舎の正面には、大きな掲示板が設置されていた。合格者の受験番号が記された紙には、まだ白い布が掛けられている。
発表時刻は正午。
あと数分だった。
広場には、受験者とその家族が集まっていた。緊張した面持ちで黙り込む者。祈るように手を組む者。落ち着かない様子で、同じ場所を何度も歩き回る者。
誰もが、掲示板を見つめていた。
その中で、ルービリアスは隣に立つヴィルツを見た。
「……なあ」
「何?」
「最後の問題、何て書いた?」
ようやく口にできた言葉だった。
ヴィルツは少し驚いたように彼を見た。それから、掲示板へ視線を戻した。
「正直に言うよ。今までの僕なら、『神なんていない』って書いていたと思う」
ルービリアスの胸が、わずかに痛んだ。
「でも、君と出会って考えが変わった」
「僕と?」
「君が礼拝堂で話してくれただろ。礼拝は願いごとをする時間じゃなくて、自分の行いを振り返る時間だって」
ヴィルツは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「神様が本当にいるかどうかは、今でも分からない。でも、そうやって自分を省みるために信仰を持つのなら……僕は、それも悪くないと思った」
「それで、何て書いたんだ?」
「神はいる、って」
ルービリアスは目を見開いた。
「もちろん、君と同じ意味で信じているわけじゃない。だけど、君が信じているものを、僕は以前より理解できるようになった。それも一つの答えだと思ったんだ」
ヴィルツは肩をすくめた。
「君のために嘘をついたわけじゃないよ。僕自身が、そう考えたんだ」
ルービリアスは、しばらく何も言えなかった。
嬉しかった。
けれど同時に、自分の答えを話すのが、ますます怖くなった。
広場のどこかで、時計の針が進む音が聞こえた気がした。
「……僕は、違う答えを書いた」
「へえ。どんな?」
「今までの僕なら、参考書に書かれた学者の定説をつなぎ合わせて、それらしい答えを作っていたと思う。でも、あの問題だけは、それができなかった」
ルービリアスは、自分の手を見つめた。
「だって、あれは僕の人生を懸けた答案だろう? 言うなれば、僕自身の人生そのものだ。どこかの学者が書いた言葉を並べて、自分の答えだなんて言いたくなかった」
彼は顔を上げた。
「だから、ヴィルツ。君が話してくれた、あのシングルマザーのことを書いたんだ」
ヴィルツの表情が変わった。
「宗教の規則によって働く機会を失い、子供と離れなければならなくなった母親。その出来事を通して、神とは何か、そして、神が人間に何を求めるべきなのかを書いた」
「……僕の話を?」
「ああ。神がいるかどうかだけを論じても、僕には答えが出せなかった。だから、神がいるのなら、神とはどうあるべきなのか。人を救うはずの信仰が人を苦しめたとき、僕たちは何を考えるべきなのか。僕自身の言葉で書いたんだ」
ルービリアスは、少し不安そうに笑った。
「正しい答えだったかは、分からないけどね」
ヴィルツは答えなかった。
ただ、ルービリアスの顔をじっと見つめていた。
二人は、互いの答案を初めて知った。
そのとき、正午を告げる鐘が鳴った。
鐘の音が、広場の空気を震わせた。
同時に、掲示板を覆っていた白い布が取り払われる。
人々が一斉に前へ押し寄せた。
ざわめきが膨らみ、靴音が重なり、誰かの息を呑む音が聞こえた。
掲示板には、受験番号が上から順に並んでいた。
ルービリアスは、人の肩越しに紙面を見つめた。
一つ。
また一つ。
番号を目で追っていく。
ない。
見落としたのかもしれない。
彼はもう一度、最初から探した。
やはり、ない。
隣では、ヴィルツも掲示板を見上げていた。
彼の視線が、ゆっくりと下へ移る。
そして、止まった。
「……ない」
小さな声だった。
二人とも、自分の番号を見つけられなかった。
ルービリアスは、掲示板の前に立ち尽くした。
落ちた。
その事実が、遅れて胸の奥へ沈んでいく。
魔法学校に入学できなければ、魔法魔術大学校へ進む道も閉ざされる。
魔法使いになる。
その未来だけを疑わずに生きてきた。
ラファエル家の跡取りとして、家の杖を受け継ぎ、歴代の魔法使いたちの意志を継承する。それが、自分に与えられた人生なのだと思っていた。
けれど、その未来は今、たった一枚の紙によって断ち切られた。
「……そんな」
声が震えた。
ヴィルツは何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
慰めたところで、何になるのだろう。
ルービリアスがどれほど魔法使いになることを望んでいたか、彼は誰よりも知っていた。
広場のざわめきが、少しずつ遠のいていく。
ルービリアスの目には、掲示板の文字しか映らなかった。
そのときだった。
――ウウウウウウウウッ!
耳をつんざくような警報音が、校内に鳴り響いた。
広場の空気が、一瞬で変わった。
人々が一斉に振り返る。
校舎の壁に設置された魔法式の拡声装置が、赤い光を放っていた。明滅する光が、集まった人々の顔を不安げに照らしている。
『緊急事態発生。繰り返します。緊急事態発生』
機械的な声が、広場の隅々まで響き渡った。
誰も動かなかった。
次の言葉を待っている。
『本校の所在地が隣国に特定された可能性があります。敵対勢力の接近を確認。全教職員および在校生は、直ちに防衛手順を開始してください』
一拍遅れて、ざわめきが広がった。
「隣国だって?」
「敵が来ているのか?」
「ここが見つかった?」
声が重なり、広場が騒然となる。
『受験者および保護者は、係員の指示に従って避難してください。これは訓練ではありません。繰り返します。これは訓練ではありません』
その言葉が終わる前に、遠くで何かが崩れるような音がした。
地面が、かすかに揺れた。
悲鳴が上がる。
校舎の向こう側、森の上空に、青白い光が走った。空間そのものが裂けたように見えた。
次の瞬間、森を覆っていた景色が大きく歪む。
隠蔽魔法が揺らいでいた。
この学校は、隣国から隠されていたはずだった。
誰にも見つからないはずだった。
それなのに。
森の奥で、二度目の轟音が響いた。
今度は、はっきりと聞こえた。
遠くから何かが近づいてくる。
「……見つかったのか?」
ヴィルツが呟いた。
ルービリアスは答えられなかった。
ほんの数分前まで、彼の世界は終わったのだと思っていた。
魔法使いになる未来を失い、夢への道を閉ざされたのだと。
しかし今、目の前で起きていることは、そんな個人的な絶望とは比べものにならないほど大きな何かだった。
広場の出口へ向かって、人々が一斉に走り始める。
係員が叫んでいる。
「落ち着いてください! 順番に避難を!」
その声は、次の爆発音にかき消された。
校舎の壁が震え、窓ガラスが一斉に鳴る。
空から、細かな光の破片が降ってきた。
警報は鳴り続けている。
人々はもう、係員の指示を聞いていなかった。家族を呼び、互いに押し合いながら、我先にと広場から逃げ出していく。
ヴィルツがルービリアスの袖をつかんだ。
「ルービリアス。逃げよう」
その声に、彼はようやく我に返った。
掲示板の紙が、風に煽られて大きくはためいている。
そこに並ぶ合格者の番号が、視界の端で揺れていた。
ルービリアスは一度だけ、それを振り返った。
そして、ヴィルツの手を振りほどかずに走り出した。
二人は、合格者の番号が並ぶ掲示板を背にして、広場を駆け抜けた。
そのときの二人は、まだ知らなかった。
自分たちが不合格になった理由も。
そして、この日が、二人の人生を本当の意味で変える始まりになることも。




