持たざる者
「全員、校舎内へ! 受験者は西棟に避難しろ!」
教師たちの怒号が、混乱する広場に響き渡った。
受験生たちは一斉に走り出した。誰かが転び、誰かがその腕をつかんで引き起こす。泣き声と怒鳴り声が重なり、整然としていた試験会場は、瞬く間に逃走する人々の群れへと変わった。
ルービリアスとヴィルツも、押し寄せる人波に流されながら校舎の正面入口へ駆け込んだ。
最後尾の教師が扉を閉める。
重い閂が下ろされた直後、外から轟音が響いた。
校舎が大きく揺れた。
床が波打つように震え、窓ガラスが一斉に鳴り、天井から細かな埃が舞い落ちる。入口付近にいた受験生たちが悲鳴を上げ、何人かはその場にしゃがみ込んだ。
「いったい、何が起きているんだ……!」
ヴィルツが叫んだ。
「隣国の軍隊が攻めてきたんだ!」
「そんなことは分かってる! 僕が聞いているのは、どうしてこんな場所に学校を建てたのかってことだ!」
ヴィルツは窓の外を指さした。
森の向こうには、青白い光がいくつも浮かんでいた。光は空中で複雑な模様を描き、次の瞬間、一直線に校舎へ飛来する。
着弾する。
そう思った瞬間、校舎の外壁が淡い金色に輝いた。
防御魔法が攻撃を受け止めた。
しかし、衝撃までは消し切れなかった。壁の奥で何かが軋み、床に細い亀裂が走る。廊下の端では、壁に掛けられていた肖像画が落下し、額縁が砕け散った。
「防御結界が作動したぞ!」
「第一層はまだ保っている!」
「負傷者を医務室へ! 走れ、立ち止まるな!」
教師たちが叫びながら受験生を誘導していく。
その直後、二発目の攻撃が結界に叩きつけられた。
今度は金色の光が大きく歪んだ。
校舎全体が低く唸り、窓の一枚に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「国境に近すぎるだろ! 隠蔽魔法が破られたら、逃げ場がないじゃないか!」
「逆だよ!」
ルービリアスは、逃げる人々の間を縫いながら答えた。
「ここが最前線に近いからこそ、安全なんだ!」
「……はあ?」
「この地域には、国境を守るための軍事施設が集中している。精鋭部隊も配置されているんだ。敵がここを襲撃したなら、援軍だって遠くはない!」
言葉の途中で、三発目の攻撃が結界を打った。
今度は衝撃が校舎の内部まで突き抜けた。廊下の照明が一斉に明滅し、遠くで何かが崩れる音がした。
ルービリアスの声にも、隠しきれない焦りが混じる。
それでも、彼は自分の知る国家の仕組みを必死に説明した。
「もう少し時間が経てば、東方面を統括する四大魔法貴族の一人、エリクセン・ラファエルが来るはずだ!」
「エリクセン・ラファエル?」
「僕と同じラファエル家の人間だ。東方面の軍を率いる魔法大隊の司令官だよ!」
その名を口にした瞬間、ルービリアスの胸に、わずかな希望が灯った。
エリクセンが来れば、状況は変わる。
彼が軍を率いて到着すれば、敵の攻撃は止まり、結界の外へ押し戻される。そうなるはずだった。
彼はそう信じていた。
いや、信じるしかなかった。
そのとき、廊下の奥から一人の教師が走ってきた。
「避難者は地下の防護区画へ! 教員以外は絶対に外へ出るな!」
教師の外套は破れ、頬には煤がついていた。右手には杖を握り、左腕からは血が流れている。
その背後では、数人の教師が武器となる杖を構え、校舎の外へ向かっていた。
「先生たちは戦うんですか?」
ヴィルツが尋ねた。
「当然だ。ここは教育施設であると同時に、国家の重要施設でもある」
教師は足を止めずに答えた。
「我々が時間を稼ぐ。君たちは生き延びることだけを考えろ!」
「でも、結界が――」
「だからこそ急げ!」
教師の怒声が廊下に響いた。
直後、校舎の外で爆発が起きた。窓の向こうに赤い閃光が走り、熱風が隙間から吹き込んでくる。教師たちは一瞬だけ足を止めたが、すぐに互いに目を合わせ、外へ駆け出した。
そう言い残すと、教師は廊下の向こうへ消えていった。
ヴィルツはその背中を見送った。
「……教師が、軍隊と戦うのか」
「魔法学校の教師には、魔法使いとして実戦経験を積んだ人もいる。魔法を教えるだけが仕事じゃないんだ」
「君たちの国では、学校まで戦争に備えているんだな」
その言葉に、ルービリアスはすぐには答えられなかった。
また結界が震えた。
今度は、さきほどよりも長く揺れが続いた。壁に浮かぶ防御術式の一部が赤く変色し、警告音のような高い音が校内に響き渡る。
戦争に備えることは、国を守るために必要なことだ。
少なくとも、彼はそう教わってきた。
けれど、目の前では教師たちが命を懸けて戦い、受験生たちが恐怖に震えながら逃げ惑っている。
ここは学校のはずだった。
未来の魔法使いたちが、歴史を学び、知識を身につけ、自らの考えを育てる場所だった。
それなのに、なぜ。
なぜ、その学校が戦場にならなければならないのだろう。
「立ち止まるな!」
別の教師が叫んだ。
「第二波が来る! 地下へ急げ!」
その声に押されるように、ルービリアスとヴィルツは階段へ向かった。
背後で、正面玄関の扉が大きく震えた。
一度。
二度。
三度目の衝撃で、扉の中央に細い亀裂が走った。
地下へ向かう階段の途中で、校内放送が再び響いた。
『防衛結界、第一層が破損。敵部隊、外周部に侵入。各教員は防衛線を維持してください』
階段を下りていた受験生たちの足が止まった。
誰かが息を呑み、誰かが小さく泣き始める。
『繰り返します。防衛結界、第一層が破損――』
言葉が途中で途切れた。
放送に激しい雑音が混じる。
その間にも、頭上から爆発音が続いていた。衝撃が階段の手すりを震わせ、壁に刻まれた誘導灯が一つ消える。
そして、別の声が割り込んだ。
『本校より東方面司令部へ。敵襲を受けている。至急、援軍を要請する!』
声は切迫していた。
『繰り返す。本校は敵襲を受けている。援軍を要請する!』
返答はなかった。
数秒の沈黙の後、同じ声がさらに強く叫ぶ。
『東方面司令部、応答せよ! こちらは魔法学校防衛隊! 敵部隊が外周部を突破している!』
それでも、返事はない。
その直後、校舎の上空から赤い光が打ち上がった。
発煙筒だった。
赤い煙が空中で広がり、隠蔽魔法によって覆われていた空を染め上げる。煙は森の向こうからも見えるほど濃く、風に流されながら校舎の上空に留まった。
ヴィルツが窓の外を見た。
「今のは?」
「救援要請の信号だ。軍が使うものと同じだよ」
「これで援軍が来るのか?」
「司令部に届けばね」
「届かなかったら?」
ルービリアスは答えなかった。
そのとき、遠くで鈍い破裂音がした。
赤い煙の一部が、空中で突然途切れる。敵の魔法が発煙筒を撃ち抜いたのだ。
煙は大きく乱れ、薄くなっていく。
「信号が消える……」
誰かが呟いた。
ルービリアスは窓の外を見つめたまま、拳を握った。
赤い煙は風に流されながら、少しずつ薄くなっていった。
その向こうで、青白い攻撃魔法がまた一つ、校舎へ向かって飛んでくる。
「急げ!」
教師が階段の下から叫んだ。
「第二層が閉じる前に、防護区画へ入れ!」
受験生たちは再び走り出した。
地下の防護区画には、すでに多くの受験生が避難していた。
分厚い防護扉が閉ざされ、複数の閂が順番に固定されていく。扉の向こうでは、まだ遅れて走ってくる者たちの足音が響いていた。
「待って! まだ外に人がいる!」
「扉を閉めろ! 結界が限界だ!」
「あと三人だ!」
最後の受験生が転がり込んだ直後、扉が閉じられた。
その瞬間、外側から凄まじい衝撃が加わった。
防護扉が大きく膨らみ、閂が軋む。
区画内にいた全員が息を呑んだ。
壁には防御魔法の術式が青白く浮かび上がっている。術式は扉の周囲から順番に点灯し、衝撃を受けるたびに明滅した。
それでも、外から響く爆発音は止まらなかった。
一度。
二度。
三度。
爆発の間隔が、少しずつ短くなっている。
ヴィルツは壁にもたれ、荒い息を整えた。
「ねえ、ルービリアス」
「何?」
「さっき言っていた、東方面を統括する四大魔法貴族。あれは何なんだ?」
ルービリアスは一瞬、目を瞬かせた。
「四大魔法貴族を知らないのか?」
「知っているよ。四つの名門が国を支えているってことくらいはね。でも、どうして貴族が軍隊を率いているのかは知らない」
ルービリアスは少し考えた。
説明するなら、今がいいのかもしれない。
外では教師たちが戦い、防護区画の結界は少しずつ削られている。ヴィルツが疑問に思うのも当然だった。
「二百年前、この国と隣国の間で大きな戦争があったんだ」
「ユニコーン戦争?」
「そう。ユリウス教と隣国が激しく争った戦争だよ」
ルービリアスは、幼い頃に学んだ歴史を思い返した。
その間にも、壁の術式が一つ消えた。
区画内の受験生たちがざわめく。
「当時、ユリウス教皇国は戦争で劣勢に立たされた。そこで国の指導者たちは、聖都圏に軍事力を集中させることを決めたんだ。聖都さえ守り切れば、国は存続できると考えたんだろう」
「それで?」
「各地の戦線が崩れ、多くの人々が故郷を追われた。敗戦によって土地を失った人々が、次々と聖都へ流れ込んだんだ」
ルービリアスの声が、わずかに低くなった。
頭上で、何か巨大なものが崩れた。
防護区画の天井から砂埃が落ち、何人かの受験生が咳き込む。
「聖都には、すべての人を養えるだけの食料がなかった。人々は少ない食料を奪い合い、やがて内乱が起きた。外敵と戦うどころではなくなったんだ」
ヴィルツは黙って聞いていた。
壁の術式がまた一つ、光を失った。
「結局、ユリウス教皇国は敗北した。戦争に負けただけじゃない。国を守ろうとして戦力を一か所に集めた結果、国全体を支える力まで失ってしまったんだ」
「……なるほど」
ヴィルツは腕を組んだ。
「敵から国を守るために、国の中心を守ろうとした。でも、そのせいで国の中心に人が集まりすぎて、自分たちで自分たちを壊したわけか」
「そういうことだね」
「それで、今の仕組みができた?」
ルービリアスは頷いた。
「戦後、教皇国は方針を変えた。国境線沿いに主力部隊を配置し、戦線を簡単には後退させない。敵が侵攻してきたら、国境付近で食い止める。国土の奥深くまで敵を侵入させないために、軍事力を強化してきたんだ」
「でも、戦争の状況は刻一刻と変わるだろう。遠くの聖都にいちいち許可を求めていたら、間に合わないこともある」
「その通りだよ」
ルービリアスは続けた。
「だから、東西南北の四つの方面に、それぞれ強大な権限を持つ者を置いた。それが四大魔法貴族なんだ」
彼は指を折りながら説明した。
「彼らはそれぞれの方面を統括し、戦争の開始や侵攻、講和といった重大な決定にも関わることができる。状況によっては、教皇の命令を待たずに軍を動かすことも許されているんだ」
そのとき、防護扉の向こうで金属が裂けるような音がした。
区画内の空気が凍りつく。
「つまり、貴族というより、地方の軍事指導者に近いんだね」
ヴィルツは音のした扉を見つめたまま言った。
「軍事だけじゃない。領土の統治や外交にも権限を持っている。ただ、戦時には軍の指揮が特に重要になる」
「それほどの権限を、四つの家に与えたのか」
「一刻を争う状況で、すべての判断を聖都に任せるわけにはいかなかったからね」
壁の術式が、さらに二つ消えた。
防護区画の空気がわずかに震える。
ヴィルツはしばらく考え込んだ。
「二百年前の失敗から学んだ結果、今の仕組みができた。そういうことか」
「そうだよ」
「でも……」
ヴィルツは顔を上げた。
「戦争を早く終わらせるための権限を持った人間が、戦争を始める権限まで持っているのは、少し怖いね」
ルービリアスは言葉に詰まった。
その直後、区画内の照明が一度、完全に消えた。
暗闇の中で、誰かが悲鳴を上げる。
数秒後、非常灯が赤く点灯した。
それは、教科書ではあまり深く論じられない問題だった。
四大魔法貴族は、国家を守るために設けられた制度だ。
しかし、強い権限は、必ずしも正しい判断を保証しない。
戦線を維持するための決断が、さらなる犠牲を生むこともある。
迅速な講和のための権限が、逆に戦争の継続を選ばせることもある。
そして今、その制度に守られているはずの学校で、結界が一枚ずつ破られている。
「……だからこそ、魔法学校では歴史や倫理を学ぶんだと思う」
ルービリアスは、ゆっくりと言った。
「力を持つ人間が、何をすべきなのか。どうすれば過去の失敗を繰り返さずに済むのか。それを考えるために」
ヴィルツは彼を見つめた。
「なら、今の僕たちにも、その勉強が必要だね」
その瞬間、頭上から凄まじい衝撃が走った。
防護区画の壁が大きく揺れ、天井の一部から石片が落下する。受験生たちが身を伏せ、泣き声と叫び声が一斉に上がった。
壁に刻まれた術式が、一つ、また一つと光を失っていった。
校内放送が鳴る。
『敵部隊、第二防衛線を突破。敵部隊、校舎東棟へ侵入』
放送の向こうで、誰かが叫んでいる。
『防護区画の封鎖を維持しろ! まだ避難者が残っている!』
続いて、別の声が告げた。
『東方面司令部との通信、応答なし』
一瞬、誰も声を出さなかった。
外から、扉を叩くような衝撃が響いた。
一度。
二度。
三度目の衝撃で、防護扉の中央に細い亀裂が走る。
『繰り返します。東方面司令部との通信、応答なし』
ルービリアスの顔から、血の気が引いた。
エリクセン・ラファエル。
東方面を統括する魔法大隊。
援軍は、まだ来ていない。
防護区画の術式が、最後の数個を残して消えていく。
そして、赤い非常灯の下で、ヴィルツが静かに尋ねた。
「ルービリアス。もし、君の信じている仕組みが、僕たちを守れなかったら?」
ルービリアスは答えられなかった。
そのとき、防護扉の向こうから、低く不気味な軋みが響いた。
頭上では、まだ戦争が続いていた。
地下の防護区画には、受験生や保護者、学校の職員たちがひしめき合っていた。
壁に刻まれた防御術式が青白い光を放ち、分厚い扉の向こうからは、断続的に鈍い衝撃音が響いている。
誰もが不安を押し殺していた。
泣いている子供を抱きしめる母親。祈りを捧げる老人。震える手を握りしめる受験生。
その中で、ルービリアスは一人の教師を見つけた。
彼はジェンティーレ先生と言うらしい。
彼は壁際に置かれた通信装置の前に立ち、何度も操作を繰り返していた。装置からは雑音しか返ってこない。やがて諦めたように手を離し、深いため息をついた。
「先生!」
ルービリアスは人混みをかき分けて近づいた。
「どうして司令部と連絡が取れないんですか? さっきからずっと、応答がないと……」
ジェンティーレは振り返った。
「君たちも聞いていたのか」
「はい。東方面司令部は何をしているんですか? 救援要請は届いているはずでしょう?」
先生はすぐには答えなかった。
代わりに、壁に刻まれた術式を見上げた。
「おそらく、敵は我々の防御結界を破壊するだけではなく、その上から別の魔法を重ねている」
「別の魔法?」
ヴィルツが尋ねた。
「隠蔽魔法だ」
ジェンティーレは低い声で答えた。
「本来、隠蔽魔法は建物や人間の存在を外部から認識できなくするためのものだ。しかし、敵は我々の防御結界を覆うように隠蔽魔法を展開しているのかもしれない」
「どういうことですか?」
「外から見れば、ここでは何も起きていないように見える。攻撃を受けていることも、救援を求めていることも、すべて隠されてしまう」
ルービリアスは息を呑んだ。
「じゃあ、発煙筒も……」
「外部から認識されなければ、意味がない。通信回線も魔法的に妨害されている可能性が高い。こちらから送った信号が届いていないのか、それとも届いているのに応答がないのか。現時点では判断できない」
ジェンティーレは通信装置を見下ろした。
「いずれにせよ、我々は外部から孤立している」
その言葉が、地下室の空気を重くした。
ルービリアスは、必死に別の可能性を探した。
「でも、先生たちなら大丈夫ですよね?」
自分でも驚くほど、幼い声だった。
「魔法学校の先生なんですから。魔法魔術大学校も卒業しているし、戦い方だって知っている。敵を追い返すことだって……」
ジェンティーレは、ルービリアスをじっと見つめた。
そして、静かに笑った。
「君は、魔法学校の教師がどういう人間なのか、知っているか?」
「え?」
「我々は、魔法学校と魔法魔術大学校を卒業している。だが、その先にある魔法士国家総合職試験には合格できなかった人間たちだ」
ルービリアスは黙った。
魔法士国家総合職試験。
それは、魔法使いとして国家の中枢を担う者を選抜するための試験だった。優秀な成績を収めた者は、軍の指揮官や研究機関の責任者など、国家の重要な役職へと進む。
四大魔法貴族のような名門の出身者であっても、その試験の結果は無視できない。
「我々は、いわば負け組の集まりなんだよ」
ジェンティーレは淡々と言った。
「国家の中枢に立つほどの能力がないと判断された者。軍を率いるほどの才能がないと判断された者。そして、家が代々受け継いできた秘術、継承魔術を扱うこともできない、無個性の魔法使いたちだ」
ルービリアスは、思わず言葉を失った。
秘術、継承魔術。
それは、特定の家系だけが代々受け継ぎ、扱うことのできる特別な魔術だった。家に伝わる杖と血筋、そして長い歴史によって継承される、他者には容易に再現できない力。
ラファエル家にも、代々受け継がれてきた秘術が存在する。
ルービリアスは幼い頃から、それを受け継ぐ者になるのだと教えられてきた。
「……でも、先生たちは魔法を教えているじゃないですか」
ようやく、それだけを口にした。
「知識だって、経験だってあるはずです」
「もちろんだ」
ジェンティーレは頷いた。
「だから、我々は教師になった。国家の中枢に立つことはできなくても、次の世代に知識を伝えることはできる。自分たちが学んだことを、若い人間たちに残すことはできるからだ」
彼は、周囲にいる受験生たちを見渡した。
「だが、それは我々が強いという意味ではない。国家が選ぶほどの魔法使いではなかった。それが、我々の現実だ」
ルービリアスは、先生の杖に目を向けた。
それは、彼が見慣れた貴族の杖とは違っていた。
華美な装飾も、家紋もない。
長い年月を使い込まれた、質素な杖だった。
「では……先生たちは、敵と戦って勝てるんですか?」
ルービリアスが尋ねると、ジェンティーレはしばらく黙った。
「分からない」
意外な答えだった。
「我々が敵より強いという保証はない。援軍が来るという保証もない。全員を守れるという保証だってない」
ジェンティーレは、目を伏せた。
「だが、一つだけ確かなことがある」
彼は顔を上げた。
「我々は、この学校の教師だ。ここにいる受験生たちを守る責任がある」
その声には、先ほどまでの自嘲はなかった。
「国家に選ばれなかったことと、目の前の人間を守れないことは、同じではない」
ルービリアスは、何も言えなかった。
そのとき、地下室の照明が一斉に明滅した。
壁の術式が不規則に点滅し、通信装置から甲高い音が鳴り響く。
ジェンティーレの表情が変わった。
「……もう、ここも長くは持たないかもしれない」
最初に聞こえたのは、遠くの足音だった。
複数の人間が、廊下を走っている。
怒号が響く。
金属がぶつかる音がする。
それから、何かが床に倒れる音。
地下室にいた人々は、一斉に会話をやめた。
誰もが、扉の向こうに耳を澄ませていた。
ジェンティーレは自分の杖を握り直した。
「全員、壁際へ下がれ」
教師の声が、地下室に響いた。
「子供と負傷者を中央へ。扉から離れるんだ」
受験生たちが、互いに顔を見合わせながら移動する。
ルービリアスもヴィルツの腕を引き、壁際へ向かった。
そのときだった。
――ドン。
地下室の扉が、大きく揺れた。
誰かが、外側から叩いたのだ。
一度だけではない。
――ドン、ドン。
鈍い音が地下室に響き渡る。
母親が子供の口を押さえ、老人が祈りの言葉を呟く。
ジェンティーレは扉を見つめたまま、片手を上げた。
教師たちが杖を構える。
誰も動かなかった。
やがて、扉の向こうから声がした。
「……開けてくれ」
かすれた声だった。
「頼む。中に入れてくれ」
ルービリアスは、思わず一歩前へ出た。
助けを求めている。
まだ、外に人がいるのだ。
しかし、ジェンティーレは彼を手で制した。
「待て」
先生は扉を見つめたまま、低い声で言った。
「本当に味方なのか、確かめる必要がある」
再び、扉が叩かれた。
――ドン、ドン、ドン。
今度は、さっきよりも激しかった。
「頼む! 早く開けてくれ!」
声が震えている。
その向こうで、別の音が聞こえた。
複数の足音。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる足音だった。
ジェンティーレは、杖を構えた。
「全員、身を低くしろ」
地下室の空気が凍りついた。
そして、扉の向こうから、三度目の声が響いた。
「開けろ。……命令だ」
先ほどとは違う声だった。
冷たく、感情のない声。
ルービリアスは息を止めた。
ヴィルツが、彼の袖を強く握った。
扉の向こうにいるのは、誰なのか。
助けを求める味方なのか。
それとも――。
――ドン。
扉が、再び揺れた。




