出会い
この世界には、人間の生存を脅かす怪物も、モンスターも存在しない。
人類が恐れるべきものは、暗闇に潜む異形の化け物でも、空から降り注ぐ天災でもなかった。
それは、隣人であった。
人々は、力を求めた。
自らの身を守るために。家族を守るために。大切なものを奪われないために。
そして、いつしか他人から何かを奪うために。
価値観、血筋、人種、思想、信仰。人々は自分と他者を隔てる理由をいくつも見つけ出し、似た者同士で集まり、互いを仲間と呼ぶようになった。
その輪は、何世紀もの時を経て、次第に大きくなっていった。
村は国になり、国は同盟になり、同盟は巨大な勢力となった。
そして、地球上のあらゆる土地が、何らかの集団の旗の下に収められたとき、人々は初めて気づいた。
自分たちの居場所を広げるためには、誰かの居場所を奪わなければならないのだと。
行く場所をなくした者たちは、今度は自分たちと異なる肌を持つ者を攻撃した。異なる言葉を話す者を排斥した。異なる神を信じる者に服従を迫った。
そして、勝者は敗者に命令した。
敗者は勝者に頭を下げた。
土地が手に入り、財産が手に入り、権力が手に入った。
何より、人々はその過程で、ある感覚を知ってしまった。
自分の正しさが、相手の敗北によって証明されるという感覚を。
そうして人類は、戦争の快感を覚えた。
もちろん、戦争をしてはいけない理由なら、誰だって知っている。
人が死ぬからだ。
家族を失うからだ。
昨日まで笑い合っていた隣人が、今日には敵になるからだ。
戦争は、何もかもを奪っていく。
そんなことは、子供にだって分かる。
では、なぜ人々は戦争に参加するのだろう。
戦争を計画した人間だけが悪いのだろうか。
命令を下した人間だけが責任を負えば、それで終わるのだろうか。
自分の家族を守るために武器を取った者は。
仲間を見捨てれば、自分が次の犠牲者になると知っていた者は。
生まれたときから敵を憎むよう教えられ、それ以外の生き方を知らなかった者は。
彼らもまた、悪人と呼ばれるべきなのだろうか。
人間は平和を望んでいる。
それは、おそらく間違いない。
誰もが安心して眠れる夜を望み、愛する者が明日も隣にいることを願っている。
それでも人間は、争いをやめられなかった。
なぜなら、話し合いには時間がかかるからだ。
互いの事情を理解するには、想像力が必要だからだ。
譲り合うには、誰かが自分の正しさを疑わなければならないからだ。
一方で、戦争は明快だった。
敵を倒せば勝ち。
相手を屈服させれば解決。
土地を奪えば自分のもの。
相手の声を聞く必要はない。相手の事情を理解する必要もない。自分が正しいと信じ、相手を打ち倒せば、それで答えが出る。
人間は、平和を実現するための複雑な方法よりも、戦争によって問題に決着をつける単純な方法を、何度も選んできたのではないだろうか。
だから、人々は武器を手放せなかった。
だから、拳による話し合いは、何世紀にもわたって繰り返された。
そして、拳は杖へと変わった。
魔法の誕生である。
だが、この世界の魔法は、単なる武力の延長ではなかった。
魔法使いが手にする杖には、名前がある。
意志がある。
そして、魂が宿っている。
魔法使いは、魔法を行使する対価として、自らの寿命を杖に差し出す。
杖が強大な力を振るうほど、使用者の命は削られていく。
人々が生まれながらにして与えられる寿命は、およそ七十年。
対して、魔法使いの寿命は二十年ほどしかない。長命な者であっても、二十五歳の誕生日を迎えた魔法使いは、人類の長い歴史の中で一人も存在しなかった。
彼らは、若くして死ぬ。
自分の人生を十分に生きることも、子供の成長を見届けることも、老いた親を看取ることもできずに。
それでも、魔法使いの死が、その人生の無意味さを証明するわけではない。
彼らの思いは、死とともに消え去ることはなかった。
記憶も、後悔も、願いも、そして次の世代に伝えたい教えも。
それらは、彼らが生涯をともにした杖に宿り続ける。
杖は、次の使用者を導く。
時に励まし、時に戒め、時には、かつての持ち主が犯した過ちを繰り返さぬよう警告する。
人間の命は短い。
しかし、杖に受け継がれる意志は、時代を超える。
こうして魔法は発展し、魔法使いは歴史の中で特別な存在となっていった。
やがて、魔法は誰もが自由に手にできるものではなくなった。
杖は親から子へ、子から孫へと受け継がれ、魔法使いの家系が生まれた。
魔法の知識だけでは、魔法使いにはなれない。
杖に認められなければならない。そして、杖に宿る魂を受け入れなければならない。
何より、先祖が命を削って守り続けてきた杖を、他人に託すことなど、簡単にできるはずがなかった。
親の魂が宿る杖を、見ず知らずの人間に使わせたいと思う子供が、いったいどれほどいるだろう。
そうして魔法は、血筋とともに受け継がれるものとなった。
魔法使いの家系は、やがて貴族となった。
貴族は杖を守り、杖は貴族を守る。
その結びつきは何世紀にもわたって続き、魔法使いの血統は、人々の社会における権力そのものとなっていった。
その中でも、特に強大な影響力を持つ四つの魔法貴族が存在した。
彼らは、ユリウス教皇国の歴史と政治に深く関わり、魔法の伝統を守る者として君臨していた。
そして、その四大魔法貴族の一つに、ラファエル家という名門があった。
これは、そのラファエル家に生まれた一人の少年の物語である。
その名は、ルービリアス・ラファエル。
彼は、未来の魔法使いであり、ユリウス教皇国の歴史に名を刻むことになる少年だった。
そして、この物語が始まったとき。
彼は、まだ十二歳だった。
一 十二歳の春
ユリウス教皇国の首都、聖都アウレリア。
白い石造りの建物が幾重にも連なり、その中心には、雲の切れ間にまで届くかのような巨大な大聖堂がそびえていた。
街路には磨き上げられた石畳が敷かれ、広場では聖職者たちが人々に説法を行い、商人たちは教皇国各地から運ばれた品々を売りさばいている。
この国では、ユリウス教こそが社会の中心であり、信仰は人々を結びつける最も強い絆だった。
もっとも、それは同時に、人々を隔てる最も強い壁でもあった。
そんな聖都の一角に、ラファエル家の本邸は存在した。
広大な敷地を囲む鉄柵。左右対称に配置された庭園。数十人の使用人を抱える本館。そして、歴代当主の肖像画が飾られた長い廊下。
そのすべてが、ラファエル家の歴史と権威を物語っていた。
その本邸の一室で、一人の少年が頭を抱えていた。
「……決まらない」
ルービリアス・ラファエル、十二歳。
銀糸を思わせる淡い金髪に、澄んだ青い瞳。幼さの残る顔立ちでありながら、その姿勢や言葉遣いには、名門貴族の嫡男として育てられた者特有の気品があった。
彼の目の前には、十数枚の書類が整然と並べられている。
いずれも、これからルービリアスの身の回りの世話をする召使いの候補者たちの経歴書だった。
「もう一度、最初から確認するか……」
彼は一枚目の書類を手に取った。
名前、年齢、出身地、これまでの奉公先、推薦状。
どれも申し分ない。
一人目は、ラファエル家と長年の付き合いがある貴族の紹介だった。礼儀作法に優れ、身の回りの世話についても十分な経験がある。
二人目は、名門の使用人養成所で優秀な成績を修めた少年だった。記憶力に優れ、主人の指示を正確に実行する能力に長けているという。
三人目に至っては、すでに複数の貴族から採用を勧められていた。
誰を選んでも、ラファエル家の名に傷がつくことはないだろう。
それは分かっていた。
しかし。
「……違うんだよなあ」
ルービリアスは、椅子の背もたれに身体を預けた。
「若様。いったい、何がご不満なのですか?」
部屋の隅に控えていた老執事が尋ねた。
名をセバスチャンという。白髪交じりの髪をきれいに整え、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿には、長年ラファエル家に仕えてきた者の風格があった。
「不満というわけじゃないんだ。みんな優秀だし、僕なんかにはもったいないくらいだと思うよ」
「では、なぜお決めにならないので?」
「それが分からないから困っているんだ」
ルービリアスは天井を見上げた。
彼は、まもなく魔法学校に入学する。
ただし、この世界の魔法学校は、一般に想像されるような魔法を実際に使うための場所ではない。
魔法の歴史、杖に宿る魂の研究、魔力の理論、魔法に関わる法体系、そして魔法使いが守るべき倫理。
そうした知識を学び、魔法という存在を正しく理解するための教育機関なのだ。
実際に杖を用いて魔法を行使するための高度な訓練は、その先にある魔法魔術大学校で行われる。
つまり、魔法学校に入学するということは、魔法使いとしての人生を本格的に歩み始めるための第一歩なのである。
四大魔法貴族の一つ、ラファエル家の嫡男であるルービリアスが、その道を歩まないという選択肢はなかった。
そして、貴族の子供が魔法学校に入学する際には、身の回りの世話をする召使いを伴うことが慣例となっていた。
荷物の管理、日々の予定の確認、衣服の手入れ、書類の整理。
それだけではない。
学内で起こるさまざまな出来事を報告し、時には主人の未熟さを補い、時には誰よりも近くで主人の成長を見届ける。
召使いは、単に命令を聞くための存在ではなかった。
主人がどのような人間になるのかを、最も近くで見続ける存在でもあった。
だからこそ、ルービリアスは悩んでいた。
「セバスチャン。君は、僕にどんな人を選ぶべきだと思う?」
「私が申し上げることではございません。お決めになるのは若様です」
「それはそうだけど……」
「ただ、一つだけ申し上げるならば」
セバスチャンは、わずかに目を細めた。
「若様がその方と過ごす時間は、これから長くなるでしょう。ですから、能力や家柄だけでお選びになる必要はないかと存じます」
「家柄だけで選ぶつもりはないよ」
「それならば、なおさらでございます」
ルービリアスは再び書類に目を落とした。
能力。
礼儀。
信頼性。
推薦状。
そこには、誰もが認める長所が並んでいる。
しかし、どの書類にも書かれていないものがあった。
その人が、どんなことを考えているのか。
何を大切にしているのか。
そして、何を恐れているのか。
「……一緒にいて、退屈しない人がいいな」
ぽつりと、ルービリアスはつぶやいた。
セバスチャンは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「かしこまりました。では、候補者を追加で探させましょう」
「いや、そういう意味じゃ……」
「退屈な日々は、長うございますからな」
セバスチャンはそれだけ言って、深々と頭を下げた。
そして、部屋を出ていった。
残されたルービリアスは、もう一度書類の山を見つめる。
「……どうしたものかな」
このときの彼は、まだ知らなかった。
自分が探しているのは、ただの召使いではないということを。
そして、その答えが、聖都の華やかな街並みから遠く離れた、古びた孤児院にいるということを。
数日後。
ルービリアスは、ラファエル家の紋章を掲げた馬車の中にいた。
向かいにはセバスチャンが座り、その隣には護衛の騎士が一人控えている。
「……それで、孤児院?」
「はい、若様」
「僕の召使いを探すために?」
「はい」
「……どうして?」
ルービリアスは本気で不思議そうな顔をした。
セバスチャンは、窓の外に視線を向けたまま答えた。
「若様は、家柄や能力だけではお選びになりたくないとおっしゃいました。であれば、まだ誰にも選ばれていない者たちにも、機会を与えるべきではないかと考えた次第です」
「なるほど。それは確かにそうかもしれない」
「もちろん、孤児院の子供を無理に連れていくわけではございません。本人の意思も確認いたします」
「うん。それは当然だね」
馬車が大きく揺れた。
窓の外に広がる景色は、いつの間にか変わっていた。
整然と並んでいた商店はまばらになり、立派な石造りの建物は、年季の入った木造家屋へと変わっている。
道も狭くなり、石畳の隙間からは草が顔をのぞかせていた。
同じ聖都の中であっても、暮らす人々の生活には大きな違いがある。
大聖堂の鐘の音が聞こえる場所であっても、その恩恵が等しく行き渡るわけではない。
やがて馬車は、古びた建物の前で止まった。
建物の壁には、長い年月によって色あせた看板が掛けられている。
『聖マルタ孤児院』
その文字を見て、ルービリアスは少しだけ眉をひそめた。
「……ずいぶん古い建物だね」
「創設から八十年以上が経過しているそうです」
「八十年か。僕の曽祖父が生まれるより前からあるんだ」
「はい。長い歴史のある施設でございます」
ルービリアスが馬車を降りると、入り口から一人の女性が慌てて駆け寄ってきた。
四十代半ばほどだろうか。質素な衣服に身を包み、疲れのにじむ顔をしていたが、その目には穏やかな優しさがあった。
「ラ、ラファエル家の……! これは、ようこそおいでくださいました!」
女性は深々と頭を下げた。
「院長を務めております、エレナと申します。まさか、このような高貴なお方が当院を訪ねてくださるとは……」
「突然すみません。少し、お話を伺いたくて」
ルービリアスは丁寧に頭を下げた。
その姿に、エレナは少し驚いたようだった。
四大魔法貴族の嫡男と聞けば、もっと尊大な少年を想像していたのかもしれない。
「と、とんでもございません。さあ、どうぞ中へ」
案内された室内には、十数人の子供たちがいた。
年齢はさまざまで、まだ幼い子供もいれば、すでに成人に近い年齢の者もいる。
彼らは来訪者の姿を見ると、興味深そうに顔を上げた。
ラファエル家の紋章。
仕立てのよい衣服。
そして、周囲に漂う、普段の生活では決して目にすることのない貴族の気配。
子供たちの表情には、期待と緊張が入り混じっていた。
「今日は、みなさんと少しお話をしたいと思って来ました」
ルービリアスは、子供たちに向かって微笑んだ。
「実は、僕はもうすぐ魔法学校に入学するんです。それで、身の回りの世話をしてくれる人を探していて……もし、興味のある人がいたら、お話を聞かせてもらえませんか?」
その言葉に、子供たちがざわめいた。
「ラファエル家の召使い……?」
「魔法学校に行けるの?」
「すごい……!」
無理もない。
孤児院で暮らす子供たちにとって、名門貴族に仕えるという話は、めったに訪れない機会だった。
しかし、ルービリアスはすぐに気づいた。
子供たちの中には、喜びよりも戸惑いのほうが強い者もいる。
そして、部屋の隅には、こちらを見ようともしない少年が一人いた。
年齢は、十歳か十一歳ほど。
ほかの子供たちと同じように質素な服を着ているが、その服はところどころ繕われており、袖口には何度も洗濯した跡が残っていた。
髪は暗い灰色で、少し伸びすぎている。
少年は膝の上に本を広げ、来訪者など最初から存在しないかのように、黙々と文字を追っていた。
「……あの子は?」
ルービリアスが尋ねると、エレナの表情がわずかに曇った。
「ヴィルツ、と申します。十一歳になります」
「ヴィルツ……」
「はい」
エレナは、何かを言いかけて口を閉じた。
その沈黙が気になり、ルービリアスはもう一度尋ねた。
「何か、事情があるんですか?」
エレナは周囲の子供たちに聞こえないよう、声を落とした。
「ヴィルツは……この孤児院に来てから、ずっと引き取り手が見つからないのです」
「ずっと?」
「はい。もう何年も」
ルービリアスは驚いた。
孤児院にいる子供の中には、年齢や健康状態、性格など、さまざまな理由で引き取り手が見つかりにくい者もいる。
それ自体は、決して珍しいことではない。
しかし、エレナの口調には、それだけでは説明できない何かがあった。
「どうしてですか?」
「……ヴィルツは、ユリウス教の信者ではないのです」
その答えを聞いて、ルービリアスは一瞬、言葉を失った。
ユリウス教皇国において、信仰は人々の暮らしの隅々にまで根を下ろしている。
貴族であれ平民であれ、教会で洗礼を受け、聖典を学び、ユリウス教の教えを守ることは、社会の一員として生きるうえで重要な意味を持っていた。
そして、子供を引き取ろうとする家庭の多くは、自分たちと同じ信仰を持つ子供を望んだ。
異なる信仰を持つ子供を迎え入れれば、家庭内で問題が起きるかもしれない。
親戚から反対されるかもしれない。
周囲から、信仰心の薄い家庭だと思われるかもしれない。
そうした理由から、ヴィルツを引き取ろうとする者は現れなかった。
「……でも、信者ではないというだけでしょう?」
ルービリアスは、思わずそう尋ねた。
「はい」
「誰かを傷つけたわけでも、何か悪いことをしたわけでもないんですよね?」
「もちろんです。ヴィルツは、とても賢い子です。ほかの子供たちの面倒もよく見ますし、難しい仕事も嫌がらずに手伝ってくれます」
「それなのに、十一歳になるまで誰も引き取ろうとしなかった?」
「……はい」
エレナはうつむいた。
「私たちも、何度も引き取り手を探しました。でも、信仰の違いを理由に断られてしまうのです。本人にも、何度かユリウス教について説明したことがあります。けれど、ヴィルツは自分の考えを変えようとはしませんでした」
「自分の考え……」
「はい。あの子は、自分がなぜユリウス教を信じないのか、きちんと理由を持っているようです。ただ、私には……」
エレナはそこで言葉を切った。
その先を語ることは、ヴィルツを責めることにも、彼をかばうことにもなってしまう。
そんな葛藤が、彼女の表情に浮かんでいた。
ルービリアスは、再び部屋の隅に目を向けた。
ヴィルツは、相変わらず本を読んでいた。
自分の話をされていることに気づいていないはずはない。
それでも、少年は顔を上げようとしなかった。
「……会って、話をしてもいいですか?」
ルービリアスがそう言うと、エレナは静かにうなずいた。
「もちろんでございます」
「こんにちは」
ルービリアスは、少年の前にしゃがみ込んだ。
目線を合わせるためだった。
ヴィルツは、ようやく本から顔を上げた。
灰色がかった瞳が、ルービリアスを見つめる。
そこには、驚きも喜びもなかった。
ただ、目の前にいる相手が何者なのかを確かめようとする、静かな警戒心だけがあった。
「……こんにちは」
「僕はルービリアス。ルービリアス・ラファエルだ」
「知っています」
「そ、そうか」
思ったよりも素っ気ない返事だった。
ルービリアスは、少しだけ困ったように笑った。
「君がヴィルツ?」
「はい」
「十一歳なんだって?」
「そうです」
「何を読んでいるの?」
「歴史書です」
「歴史か。面白い?」
「本によります」
会話が続かない。
いや、正確には、ヴィルツは質問されたことに答えている。
しかし、それ以上のことを話そうとはしなかった。
ルービリアスは、これまで面接した召使い候補者たちを思い出した。
彼らは、ルービリアスが何かを尋ねれば、丁寧な言葉遣いで詳しく説明してくれた。
こちらが話を終える前に次の質問を予想し、気の利いた返答を用意してくれる者さえいた。
それに比べると、目の前の少年は、あまりにも遠慮がなかった。
「ねえ、ヴィルツ。もしよかったら、僕の召使いになってみない?」
その言葉に、ヴィルツの手が止まった。
初めて、少年の表情に変化が現れた。
「……どうしてですか?」
「どうしてって……君は、ここから出たいと思わないの?」
「出たいかどうかと、あなたの召使いになるかどうかは、別の話です」
ルービリアスは、思わず目を丸くした。
「確かに、そうだね」
「それに、あなたは僕のことを何も知りません」
「うん」
「僕がどんな人間なのかも、何を考えているのかも知らない。それなのに、どうして僕を選ぶんですか?」
その問いに、ルービリアスはすぐに答えられなかった。
確かに、そのとおりだった。
ヴィルツのことは、ほとんど何も知らない。
名前と年齢、そしてユリウス教の信者ではないということくらいだ。
それでも、ルービリアスは、なぜかこの少年と話してみたいと思った。
「……君が、僕に遠慮しないからかな」
「それは、理由になりません」
「ははっ、厳しいなあ」
「事実です」
ヴィルツは本を閉じた。
そして、まっすぐにルービリアスを見つめた。
「ラファエル家の人間なら、僕を引き取ることに困る理由はないでしょう。僕がユリウス教の信者でないことも、もう知っているはずです」
「うん。聞いたよ」
「それでも、僕を選ぶんですか?」
「……君が嫌でなければね」
ヴィルツは黙った。
その沈黙は、先ほどまでの無関心とは違っていた。
まるで、目の前の少年が本気で言っているのかどうか、慎重に見極めようとしているかのようだった。
やがて、ヴィルツは小さく息を吐いた。
「……変わった人ですね」
「よく言われるよ」
「褒めていません」
「それも、よく言われる」
ヴィルツは、ほんのわずかに眉を動かした。
笑ったのかもしれない。
あるいは、呆れただけなのかもしれない。
しかし、ルービリアスには、そのわずかな変化が妙に嬉しかった。
「ねえ、ヴィルツ」
「何ですか?」
「君は、どうしてユリウス教を信じないの?」
ヴィルツの表情から、わずかな柔らかさが消えた。
「……その話を、するんですか?」
「嫌なら、無理にとは言わないよ。でも、僕は知りたい」
「知ってどうするんです?」
「君を選ぶかどうか、考えるために?」
ルービリアスが冗談めかして言うと、ヴィルツは冷たい目を向けた。
「なら、話す必要はありません。あなたが僕を選ぶかどうかは、僕の信仰とは別の問題でしょう」
「そうだね。だからこそ、君が何を考えているのかを知りたいんだ」
ヴィルツはしばらく黙っていた。
やがて、窓の外へ視線を向ける。
「ユリウス教は、もともと少数民族だったユリウス人が、この世界で生き残るために作った宗教です」
「少数民族?」
「はい。昔のユリウス人は、どの国に行っても少数派でした。土地も、軍隊も、政治的な力もない。だから、同じ神を信じ、同じ戒律を守り、互いに助け合うことで、一つの集団として生き残ろうとした」
ヴィルツの声は淡々としていた。
まるで、何度も本で読み返した歴史を説明しているようだった。
「唯一神ガルージャを信じること。聖典に定められた厳しい戒律を守ること。ユリウス人同士で結束すること。それが、ユリウス教の中心です」
「厳しい戒律って、たとえば?」
「食事の決まり、服装の決まり、異教徒との結婚の制限。それから、安息日です」
「安息日?」
「土曜日と日曜日は、必ず仕事をしてはいけないというルールです。商売も、農作業も、雇われ仕事も。どんな事情があっても、働いてはいけない」
ルービリアスは、うなずいた
ヴィルツは、膝の上で手を組んだ。
「僕は以前、街で一人の女性を見ました。子供を一人で育てている人でした。シングルマザーというそうです」
「シングルマザー?」
「夫を亡くしたのか、別れたのかは知りません。ただ、その人は平日に働けるだけ働いて、土日も働かなければ生活できないようでした」
ヴィルツの瞳に、当時の光景が浮かんでいるようだった。
「けれど、その女性はユリウス教徒でした。だから、安息日の土日に働くことができなかった。仕事を失い、家賃も払えなくなって、子供を育てられなくなった」
「……それで?」
「泣きながら、自分の子供を孤児院に預けていました」
ルービリアスは、言葉を失った。
孤児院の中にいる子供たち。
その中には、そうして預けられた子供もいるのだろう。
「その女性は、子供を手放したくなかったはずです。でも、戒律を破ることもできなかった。働けば罪になる。働かなければ子供を養えない。結局、彼女は子供を手放すしかなかった」
ヴィルツは、静かに続けた。
「その光景を見てから、僕はユリウス教について考えるようになりました」
「でも……」
ルービリアスは、慎重に言葉を選んだ。
「それでも、その女性は死後に救われるんじゃないの?」
ヴィルツが、ゆっくりとルービリアスを見た。
「え?」
「ユリウス教では、厳しい戒律を守り、つらいことに耐えた者ほど、死後に大きな救いを受けられるんだよね。だったら、その女性も、いつかガルージャに救われる。子供を手放すことになったとしても、最後には報われるなら、それでいいじゃないか」
ルービリアス自身、完全に納得しているわけではなかった。
けれど、教会で聞かされてきた言葉を、彼なりに口にしたのだ。
ヴィルツはすぐには答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「……それは、本当に救いですか?」
「え?」
「子供と引き離されて、泣きながら生きることになっても、死んだ後にご褒美がもらえるなら、それでいい。そういう考え方ですよね」
「ご褒美という言い方は……」
「でも、実際にはそうでしょう」
ヴィルツの声に、初めて強い感情が混じった。
「つらいことに耐えたら、より大きなご褒美が待っている。戒律を守ったら、死後に救われる。ユリウス人として正しく生きたら、ガルージャが報いてくれる」
彼は、窓の外の大聖堂を見つめた。
「それは神様の教えというより、人間のエゴに見えます」
ルービリアスは眉をひそめた。
「人間のエゴ?」
「はい。人間が苦しみに耐えるために、自分たちで意味を作っただけです。苦しいのは、いつかご褒美がもらえるから。今、子供と離れなければならないのは、死後に救われるため。そう考えれば、どんな理不尽にも耐えられる」
「でも、それで救われる人もいる」
「そうかもしれません」
ヴィルツは否定しなかった。
「信仰によって生きる力を得る人がいることは、僕にも分かります。ユリウス教が、ユリウス人を守るために作られたことも理解しています。少数民族だった彼らが生き残るには、強い結束が必要だったのでしょう」
「だったら、どうして……」
「僕が疑問に思っているのは、ガルージャという神のほうです」
ヴィルツは、ルービリアスをまっすぐに見た。
「もし本当に神様がいるなら、ユリウス人だから救うとか、ユリウス人ではないから救わないとか、そんな狭い心を持っているでしょうか」
ルービリアスは答えられなかった。
「神様が、人間よりも小さな心しか持っていないとは思えません。誰であろうと助ける。どんな民族であろうと、どんな信仰を持っていようと、苦しんでいる人を見捨てない。僕が神様というものを想像するなら、そういう寛大な存在です」
「でも、ユリウス教では、ユリウス人だけが救われると……」
「だから、僕はその教えを信じられないんです」
ヴィルツは、膝の上の本に目を落とした。
「神様の名を借りて、人間が自分たちだけを特別扱いしているように見える。自分たちだけが選ばれた民族だと考え、苦しみに耐えた自分たちには大きな報酬があると思い込む。それは神様の慈悲ではなく、人間の欲望ではないでしょうか」
ルービリアスは、何も言えなかった。
大聖堂で聞いた説教。
聖典に記された言葉。
幼いころから教えられてきた、ユリウス人は選ばれた民だという考え。
それらが、ヴィルツの言葉によって、初めて別の形に見え始めていた。
「……君は、神様そのものを信じていないの?」
「分かりません」
ヴィルツは正直に答えた。
「神様がいるかどうかは、僕には判断できません。ただ、少なくとも、人間が作った教えをそのまま神様の言葉だと信じることはできない」
「それで、誰にも引き取られなかった」
「そうです」
「……それは、君のせいじゃないよ」
ルービリアスが言うと、ヴィルツは少しだけ目を見開いた。
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
「でも、寂しくはないの?」
ヴィルツは、すぐには答えなかった。
窓の外で、鐘が鳴った。
聖都の人々に祈りの時間を告げる鐘だった。
「寂しいですよ」
やがて、ヴィルツは小さく言った。
「誰にも選ばれないのは、寂しいです。僕がどれだけ働いても、どれだけ勉強しても、信仰が違うというだけで拒まれる。それが平気なわけではありません」
その声は、先ほどまでよりもずっと幼かった。
「でも、寂しいからといって、間違っていると思うことを信じることはできません」
ルービリアスは、ヴィルツを見つめた。
この少年は、強いのだろうか。
それとも、強くあろうとしているだけなのだろうか。
「……僕は、君の考えが正しいかどうかは分からない」
ルービリアスは、ゆっくりと言った。
「僕はユリウス教徒として育てられたし、ガルージャがいると教えられてきた。だから、君の話を聞いても、すぐに全部を否定することはできない」
「それでいいと思います」
「え?」
「すぐに信じる必要も、すぐに否定する必要もありません。考えることが大切です」
ヴィルツは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「あなたは、僕の話を聞いてくれました。それだけで十分です」
ルービリアスは、胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。
これまで、彼は信仰について疑問を持ったことがなかった。
信じることは当然であり、疑うことは失礼なことだと思っていた。
しかし、目の前の少年は、信じないことを選びながらも、神の存在そのものを嘲笑っているわけではない。
むしろ、誰よりも神に大きな慈悲を求めているように見えた。
「ヴィルツ」
「はい」
「僕の召使いになってくれないかな」
ヴィルツは、また驚いた顔をした。
「……今の話を聞いても?」
「今の話を聞いたからこそ、だよ」
「僕は、ユリウス教を信じません」
「知っているよ」
「ラファエル家は、ユリウス教の中でも重要な家柄でしょう。僕があなたのそばにいれば、問題になるかもしれません」
「それなら、僕が何とかする」
「あなたに何とかできるんですか?」
「……努力はする」
ヴィルツは、呆れたように息を吐いた。
「ずいぶん無責任ですね」
「そうかな」
「はい」
「でも、君を選びたいと思ったんだ」
ルービリアスは、まっすぐにヴィルツを見た。
「君が僕に遠慮しないからだけじゃない。君が、自分の考えを持っているからだ。僕は、君と一緒にいたら、きっといろいろなことを考えられると思う」
ヴィルツは黙っていた。
その瞳には、警戒と戸惑い、そしてほんのわずかな期待が浮かんでいる。
「……僕は、あなたの信仰を変えようとは思いません」
「僕も、君の信仰を変えさせるつもりはないよ」
「信仰ではありません。僕は、まだ何も信じていないだけです」
「それでもいい」
「本当に?」
「うん」
ルービリアスは笑った。
「僕たちは、これから魔法学校でいろいろなことを学ぶんだ。魔法の歴史も、倫理も、世界の仕組みも。だったら、信仰についても一緒に考えればいい」
ヴィルツは、長い間ルービリアスを見つめていた。
やがて、閉じていた本を膝の上に置く。
「……分かりました」
「本当?」
「はい。ただし、条件があります」
「条件?」
「僕を、あなたの信仰を守るための道具にしないでください」
ルービリアスは、少しも迷わず答えた。
「約束する」
「それから、僕が間違っていると思ったことは、あなたに言います」
「うん」
「あなたが間違っていると思ったことも、僕に言ってください」
「分かった」
「それでも、僕を選ぶんですか?」
ルービリアスは、微笑んだ。
「もちろん」
ヴィルツは、しばらく黙っていた。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……変わった人ですね」
「またそれ?」
「今度は、少しだけ褒めています」
その言葉に、ルービリアスは笑った。
窓の外では、聖都の鐘が鳴り続けている。
人々は今日も祈り、働き、暮らしている。
誰かと手を取り合いながら。
誰かを遠ざけながら。
信仰という名の絆によって結ばれながら、その絆の外側にいる者を知らず知らずのうちに孤立させながら。
そして、聖マルタ孤児院の片隅には、十一歳になるまで誰にも選ばれなかった少年がいた。
彼はまだ知らない。
自分を選ぼうとしている少年が、どれほど大きな歴史の転換点に立とうとしているのかを。
ルービリアスもまた、知らなかった。
この出会いが、自分の人生だけでなく、魔法と信仰によって築かれた世界そのものを揺るがすことになるとは。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この日、ルービリアス・ラファエルは、初めて自分の意志で、誰かを選ぼうとしていた。
そして、その相手は。
世界が選ばなかった少年だった。




