第6話 悪意なき善意と譲れぬ秩序
「おっいたいた、リッツバーグ。お前いい加減観念したらどうなんだ」
朝、学園寮の廊下で先輩に呼び止められたかと思えば、開口一番これだった。カイラスは無視したい気持ちを押し殺し、愛想笑いを浮かべて振り返る。
「……何のことでしょうか」
平静を装いながらも、こめかみがピクピクと引き攣っていた。そんなカイラスの様子など知ってか知らずか、先輩は馴れ馴れしく肩を組みながらニヤニヤと笑う。
「分かってんだろ? アフロティーナ様のことだよ。あんなに熱烈にアプローチされて、羨ましいったらないな。何で選ばないんだ?」
「……俺には不釣り合いですから」
「はぁ? 玉の輿だってのに勿体ねぇな。ま、さっさと諦めろよ。俺、今月には落ちるのに賭けてるんだから」
「個人間賭博は禁止ですよ」
「そんな硬いこと言うなって。じゃあな」
ひらひらと手を振って去っていく先輩の背中を見送り、カイラスは周りに誰もいないことを確認してチッと盛大に舌打ちをした。
こっちの苦労も知らないで、勝手に人の色恋沙汰で賭け事をしやがって。しかも自分が落ちる前提なことも気に入らない。あの先輩のことをゼノスにチクってやろうと心に決めた。なお、ゼノスもその賭けに参加していることはまだ知らない。
寮を出る前からテンションが下がり、うんざりしながら教室に向かえば、挨拶もそこそこに何故か同級生たちに机を取り囲まれた。怪訝な顔をするカイラスに、一人が少し声を抑えて問いかける。
「なぁカイラス、お前って不能なのか?」
「はぁッ⁉︎ ──ゲホゲホッ」
あまりにも直球で不名誉すぎる問いに、思わず喉を詰まらせた。さすがに男の沽券に関わると、慌てて聞き返す。
「な、何でそうなるんだっ⁉︎」
「いや、ヴェルシェ嬢にあんなに迫られて落ちない男なんて存在するのか、って話になってさ」
「だってあれだけの美人だぞ?」
「だから不能か、もしくは男色なんじゃないかって噂が」
「俺はいたって健康体の男だよ! あと恋愛感情はちゃんと女性のみだ! 何だそのデタラメな噂はッ⁉︎」
何が悲しくてこんな弁明しないといけないんだ! と、カイラスは頭を掻きむしった。絶対に噂の出所を突き止めてやると心に誓う。なお、この噂を聞いたゼノスは腹筋が攣るほど爆笑したのだとか。
初めの頃は物珍しさとアフロティーナの異様な圧から、周りは遠くから見守るばかりだった。しかし、日常と化してしまった今、それは娯楽と揶揄の対象になる。学園を歩けばもはや当たり前のように「いつ落ちるんだー?」「早く応えてやれよー」と野次を浴び、カイラスは最近常に死んだ目をしていた。アフロティーナがいないところでしかやらないのが、また腹立たしい。
そんなわけで、このような絡まれ方も一度や二度ではなかった。
「リッツバーグ様、どうしてアフロティーナ様の想いに応えて差し上げませんの?」
「あーいや、そのですね」
(何で俺ばかりこんな目に遭うんだ……)
今日も食堂でアフロティーナと半強制的に一緒に食事を摂ったカイラスは、教室に戻るため渡り廊下を歩いていた。すると突然、数人の生徒たちに声をかけられたと思ったら、行く道を完全に塞がれたのだ。
アフロティーナの信者なのだろう。気持ちに応えないことに業を煮やし、信者が直談判に来るのは何度目だろうか。遠い目をするカイラスに、値踏みするように睨む視線が痛いほど突き刺さる。
「あんな情熱的な気持ちを向けられて、何が不満だというんだい?」
「いや、不満というか、」
「世界一美しくて侯爵家の令嬢でもあるあの方に見初めてもらえるなんて、これ以上ない名誉なことじゃない」
「ですから、」
「アフロティーナ様が可哀想だわ」
(全然話を聞かないなこいつら……!)
「あの女が可哀想なわけあるか! 俺が断っても断っても意に介さずまた迫ってくるんだぞ! むしろ俺の方が可哀想だろうが!」と内心叫びたい。しかしそんなことを言えば、集中砲火を受けることは目に見えている。カイラスは大人しくキュッと口を噤んだ。
何も言い返さなくなったカイラスに焦れたのか、声は大きく、そして増えていく。
「何がそんなに頑なにさせるのか、理解できないな」
「あなたのご家族だって、喜んでくれるはずじゃない」
ピクリと、カイラスの指が一度痙攣するが、誰も気づかない。
彼らはさらに一歩近づき、説得しようとした。
「君が折れれば、それで丸く収まるじゃないか」
──だって、この方が丸く収まるだろ?
その言葉が。
「早くアフロティーナ様を選んで差し上げなさいよ」
──お前の選んだ決断が、俺の秩序を傷つけたんだよ!
頭の中で、別の声と重なった。
(──ッ、ぁ……)
胃の奥からせり上がってくるような不快な熱が、カイラスの喉を焼く。かつての自分の声と、浴びせられた拒絶の言葉が、耳の奥で呪いのように木霊した。指先が氷のように冷え、微かに震える。景色も歪み、反論の言葉は、喉に張り付いて出てこない。
ついに、カイラスの意識が白みかけたその時──
「──おやめなさい」
凛とした声が、カイラスの鼓膜を揺らした。
ハッと忘れていた息を吐き、声の出所に顔を向ければ、歪んだ景色の中でもいやにはっきりとした輪郭が映る。
「そのような行為、美しくないわ」
白金色の髪を揺らし、カツカツと音を鳴らして近づいてくるそれは、カイラスを詰める生徒たちにルビーの瞳を向けていた。
「わ、私たちはただ、貴女の憂いを払おうと」
「……そう。わたくしのため、ですのね」
「えぇ! 僕たちは貴女の為に彼を説得しようとしたんです!」
「わたくしの願いは、あなたたちに説得されなければ叶わぬものと。そうお思いなのね」
「えっ……い、いえっ! 決してそんなつもりは、」
「けれど、そうおっしゃっているのと同じではありませんこと?」
「ぁ、」
その指摘に、途端彼らの顔が青ざめていく。カイラスとの間に立った白金色は、ふわりと甘い香りを漂わせた。その香りを感じる度、少しずつ体の感覚が戻ってくる。
「誰かに言われて仕方なく選ばれるなんて。わたくしの秩序が許しませんわ」
彼らに、そしてカイラスに聞かせるように。力強く告げると、一度目を綻ばせる。
「わたくしのために行動してくださったことには、お礼申し上げます。──ですが」
だがそれは一瞬のこと。次の瞬間にはルビーの瞳がギロリと彼らを射抜いた。
「今後の手出しは無用です」
「も、申し訳ございませんでした……っ!」
これ以上ここにいたら、さらなる怒りを買いかねない。瞬時に判断した生徒たちは、バッと頭を下げるとお互いに目配せをして逃げるように去っていった。優雅さの欠片もない動きに、アフロティーナはふんっと少しだけ鼻を鳴らすと、くるりと振り返る。
「カイラス様」
ようやくハッキリと見えたその顔は、ほんの少し眉を下げていた。いつでも自信に満ち溢れている彼女が初めて見せる弱気な表情に、カイラスは思わず目を丸くする。
「お心を煩わせてしまい、申し訳ございません」
「……いや、ヴェルシェ嬢が謝ることじゃ」
「いいえ、全てはわたくしの不徳の致すところですわ」
元凶といえば元凶ではあるが、今回のことはアフロティーナに直接の非はない。それでも、全て受け止めて殊勝に頭を下げるその姿は、上に立つ侯爵家の令嬢そのもの。
「……それでも」
ゆっくりと顔を上げたアフロティーナは、しなやかな指でそっと冷たくなったカイラスの手を取る。そして、自分の温度を分け与えるかのように包み込んだ。
「どうかこれからも、選んでいただけるまで、あなたを想うことを許してくださいませ」
カイラスを見つめるその瞳にはいつもの強烈な色はない。しかし、どこまでも切実に、希うような真摯さを宿していた。
「……なぁ」
「はい」
いつもの強引さなど嘘のように、あまりにも静かで真っ直ぐで。いつもなら振り払っているだろうその手が、あまりにも温かくて。ずっと抱えている答えの出ない疑問が、思わず溢れる。
「……どうして俺に、固執するんだ?」
五年前のお茶会からこの前の舞踏会まで、一度も会うことがなかった。
「もっと相応しい相手がいるはずだ。なのに何でそんなに俺に選ばせたがるのか、理解できない」
あの日傷つけたであろう言葉の謝罪だってしていない。なのにどうして。
「……」
カイラスの問いかけに、アフロティーナは深い沈黙を落とした。言葉を探しているのか、何度目かの瞬きをしたと思ったその時。
「カイラス様」
アフロティーナの瞳がカッと見開かれた。
「ついにわたくしに興味が湧きましたのっ⁉︎」
「──は?」
静かな雰囲気は一気に霧散する。全く見当違いな返しに、カイラスに盛大な青筋が立った。しかしアフロティーナはそんな様子など知らぬとばかりに、カイラスの手をガシッと力強く握りしめる。
「それならそうと早くおっしゃってくださればよかったのに! これからお時間はありますか? 数時間はいただきたいのですけれど」
「まだ授業が残ってるわ! って、そうじゃなくて……!」
先ほどまでの殊勝な令嬢はどこへやら。そこには今まで通り人の話を聞かず、全力でこちらに気持ちをぶつけてくる白金色の厄災の姿があった。
どこでスイッチが入ったんだ⁉︎ といつものペースに呑まれたカイラスを尻目に、アフロティーナは「確かに、授業を休むわけにはいきませんわね」と一人納得したように頷く。そしてパッと手を離し一歩二歩と後ろへ下がると、優雅に礼をした。
「それではカイラス様。名残惜しいのは山々ですが、またすぐ会いに参りますわ」
「来なくていい!」
カイラスの返しにくすくすと楽しげに笑い、踵を返したアフロティーナはその白金色の髪を揺らして去っていく。
その背を見つめながら、いつの間にか戻っていた指の温度に、あの熱が、感触が。少しだけ名残惜しいと思ってしまった自分に、ため息をついた。




