第27話 近衛と側近
「──よぉ、恋愛に現を抜かした腑抜け野郎」
正門から会場へ戻る回廊の影。柱に預けていた背を離し、ゆっくりと通路へ立ち塞がった人物から投げつけられたのは、どこまでもぞんざいで、隠す気もない不機嫌さを孕んだ低音だった。
「……前にも言いましたけど、現を抜かした覚えはありませんよ。ウィラー卿」
カイラスは足を止め、内心小さく溜め息を吐く。
目の前で腕を組んで冷ややかな威圧感を放っているのは、ゼノスの番犬──クロノ・ウィラーだ。いつも以上に眉間に深いシワを寄せ、射殺さんばかりの目つきでカイラスを見据えている。
「殿下がおられる夜会で騒ぎを起こしたくせに、呑気に侯爵令嬢と戯れておいて……どこが現を抜かしてないと?」
「……騒ぎを起こしたのも俺じゃありませんけど」
「渦中にいたのは事実だろうが」
吐き捨てるように言い放つと、クロノは顎をしゃくって「来い」とだけ告げ、一足先に踵を返した。ここで反論しても余計に面倒なことになるだけだと、今までの経験から嫌というほど理解している。カイラスは軽く肩を竦めると、無言でその背中を追った。
導かれた先は、夜会の喧騒から少し離れた貴賓用の別室。クロノがノックもせずに扉を開ければ、室内から穏やかな青年の声に迎えられた。
「お、ちゃんと連れてきたか」
「フィガード卿までいらしていたんですか」
革張りのソファに深く腰掛け、手元の資料に目を通していた男──ケイル・フィガードが顔を上げ、軽く片手を振ってみせた。ケイルはフィガード伯爵家の次男で、ゼノスに長年仕える古参の近衛である。そしてメイドのオルシアの夫でもあり、カイラスとも旧知の仲だ。
「殿下の護衛はよろしいのですか?」
「あぁ。というより、殿下に追い出されたようなものだな」
「え、何でそんなことを」
「今のクロノだとカイラスとまともな話し合いは難しいだろうから間に入れ、とのことだ」
「あー……」
「あ゛?」
的確に状況を見透かしたゼノスの采配に、何とも歯切れの悪い声を出したカイラスを、隣のクロノが今にも人を殺しそうな顔で睨みつけた。ケイルは見慣れた光景に苦笑しながら、二人に向かって手で座るよう促す。
「悪いな。見ての通りご機嫌ななめなんだ。とりあえず座ってくれ、クロノもだ」
「では、失礼します」
「……ちっ」
不貞腐れたような舌打ちを落としながらも、クロノはケイルの隣にドカッと乱暴に腰を下ろした。カイラスも手短に一礼を挟み、ケイルの向かいのソファへと身を沈める。
テーブルを挟んで向かい合った近衛たちに、カイラスは真っ直ぐ見つめて切り出した。
「それで、俺を呼んだ理由を伺っても?」
「一連の件について、直接話を聞きたくてな」
ケイルは資料をテーブルに置くと、少しだけ声音の温度を下げる。クロノの不躾な眼差しも真剣なものに変わり、近衛として職務に入った瞬間だと分かるほど、部屋の空気がピリッと張り詰めた。
「この夜会でヴェルシュ侯爵令嬢に対して起こった事。それに最も近くで居合わせた、お前の目から見た率直な意見が知りたい」
突き刺さる四つの瞳を受け、カイラスは静かに瞼を閉じる。
華やかな夜会の裏で巻き起こった出来事。それを思考の糸を手繰り寄せるように、一つひとつ頭の中で並べ直す。
──悪意ある噂を盾に無遠慮に近寄ってきたセイド・サーシェル。
──果実水とすり替えられていた度数の高いお酒。
──タイミングよくアフロティーナのドレスを汚した謎の事故。
(……やっぱり、こうも重なるのはおかしい)
どれか一つだけなら偶然で済ませられた。しかし同じ相手に一夜に三度も問題が起きるなんて、偶然で片付けていい話ではない。
やがて結論に辿り着いたカイラスは、ゆっくりと瞼を上げ口を開いた。
「──少なくとも、一連の件は二つに分けていいかと思います」
「二つだと?」
ケイルの眉がわずかに動く。クロノも腕を組んだまま黙り込み、続きを促すように顎をしゃくった。
「まず、質の悪い噂話とドレスを汚された件。これらは意図的であれ事故であれ、アフロティーナ嬢個人の評判や尊厳を傷つけるものでした」
「そうだな」
「ですが、果実水と酒のすり替えの件。これは他と比べても明らかに異質です」
「そっちだって、評判を下げる手段になるだろ」
嫌味っぽく鼻で笑うクロノに対し、カイラスは静かに首を横に振った。
確かに、クロノの言葉も一理ある。未成年が酒を飲んだとなれば、個人の評判を傷つけることに繋がるだろう。しかし、その先に待つ影響の大きさを考えると、やはり他とは逸脱しているとしか言えない。
「確かにそうですが、王族や来賓が集う公の場で侯爵令嬢が未成年飲酒の不祥事を起こしたとなれば、本人だけの問題では済みません。……それこそ、ヴェルシェ侯爵家の権威が失墜する可能性があります」
その言葉にケイルは顎へ手を添え、すっと目を細めた。
「……ヴェルシェ家を揺さぶるには十分だな」
「はい。しかも、酒の件は周囲に気づかれないよう巧妙に行われていた。そのことからも、他の二件とは目的が違うと考えられます」
「はっ、陰湿なやり口だな」
腕を組んでいたクロノが、軽蔑するように低い声で吐き捨てる。
「陰湿だが一番効果的だ。ヴェルシェ家のような対外的なことに重きを置く家には、特にな」
「えぇ」
カイラスも小さく頷いた。そして、一件が起きて以降ずっと気に掛かっていたことを確かめるため、ソファに浅く腰掛けるケイルへ視線を向ける。
「ところでフィガード卿、あのお酒を渡してきた給仕人の身元は判明していますか?」
「……いや。クレオス閣下から話を聞いてすぐに探したが、残念ながらそれらしい人物は見つけられなかった」
「そうですか……」
「何か覚えている特徴はあるか?」
「確か若い男性で、細身の体格……それと、右目の下に小さな泣きぼくろがあったはずです」
ケイルは再び資料を手に取り、夜会に従事する者の一覧を載せたページに視線を落とす。しかし一分もしないうちに、苦々しい表情で資料を閉じた。
「ダメだな。今夜の夜会の運営に関わる者の中に、その特徴に該当する人物は登録されていない」
王族がいる場なんて、人の出入りが厳しく管理されるはずなのに。身元不明の給仕人が現れ、跡形もなく消えるなんて。
思っていた以上に悪い状況に、三人は揃って眉を寄せた。
「……くそっ、紛れ込まれたか」
「狙いはアフロティーナ嬢個人か、それともヴェルシェ侯爵家か。……あるいは、ゼノス殿下への揺さぶりの可能性もある。しばらくは警戒するに越したことはないな」
素人とは思えない手回しの早さに、近衛の二人は今後の警備体制を見直す必要性を確認し合う。その重苦しい空気にも動じることなく、カイラスは淡々と次の確認へ移った。
「では、ドレスを汚した令嬢の身元は分かりますか?」
「あぁ、そちらはすでに把握している。名前はヘラー・ハント、準男爵家の令嬢だ」
「彼女は今どこに?」
「教員が別室へ連れて行って話を聞いている。……が、『転んで果実水をこぼしてしまった、アフロティーナ様に申し訳ない』と、その一点張りらしい」
「あと、異常に怯えてるとも言ってたな」
「……フィガート卿。参加者名簿を見せてもらえますか」
「ん? いいぞ」
ケイルから差し出された書類を受け取り、カイラスは素早く名簿の中からヘラーの名前を探し出す。そして、とある項目を見た瞬間、頭の中で一つの仮説が浮かび上がった。
「……やっぱり」
「何か引っかかることでもあったのか?」
「ドレスの件も、単なる事故じゃなさそうですね」
「……なんでそう言える?」
怪訝さを隠さずに眉を顰めるクロノと、カイラスの意図を探るように静かに見据えるケイル。二人の視線を受け止めながら、カイラスは指先で名簿の一点を示す。
そこは、各人物の年齢が記載された項目だ。
「ハント嬢は十六歳、未成年です」
「それがどうした」
「彼女が持っていたグラスの中身は果実水ではありません。──あれは赤ワインでした」
「赤ワインだと? それはたしか……あぁいや、そうだな。お前が言うならそうなんだろう」
一瞬訝しげな声を上げたケイルだが、リッツバーグ家の家業を思い出し、すぐに納得したように小さく息を吐いた。
赤ワイン──葡萄酒の香りは、カイラスが生まれた時からずっと嗅ぎ続けていたもの。それを間違うはずはない。
「……ということは」
ケイルの呟きに、カイラスは静かに頷く。
「えぇ。おそらく」
「……ちっ、そういうことか」
クロノもようやく合点がいったように、顔をしかめた。
未成年でありながら赤ワインを持っていた令嬢。
事実と食い違う証言。
そして、異常なほど怯え切った様子。
そのすべてを結びつければ、一つの仮説に辿り着く。
「何者かに脅され、赤ワインでヴェルシェ嬢のドレスを汚すよう命じられた……ということだな」
「そう考えるのが、一番辻褄が合います。……今思えば、あれも転ばされた可能性がありますね」
仮説は立ったが、そこで終わりではない。
一番の問題は、いったい誰が、その裏で糸を引いているのか。
「カイラスの言う通り二つに分けるなら、噂の件とドレスの件は、同一人物が裏にいる可能性が高いな」
「はい。おそらくアフロティーナ嬢の評判を何としてでも落としたい人物だと思いますが……」
「ならサーシェルのゴミクズ野郎か、ドルトーの雌豚だろ」
「……確かに今のところは有力な候補ではある。…………が、」
ケイルは一つ息を吐いてから、目を吊り上げてクロノを見据えた。
「クロノお前、頼むから今の発言は本人たちの前で絶っ対に言うんじゃないぞ。殿下の前でもだ」
「はっ。そんなヘマするか」
口の悪すぎる後輩に頭を痛めつつも、ケイルは「で、お前はどう思う?」と窺うようにカイラスへ視線を送る。
「……」
問われたカイラスは無言のままそっと目を伏せた。クロノの言う通り、普通に考えれば現時点ではセイドかキュレナが最も怪しい。動機だけを見れば十分すぎるほどだ。
……それでも。
(……なんだ、この違和感は)
否定するほどの確信はないが、どうしてか素直に頷けない。
アフロティーナを手篭めにしようとしたセイドが、わざわざ本人の評判を落とす噂を流すだろうか。
アフロティーナに並々ならぬ対抗心を持つキュレナが、他人を使い影でコソコソ動く行動を取るだろうか。
他に、見落としているものがあるのでは──
考えれば考えるほど、違和感が波紋のように広がっていく。
そんな確証がない中でも、一つだけ確かなことがある。
──アフロティーナを狙う悪意は、まだ終わっていない。




