第26話 夜会に潜む思惑と潜まぬ悪意5
月だけを観客にしたささやかな舞踏会を終えた二人は、余韻を胸に正門へと歩いていた。夜風がゆるやかに通り過ぎ、石畳を淡い光が白く染め上げる。ドレスの汚れも、会場での騒ぎも、今では遠い出来事のように感じられた。
隣を歩くアフロティーナは何も語らず、カイラスもまた口を開かない。それでも、先ほどとは違う。胸を満たす充実感のせいか、この沈黙さえ心地よく感じられた。
やがて正門が見えてきた頃、アフロティーナが口を開く。
「カイラス様、ここまでで結構ですわ」
その言葉に、カイラスは足を止めた。意味を問い返すより早く、アフロティーナは静かに続ける。
「この後は一人で帰りますので」
「いや、侯爵邸まで送っていく」
エスコート役として送り届けるのは当然だ。それに、今回の件は侯爵へ直接謝罪しなければならない。迎えに行った時以上の圧で問い詰められるかもしれないが、それも甘んじて受け入れる覚悟はできていた。だというのに──
「不要ですわ」
しかし、あまりにも即答で拒否されてしまい、カイラスは眉を寄せた。
彼女の声には、一歩も引かない強い意志がはっきりと感じられる。カイラスの考えなど、とっくにお見通しなのだろう。
だが、カイラスも譲るつもりはなかった。責任を放り出して見送るなど、エスコート役としても、自分自身としても到底受け入れられない。
互いに足を止め相手を見据えると、静かな夜道で小さな睨み合いが始まった。
「そんなわけにはいかないだろ。侯爵にも、今回の件は俺からきちんと謝罪しないと」
「なおさら不要です。あれは事故ですもの、カイラス様が謝る理由などございません」
「事故かどうかはともかく、エスコート役として最後まで送り届ける義務がある」
「大丈夫ですわ、無事に屋敷へ帰ることをお約束いたします」
「そういう問題じゃない」
どちらも一切引く気はない。夜の静けさを挟んでの睨み合いは、傍から見ればまるで子どもの口喧嘩のようだった。
そんないつまでも平行線を辿る二人に、少し離れた場所で様子を眺めていた人物が、ため息をひとつ吐いて口を開いた。
「何をやっているんだ、君たちは」
呆れを含んだ威厳ある声に、二人が同時に振り返る。
「ッ、閣下⁉︎」
月明かりの中に立つクレオスは、やれやれと肩を竦めていた。どうやら、しばらく前から二人のやり取りを見ていたらしい。
「なぜこちらに?」
「少々予定ができてな。私もひと足先に失礼するところだ」
カイラスの問いにそう答えたクレオスは、おもむろにアフロティーナへ顔を向けた。
「よければヴェルシェ嬢はこちらで送っていこう」
「いえ、閣下のお手を煩わせるわけにはいきません」
「そうですわ、お気遣いだけで十分です。わたくしは一人で──」
「だから俺が送ると――」
「はぁ……君たちは、一生そのやり取りを続けるつもりか?」
ぴたりと二人の口が止まったその隙を逃さず、クレオスは言葉を継いだ。
「ヴェルシェ嬢はこちらで送る。侯爵とも話したいことがあるのでな、その方が私にとっても都合がいい」
そして、念を押すように続ける。
「……いいな?」
穏やかな声色だったが、そこには拒否を許さない確固たる威厳が宿っていた。アフロティーナは一瞬だけカイラスを見やると、僅かに目を伏せる。
「……承知いたしました」
アフロティーナの返事に頷くと、今度はカイラスへと静かに視線を向けた。
これ以上食い下がるのは得策ではないと判断したカイラスは、恭しく頭を下げた。
「……分かりました。アフロティーナ嬢をよろしくお願いします」
「あぁ、任せておけ」
「それから、ヴェルシェ侯爵には近いうちに謝罪に伺うとお伝えください」
「分かった。責任もって伝えておこう」
ひとまず話がまとまり、その場の空気が少しだけ和らぐ。三人は揃って正門へと向かい、公爵家の馬車に辿り着いた。
馬車へ乗り込もうとしたクレオスは、ふと思い出したように「あぁ、そうだ」と声を上げ、夜会の会場を親指で示す。
「向こうで、番犬が君を待っていたぞ」
「……どちらの番犬ですか?」
「躾のなっておらん方だ」
「あぁ……」
その答えに、自分を「腑抜け」と罵る男の姿が頭に浮かび、カイラスは遠い目をした。
「随分と機嫌が悪そうにしていたからな、あまり待たせると噛みつかれるかもしれんぞ。早く行ってやるといい」
「そうします……」
「ではヴェルシェ嬢、我々も行こうか」
「……はい」
クレオスは満足げに口元を緩めると、馬車に乗り込んだ。
その後に続こうとしたアフロティーナも一歩踏み出す。だが、肩に掛けられたままのカイラスのジャケットへ指先が触れ、名残を惜しむように彼女の足が止まった。
「公爵様、少しだけお時間をいただけますか」
「ん? ……あぁ、構わんよ」
クレオスは急かさず馬車の中で腰を下ろし、二人を見守る。
アフロティーナがゆっくりと振り返ると、月光に照らされたルビーの瞳が、まっすぐにカイラスを映す。
「カイラス様」
その声音は、いつもの強引さや妖艶さとは少し違う。胸の奥から零れ落ちたような、どこまでも優しい響きだった。
「本日は、本当にありがとうございました」
心からの感謝を込めて、胸いっぱいの喜びを滲ませた笑顔で優雅に深く一礼した。
「エスコートしていただいたこの夜は、わたくしの一生の宝物ですわ」
その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。汚れてしまったドレスも、夜会で巻き起こった騒ぎも、彼女にとっては些細なこと。ただ、ただ、カイラスと過ごした時間だけが、何よりも大切な思い出として心に刻まれていた。
カイラスは照れたように顔を逸らし、困ったように笑う。
「……本当に、大袈裟だな」
口ではそう言うものの、その表情はどこか柔らかかった。この夜会のエスコートは、五年前に彼女を傷つけた言葉と、先日ぶつけてしまった理不尽な拒絶への償い。そのつもりで申し出たはずだった。
けれど今となっては、それだけではない。
「喜んでもらえたなら、それでいい」
そう、心から思えてしまうくらいには──彼女の笑顔を見るのが、悪くないと感じ始めていた。
カイラスの言葉にますます笑みを深めたアフロティーナは、肩に掛けられたままのジャケットへ視線を落とす。
「……こちら、お返しいたします」
肩に残る温もりが離れてしまうのを惜しむように、ゆっくりと襟元へ手を掛ける。その手を、カイラスは軽く制した。
「いや、そのままでいい」
「ですが……」
「夜はまだ冷えるしな。そのドレスのままじゃ、風邪をひくだろ」
アフロティーナは一瞬きょとんと目を瞬かせ、それから柔らかく微笑んだ。
「では、お言葉に甘えさせていただきますわ」
「返すのは急がなくていいから」
何気なく口にしたその一言に、アフロティーナは楽しそうに笑う。
「ふふ。そんなことを仰ると、ずっと先になってしまいそうですわ」
その返答にカイラスも思わず苦笑すると、馬車の中からクレオスが苦笑交じりに声を上げた。
「ヴェルシェ嬢、そろそろ参ろう」
「はい、公爵様」
「じゃあ、気をつけてな」
「はい。カイラス様も」
アフロティーナは最後に一礼して馬車へ乗り込むと、御者によって扉が閉じられる。
小窓越しに二人の視線が重なった。ただそれだけで、アフロティーナの笑顔はいっそう輝き、カイラスの口元も自然と緩んだ。
やがて馬車はゆっくりと夜道を進み始める。
「……さてと」
馬車の姿が夜の闇へ溶けていくのを見届けると、カイラスは静かに踵を返した。
「少しは機嫌が直っていればいいんだが……まぁ無理だろうな」
自嘲気味に笑うと、カイラスは夜会の灯りへ向かって歩き出す。待ち受ける罵声を覚悟しながらも、その足取りは不思議と軽かった。




