第25話 夜会に潜む思惑と潜まぬ悪意4
「カイラス様、何かございましたの?」
アフロティーナは小首を傾げ、不思議そうにカイラスの顔を覗き込む。
「いや、大したことじゃない」
カイラスは即座に首を横へ振った。まだ疑惑の段階を出ていないことを安易に伝え、不安を煽る必要はない。しかし、軽視していいことでもないのは確かだ。
まだ夜会が終わるには時間があるが、早めに切り上げた方がいいだろう。クレオスの言った「深追いはするな」とは、そういった意味も含まれているはずだ。
そう考えたカイラスは、アフロティーナからグラスを受け取り、近くのテーブルに二人のグラスを置いた。
そして、改めてアフロティーナに向き直る。
「……今日はあまり長居はしない方がいいかもしれない」
「え?」
「侯爵も、あまり遅くならないようにと言っていただろ?」
「それは……そうですけれど……」
アフロティーナは未練を残すように会場を見渡し、それから少しだけ肩を落とした。
「せっかくカイラス様と夜会をご一緒できましたのに……少し残念ですわね」
「夜会なんて、これからもあるだろ」
「……では、その時はまたわたくしをエスコートしてくださると思ってもよろしいのでしょうか?」
「ゔ……き、機会があればなっ」
「ふふっ、期待しておりますわ」
嬉しそうに微笑みながらも、その表情の奥には、拭いきれない寂しさが滲んでいた。
先ほどからのカイラスの様子から、何か問題があったことくらいアフロティーナも気づいている。遠巻きに帰ろうと言っているのも、理由があることは分かっていた。
でも素直に頷けなかったのは、せっかくこの特別な夜が終わってしまうのが、どうしても名残惜しかったから。
それでも、子供のように駄々を捏ねるつもりはなかった。寂しさを押し込めたアフロティーナが、承諾の言葉を告げようとしたその時、会場に流れる旋律がゆるやかに変わる。軽快なワルツが奏でられ、会場の中央では次々と男女が手を取り合い、優雅に踊り始めた。
目の前に広がる光景に、アフロティーナの胸が高鳴る。
──カイラスと踊りたい。
その想いだけが、胸を満たしていく。アフロティーナは一度だけキュッと手を握りしめると、居住まいを正してカイラスに一つ懇願した。
「──帰る前に一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか」
「お願い?」
「最後に一曲だけ、わたくしと踊っていただけませんか?」
差し出された白く細い手。
先ほどまでの寂しそうな表情とは違う。どこか期待と、彼女にしては珍しい断られるかもという小さな不安を宿した瞳が、真っ直ぐにカイラスを見つめている。
断る理由はなかった。エスコートをしている以上、一曲を踊るのはむしろ当然の役割だ。
それでも、会場中の注目を浴びながら、アフロティーナと手を取り踊る姿を想像した途端、胸の奥が妙に落ち着かない。
(……ただ一曲踊るだけだろ)
気恥ずかしさを誤魔化すように小さく咳払いを一つすると、カイラスは静かに頷いた。
「……分かった。一曲だけな」
「っ、ありがとうございます……!」
ぱっと顔を明るくさせたアフロティーナに、カイラスも苦笑を浮かべながら、その手を取ろうと指先を伸ばした──その瞬間だった。
「きゃあっ!」
突然、鋭い悲鳴が横から響く。
人垣から一人の令嬢が、何かに躓いたかのように大きく体勢を崩して飛び出してきた。カイラスが状況を確認するよりも早く、令嬢の手から離れたグラスが宙へ舞う。
グラスの中の赤い液体が弧を描き──
──ばしゃっ。
濡れた音と共に、その中身はアフロティーナのシャンパンゴールドのドレスへと降り注いだ。
熟した葡萄を彷彿とさせる香りが、周囲に漂う。
「…………ぇ、」
つい先ほどまで月光のように輝いていたドレスは、胸から裾にかけて赤い染みに汚れ、一瞬にして無惨な姿へと変わってしまった。
会場の音楽は鳴り止まない。だが、二人の周囲だけは時間が止まったかのように静まり返っていた。
「ぁ……あっ、もっ、申し訳ございません……!」
転んだ令嬢は顔面蒼白になり、その場でガタガタと震えながら頭を下げる。しかし、アフロティーナは何も返さない。ただ、汚れたドレスを見つめたまま、その場で言葉を失っていた。
その姿に、五年前のお茶会での光景がカイラスの脳裏に鮮明によみがえる。あの時飲み物をかけられたのはカイラスだが、それ以外の状況が同じ──いや、それ以上に悪すぎた。
「大丈夫かっ?」
(くそっ、まずいな)
慌てて駆け寄ってジャケットを脱ぐと、立ち尽くすアフロティーナの肩にかけた。ドレスから強く漂う嗅ぎ慣れた匂いに、胸がざわつく。一瞬嫌な記憶が脳裏を掠めたが、それを振り払うように小さく首を振った。
カイラスは平静を装いながらも、内心冷や汗が止まらない。今のアフロティーナが当時とは違うことくらい分かっている。それでも、五年前と似た状況が目の前で繰り返された以上、警戒してしまうのは仕方がないことだろう。
「…………貴女、」
「ッ、アフロティーナ嬢、今は」
ようやく声を発したアフロティーナだが、それはあのお茶会の時と同じ第一声。
やばい、と咄嗟に宥めようとしたカイラスだったが。
「お怪我はございませんか?」
続いたのは、落ち着いた優しい声だった。
カイラスは言葉を止め、思わず目を見開く。アフロティーナは濡れたドレスなど気にも留めず、その令嬢の前へ歩み寄り膝をついた。
「え……?」
「派手に転ばれたでしょう? 足は痛めていらっしゃいませんか?」
令嬢もまた、信じられないものを見るように、目を瞬かせる。
「わ、わたくしは大丈夫です……。で、ですが、そのドレスが……!」
震える声で指差された自らのドレスへ、アフロティーナはゆっくりと視線を落とした。
そして──
次の瞬間には、息を呑むほど艶やかな笑みを浮かべる。
「この程度の汚れで、わたくしの美しさが損なわれるとでも?」
そう言ったアフロティーナは、濡れた胸元に軽く手を添え、堂々と顔を上げる。
「それこそ、わたくしへの冒涜ですわ」
気高く。けれど決して傲慢ではない。
自らの美しさに絶対的な自信を持つアフロティーナだけが口にできる、揺るぎない一言だった。
「ですから、そのようなお顔をなさらないでくださいませ。ドレスなら、いくらでも替えがございますもの。それよりも、貴女にお怪我がなくて本当に何よりでしたわ」
慈愛に満ちた眼差しを受けた令嬢の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「アフロティーナ様……本当にッ、申し訳、ございません……!」
令嬢は何度も何度も頭を下げ、涙を拭おうともせず肩を震わせていた。その涙を見つめながら、アフロティーナは改めて胸元から裾まで広がった赤い染みへ視線を落とし、少し困ったように小さく肩を竦める。
「……ですが、さすがにこの状態で夜会に参加し続けるのは、美しくない行動ですわね」
「っ! も、申し訳、」
「それ以上謝る必要はありませんわ。もとより、そろそろお暇しようと思っていたところですもの」
さらに震えた令嬢へ優しく告げると、アフロティーナはゆっくりと立ち上がった。そして周囲で見守っていた人々へ、優雅に、美しい淑女の一礼をする。
「皆様、度々お騒がせしてしまい申し訳ございません。わたくしはこれにて失礼いたしますわ」
堂々としたその立ち居振る舞いは、汚れたドレスさえ自らの気品の一部へ変えてしまったかのようだった。
誰一人として嘲笑う者はいない。静まり返った会場の中で、一人、また一人と自然に拍手が起こる。その拍手は瞬く間に広がり、夜会の会場は惜しみない称賛に包まれた。
アフロティーナは最後まで美しい微笑みを崩さぬまま、くるりと踵を返し、堂々と歩き出す。
会場の出入り口に向かう途中、ちらりとカイラスへ目配せを送った。それを受けたカイラスも、アフロティーナの後に続き出入り口へと向かう。
去り際、カイラスは視線だけをそっと後ろへ向けた。いまだ青ざめ、小刻みに震える令嬢を一瞥すると、何も言わず前を向く。
そうして二人は、惜しみない拍手に見送られながら、静かに会場を後にしたのだった。
月光が降り注ぐ中庭を、二人は互いに口を開くことなく歩いていた。先ほどまでの喧騒はすでに遠く、会場から漏れ聞こえる音楽だけが静かな夜に微かに響く。
会場を後にしてからも、カイラスの胸には重く沈んだ後悔が残っていた。
もっと周囲を警戒していれば、防げたかもしれない。酒には気づけたのに、その後まで警戒しきれなかった。その結果が、アフロティーナのドレスを汚されたという最悪の結末だ。
ゼノスにお膳立てされ、警告もされていたのにこのザマだ。情けないにも程がある。だが、立ち止まって悔やんでいる暇はない。
先を歩くアフロティーナへ向かって、カイラスは足を速めた。
「アフロティーナ嬢!」
名を呼ばれたアフロティーナが、足を止めて振り返った。
青白い月光を浴びたその姿は、ドレスの汚れなど関係ないとばかりに、神秘的で美しい。カイラスはその美しい姿に目を奪われながらも、一度唇を噛み締め、深く頭を下げた。
「……すまなかった。最後の最後に気を抜いて、こんな目に遭わせてしまって」
「カイラス様のせいではございませんわ」
「いや、俺がもっとしっかりしていれば……」
悔しげなカイラスの姿に、アフロティーナはくすりと笑うと、静かに首を横へ振る。
「いいえ、十分ですわ」
その笑みは微塵も曇っていなかった。
「噂をきっぱりと否定してくださり、わたくしに着飾らせてくれて、エスコートもしていただいて。何より、また名前を呼んでくださった。わたくしは今、この国で……いいえ、世界で一番の幸せ者ですわ」
「世界一って……そんなわけ、」
世界一なんてあまりに大袈裟な言葉なのに、真っ直ぐな眼差しがあまりにも澄んでいて、冗談として受け流すこともできなかった。何か伝えようと口を開くも、どんな言葉も今の彼女には釣り合わない気がして、結局返す言葉すら出てこない。
そんなカイラスの様子を見て、アフロティーナは少しだけ寂しそうに月を仰いだ。
「……最後にダンスを踊れなかったことだけが、少しだけ残念ですけれど」
月光に縁取られた横顔に、カイラスの胸の奥が小さく痛む。
──こんな顔をさせたまま、帰していいはずがない。
夜風に乗って届くワルツの旋律が、まだ終わっていないことを告げていた。
(……まだ、間に合うか)
「別に、ダンスなら会場内じゃなくてもいいだろ」
「……え?」
きょとんと目を瞬かせるアフロティーナへ、一歩だけ距離を詰め、今度は自分から手を差し出した。
「アフロティーナ嬢。最後に一曲、私と踊っていただけますか」
差し出されたその手を見つめたルビーの瞳が、大きく揺れる。驚きから、抑えきれない喜びに変わっていく。肩にかけられたジャケットをキュッと握った次の瞬間には、月の女神すら嫉妬するほどの美しい笑顔を添えて、そっと手を重ねた。
「──はい、喜んで」
重ねられた白い手を、カイラスは優しく握る。ゆっくりと一歩踏み出すと、二人の足取りは遠くから聞こえるワルツの演奏へ自然と重なっていく。
夜会の喧騒から離れた静かな中庭で、二人だけの小さな舞踏会。
夜空に浮かぶ月だけが、ただ静かに見守っていた。




