第24話 夜会に潜む思惑と潜まぬ悪意3
そんな不毛な攻防をする二人へ、静かな拍手が送られる。
「──これはこれは、実に鮮やかだった」
ぱち、ぱち、とゆったりとした拍手とともに、一人の壮年の男性が人垣を割って歩み寄った。
端正に整えられた白髪混じりの髪。歳を重ねてもなお衰えぬ威厳と、見る者を安心させる柔和な表情を浮かべたその人物を目にした瞬間、空気が再び引き締まる。
「ッ、イグリード公爵閣下。お久しぶりです」
カイラスが背筋を正して一礼すると、男──イグリード公爵家当主、クレオス・イグリードは穏やかに頷いた。
「あぁ。久しいな、カイラス。留学に発つ前に会って以来だから……もう四年になるのか。こうして見違えるほど立派になった姿を見ると、いやはや、時が経つのは本当に早いものだな」
「はは……閣下はお変わりないご様子で何よりです」
まるで孫の成長でも見たように目を細めるクレオスは、セイドが去っていった方へゆっくりと視線を向けた。
「それにしても、先ほどの立ち回りは見事だった。感情に流されず、相手の逃げ道を残しながら追い詰め、最後は自ら退かせるとは。殿下の側近に相応しい、良い手際だったぞ」
「……自分には、もったいないお言葉です」
「またそれだ」
クレオスは苦笑混じりに肩を竦める。
「自分を必要以上に低く見るのは、君の悪い癖だな」
「それは……はい。申し訳ございません」
「謙虚なのは結構。しかし必要以上の謙遜は、自分だけではなく君を評価した者まで見る目がないと言っているのも同じだ。そう、前にも言ったであろう」
ゼノスの後ろ盾であるクレオスとは、カイラスが側近候補として見出された頃から面識がある。
十歳の頃、ゼノスが「将来の側近候補です」と半ば強引に紹介して以来、宮廷や夜会で顔を合わせるたびに声を掛けられ、時には今回のような助言を受けることも少なくなかった。
「……はい、肝に命じます」
「うむ、それでいい」
カイラスの返事にクレオスは満足した様子で首を縦に振ると、隣で静かに佇むアフロティーナへと顔を向けた。
「ヴェルシェ侯爵令嬢も久しいな。相変わらず……いや、今宵はいつにも増して恐ろしいほど美しい」
「ご無沙汰しております、イグリード公爵様。そのようなお言葉を賜り、光栄にございます」
優雅に一礼するアフロティーナに、カイラスと交互に見比べたクレオスは眩しそうに目元に皺を増やす。
「なるほどなるほど。こうして二人が並ぶ姿を見ると、会場中の視線を集めるのも納得だ。今宵の夜会の主役は、君たちのようだな」
「ふふっ、何よりの褒め言葉でございますわ」
「閣下、揶揄うのはやめてください……」
「いやいや、心からの本心だ。それに親しい仲なのだろう?」
「違います」
「違いませんわ」
「はっはっは! そうかそうか、随分と振り回されているようだな」
二人の真逆の反応にクレオスが声をあげて笑うと、なんだなんだと周囲の目がさらに集まった。どこにも逃げ場がなく死んだ目になるカイラスとは対照的に、アフロティーナはどこか誇らしげに口元を緩める。
和やかな空気が広がる中、クレオスは一度手を叩き空気を変えた。
「さてさて。せっかく久しぶりに顔を合わせたのだ。乾杯でもしようではないか」
軽く手を上げると、近寄ってきた若い給仕人へ声をかけた。
「君。私と彼にはシャンパンを。あと、こちらのレディに果実水を頼むよ」
「申し訳ありません、私も果実水でお願いいたします」
「かしこまりました」
カイラスが口を挟み希望を伝えると、給仕人は飲み物を取りに下がる。その姿を見送った後、クレオスは意外そうに眉を上げた。
「何だ。十九になったのだから酒は飲めるだろう?」
「えぇ。ただ、今夜はあまり羽目を外さない方がいいかと思いまして」
アルトバス王国では、十八歳から飲酒が認められている。実際カイラスも留学中も帰国してからも、何度もお酒を嗜んでいるし、弱くもない。しかし、今日はどうしても飲む気にはなれなかった。
その理由の一つとして、カイラスはちらりと貴賓席へ目をやる。それだけで意味を察したクレオスは、小さく相槌を打った。
「なるほど。あれを気にしてか」
「出る幕はないと思いますが、念のため」
「いやいや、側近候補としての自覚があるようで何よりだ。だが、今度我が家で開く宴に招待するからな。その時は」
「その時は覚悟して伺います」
「はっはっは、それならよい」
ほどなくして給仕人が銀盆を携え戻ると、最初にクレオスへシャンパン、続いてカイラスへ果実水を手渡す。そして最後にアフロティーナへ、同じく果実水が差し出された。
──その瞬間。
ふわり、と。
アフロティーナにグラスが渡された時、淡い琥珀色の液体が動いた拍子にごく微かな、嗅ぎ慣れた香りが鼻先を掠めた。
(……樽香?)
果実水にはない、熟成酒が持つほのかな木樽の香り。あまりにも微かで、酒に慣れている者であってもすぐには気付けないだろう。
だが、葡萄酒を主産業とするリッツバーグ家で育ったカイラスには、十分すぎる違和感だった。
(風味付けでもしてるだけか? ……でも、俺のグラスからはそんな匂いはしないな)
軽くグラスを揺らして確かめるも、カイラスのグラスからは果実特有の爽やかな香りしかしない。
視線だけをわずかに動かし、去っていく給仕人をそれとなく目で追う。グラスを渡した時の表情、動作、そして去っていく姿にも、特段不自然な点は見当たらなかった。
自分の思い過ごしかもしれない。しかし、もし本当に酒だったとしたら。
(……アフロティーナ嬢は酒を飲めない)
アフロティーナはまだ十七歳。酒を飲むのはこの国の法で禁止されている。たとえ給仕人の手違いでも、責任を問われるのは彼女だ。
だからといって確証がない今、騒ぎ立てるわけにはいかない。ならば──
(誰にもバレないように、確かめるしかないな)
カイラスは何事もなかったように視線を戻すと、ふと思い出したようにアフロティーナへ声をかけた。
「少しいいか」
「どうされました?」
不思議そうに首を傾げるアフロティーナへ、カイラスは綺麗にまとめられた頭へ目を向ける。
「後ろの髪飾り、少しずれてた」
「えっ」
慌てて髪飾りに触れようとしたのを、カイラスは「待て」と軽く制した。
「多分、さっき俺が手を引いた時にずれたんだと思う。悪い。すぐ直すから、このグラスを少し持っててくれ」
そう言うと、自分のグラスを差し出す。
「分かりました。お願いいたしますわ」
アフロティーナは何の疑いもなく、空いている左手でグラスを受け取った。それを確認すると、すっと後ろに回り髪飾りに軽く触れる。実際は直す必要などないが、違和感がない程度に少しだけ髪飾りの位置を整えた。
「……これで大丈夫だ」
「ありがとうございます」
髪飾りから手を離すと、カイラスは礼を言うアフロティーナが右手に持つグラスをさりげなく受け取る。クレオスは二人の様子を見届けると、軽くグラスを掲げた。
「それでは、若人のこれからの活躍を願い──乾杯」
『乾杯』
乾杯の音頭に合わせ、それぞれがグラスへ口をつける。
クレオスは喉を潤す程度にシャンパンを飲み、アフロティーナも何の疑いもなく果実水を一口飲んだ。カイラスはそれを横目で見ながら、飲むふりをしてグラスの中身を舌先につけた。
すると、果実水の甘味ではなく、水で薄められた熟成酒の味わいが口の中に広がる。
(やっぱりか)
間違いなく、グラスの中身は酒だった。それも、薄められているが度数はそれなりに高いもの。
カイラスは顔色一つ変えることなく、味を確かめる程度に口へ含み、そのまま自然な所作で飲み下した。
「ん……爽やかな甘みで、とても美味しいですわ」
すり替えられた本物の果実水を飲んで頬を緩めるアフロティーナに、クレオスは「それは良かった」と返すと不意にカイラスへ声をかけた。
「カイラス。君の果実水はどうだ?」
その声色は先ほどまでと変わらないが、カイラスはクレオスが何を確かめようとしているのかを悟る。長年陰謀渦巻く社交界を生き抜いてきた公爵の目は、先ほどの一連の動きを決して見逃してはいなかったのだ。
「そうですね。少々熟成されている気もしますが、悪くありません」
「……ほう」
カイラスが暗に異常を伝えると、クレオスはゆっくりグラスを回しながらわずかに目を細める。柔和だった好々爺の顔が、一瞬にして冷酷な貴族のそれへと切り替わった瞬間だった。
「どちらと考える?」
「断定はできませんが、軽視していいものではないかと」
「ふむ……そうか」
クレオスは口元へ指を添え、しばし考え込む。そしておもむろに時計を確認すると、少し眉を下げて申し訳なさそうな声を上げた。
「すまない、そろそろ来賓方の相手をせねばいけない時間のようだ」
「そうでしたか。こちらのことはお気になさらず」
「あぁ。では、これで失礼させてもらうよ」
クレオスは一度だけカイラスを見やる。その眼差しには「この件は任せておけ」と、雄弁に語る静かな力強さが宿っていた。
「また近いうちに会おう。……君は、あまり深追いをするなよ」
「かしこまりました」
短く頷くと、クレオスは再び柔和な表情を浮かべ、貴賓席の方へと歩き去っていく。その背中を見送ったカイラスは、手の中のグラスを見下ろしたまま、灰色の瞳にわずかな警戒を宿した。




