第23話 夜会に潜む思惑と潜まぬ悪意2
「──アフロティーナ嬢」
思考を遮るように割り込んできたのは、どこか耳障りな粘つきを帯びた声。出所に顔を向けると、一人の令息が真っ直ぐアフロティーナへ歩み寄ってきた。
「サーシェル様。ごきげんよう」
「そんな他人行儀ではなく、どうかセイドと」
人当たりのいい笑顔を浮かべて二人の前に立ったのは、純白の燕尾服を隙なく着こなした青年──サーシェル侯爵家嫡男のセイド・サーシェル。一見爽やかそうな好青年ではあるが、その視線はアフロティーナだけに絡みつくように注がれている。
そしてセイドはおもむろにアフロティーナの手を取ると、その滑らかな甲に口付けを落とした。カイラスの存在など、最初からいないと言わんばかりの行動だ。
(……俺は無視か。あからさま過ぎるだろ)
隣にいるカイラスなど気にする価値もないかのような露骨な態度に、思わず顔を顰めたのは仕方のないことだろう。
「今宵のアフロティーナ嬢は、いつも以上に美しいですね」
「ありがとうございます」
あからさまな熱を含んだ視線を受けても、アフロティーナはいつものように賞賛を受け入れ、完璧な微笑みを崩さない。だが、セイドはそれで許されたと勘違いしたのか、さらに距離を詰めて顔を近づける。
「そういえば……耳にしましたよ、あの噂を」
「……何のお話でしょう」
わずかに声音の温度を下げたアフロティーナに対し、セイドは下卑た光を瞳に宿らせて声を潜めた。
「とぼけなくてもいいじゃないですか。多くの男性と親しい仲だと聞きましたよ」
「……」
「なら、私にも十分望みがあると思いましてね」
その目は無遠慮にアフロティーナの身体をなぞり、豊かな胸元で留まると、小さく喉を鳴らす。
「よければ今夜、我が家の屋敷へ来ませんか?」
「……いけませんわ、サーシェル様。貴方様には婚約者がいらっしゃるではありませんか」
「平気ですよ。バレたところで、あいつは我々に文句なんて言えませんから」
「そういう話ではございません」
「でも他の男も相手にしているのでしょう? なら私にも一晩の夢くらいくれても」
「そこまでにしていただけますか、サーシェル卿」
静かな、それでいて有無を言わせぬ声に、周囲の空気がピリッと張り詰めた。
カイラスはアフロティーナの手を引き、エスコートの形のまま流れるような所作で自身の背後へと滑り込ませる。同時に一歩前に踏み出し、セイドの視界を完全に遮るように立ちはだかった。
「……なんだ。誰かと思えば、リッツバーグ卿じゃないか。随分とめかし込んだんだな」
「おかげさまで」
アフロティーナと話していた時の上辺だけの紳士面も消え去り、横柄な態度で見下すセイド。それに対し、カイラスはあくまでも穏やかに返しながら窘めた。
「嫌がる女性を無理やり誘うのは、紳士として如何かと思いますよ」
「君には関係のない話だろう」
「いいえ。今宵は私が彼女のエスコートを任されておりますので、関係なくはありません」
「ほぉ。リッツバーグ卿がアフロティーナ嬢を庇うとはな。君はそういうことには無縁だと思っていたんだが」
「……」
嘲るようなセイドの言葉に、カイラスの眉がピクリと動く。灰色の瞳が真意を見据えるように冷たく光った。
「──近頃、質の悪い噂がとても多いんですよね」
そう前置きしたカイラスは、セイドの反応を待たずに言葉を続ける。
「斯く言う私も、少し前に不本意な噂を流されまして。サーシェル卿はご存知ですか?」
「……さあ。耳にした覚えはないな」
一瞬だけ、首元のタイへ伸びた指先。その仕草を、カイラスは見逃さない。
「そうでしたか」
「というよりも、いきなり何だ。君の噂話になんて興味ないんだが?」
「いえね、自分は放っておこうと思っていたのですが……ありがたいことに、それを知ったゼノス殿下が大層ご立腹なさいまして」
ゼノスの名が出た瞬間、セイドの目が泳ぎ、再び首元のタイへ指先が伸びた。
「噂の出所くらい調べてやるぞ、と仰ってくださったんです」
「……噂程度で、そこまで騒ぎ立てることでもないだろう。それに、火のないところに煙は立たぬとも言うしな」
「ですが、誰かが勝手につけた火で煙を立てられては、たまったものではありません。なので、殿下のお言葉に甘えて、徹底的に調べていただこうかと思っているんです」
「はっ、大袈裟なことだな。多少男として不名誉な噂を流されたくらいで殿下の手を煩わせるなんて、どうかしているんじゃないか」
必要以上に言葉を重ね、目を逸らし、何度も首元のタイへ指先を伸ばす。その仕草は、実に分かりやすい。
何より──セイド自らが発した失言。ゼノスの名を出し、「殿下が立腹している」と作り話を口にしたのは半ば賭けだった。だが想像以上の反応を示したことに、カイラスは内心ほくそ笑む。
まさかこんな場面で、あの伝言を使うことになるとは。流石のゼノスでも想像していなかっただろう。
「──サーシェル卿。先ほど私の噂は耳にした覚えはないと仰いましたが」
カイラスはあえて柔らかな表情を作り、小さく首を傾けた。
「それなのに、『男として不名誉な噂』だとご存知なのですね」
「──ッ」
セイドの口がわずかに開くも、言い訳の言葉は一つとして出てこず、額にじわりと汗が滲む。
それだけで、カイラスの中では答え合わせとして十分だった。
「まぁ、この話はいずれ明らかにしますので、今はこれ以上申し上げません」
「……」
「少し話が逸れましたが、彼女の噂も私と同じく、誰かが勝手につけた火から生まれたものなのは明白かと。それとも……サーシェル卿には、アフロティーナ嬢がそんな醜聞を重ねる女性に見えるとでも?」
「……いや、何もそこまでは言ってないが」
「でしたら、噂を鵜呑みにして迂闊な行動をするのはお止めになったほうがよいかと思いますよ。ご自身の信用を損ねますから」
セイドの喉が、上から下に大きく動く。先ほどまでの横柄な態度は鳴りを潜め、頬が微かに引きつっていた。
「……随分と偉そうな口を利くじゃないか」
「偉そうだなんてそんな……これはあくまで忠告です」
「忠告だと?」
「えぇ」
穏やかな口調はそのままに、灰色の瞳が、ただ真っ直ぐに相手を射抜く
「今ここで身を引けば、ただ誘いを断られただけで済みます」
淡々と言葉を重ねる様には、しがない子爵家の次男の姿はない。その立ち姿には、次期国王の側近として選ばれた男の風格が自然と滲んでいた。
「ですがこれ以上騒ぎが大きくなれば、他国の王族もいる夜会で一人の令嬢に執拗に迫り、事実無根な噂を根拠に侮辱したという事実だけが残ります。それは貴方だけでなく、サーシェル侯爵家の名にも泥を塗ることになると思いませんか」
二人のやり取りを見ていた令息や令嬢たちも、息を潜めて成り行きを見守っている。
「それでも構わないのであれば、止めはしませんが。どうなさいますか?」
「……っ」
セイドは悔しげに唇を噛み締めた。この状況では強く出れば出るほど、自分が不利になる。そのことを理解しているからこそ、セイドは何も言い返すことができなかった。
「……覚えていろよ」
ようやく絞り出した言葉は、先ほどまでの勢いとは程遠い。
踵を返し、人混みを乱暴に掻き分けながら立ち去っていく。その背中が見えなくなると、カイラスは小さく息を吐いた。
「お見苦しいものをお見せしてしまい、大変失礼いたしました」
周囲へ向けて軽く頭を下げると、固唾を呑んで見守っていた者たちから、小さな安堵の息が漏れる。カイラスはようやく肩の力を抜いたその時、背後からくすくすと鈴を転がすような声が聞こえ、気まずげに振り返った。
「……なんで笑ってるんだ」
「申し訳ございません、嬉しくてつい」
先ほどまでの出来事など無かったかのように、アフロティーナは喜色に満ちた顔でカイラスを見つめている。
「何がそんなに嬉しいんだか」
「だってわたくしに対してのあの噂話、ご存知の上できっぱりと否定してくださったのでしょう?」
「まぁ、そうだな」
「つまり、わたくしが他の殿方に目移りすることはないと、微塵も疑っていないということではありませんか」
「ちがッ──」
あまりにも都合のいい見解に、「違う」と否定しかけたものの、その言葉は喉の奥で止まった。
言われてみれば、初めて耳にした時から噂を一度も信じていなかったことに、カイラスは今更ながらに気がつく。
教室で聞いた時は、疑うという発想すら浮かばず即座に切り捨てた。図書室で聞いた時は、一度肯定されて酷く困惑し、違うと分かって安堵までしたのだ。
反論のしようがないその事実を本人から突きつけられ、完全に言葉を詰まらせるカイラスに、アフロティーナはますます嬉しそうに目を細めた。
「ふふっ。照れていらっしゃいますのね」
「……それは違う」
「違いませんわ」
「だから違うって」
即座に否定しても、返ってくるのは自信満々の明るい表情だけ。何を言っても都合よく解釈されてしまい、カイラスは小さく肩を落とし諦めたようにひとつ息を吐く。その様子を見ていた周囲からは、仲睦まじいやり取りと受け取られたのか、穏やかな笑いが静かに広がっていった。
そんな空気など気にも留めず、アフロティーナは思い出したように口を開く。
「そういえば、カイラス様の噂とはどのような内容でしたの?」
「……知らなくていい」
「え?」
「むしろ知るな、頼むから」
不能だの男色だの──あの不名誉極まりない噂だけは、知られたくない。そう願うカイラスとは対照的に、アフロティーナは純粋な好奇心を宿した瞳で見つめている。
「そう隠されてしまうと、余計気になりますわ」
「……本っ当に知らなくていい」
その無垢な瞳から逃れるように顔を背けたカイラスは、半ば懇願するように呟くことしかできなかった。




