第21話 夜空と月光2
(き、気まずい……気まず過ぎる……!)
通された応接室にすでに侯爵──グラド・ヴェルシェがいたのを見た時、悲鳴を上げかけたのは仕方ないことだろう。親子共々心臓に悪いことばかりするのは、本当に勘弁してほしい。
しかもグラドは挨拶に短く応じただけで、それ以降は口を開くことはなく無言のまま。ただ静かに紅茶を口にする姿に、カイラスはますます居心地の悪さを覚えた。
(頼むから早く来てくれ……!)
こんなにも、あの白金色が待ち遠しく思ったことはない。
グラドとは王家主催のパーティーで見かけたくらいで、話したことなど一度もなかった。相手からすると、存在すらも知らなかったに違いない。そんな人物に、第二王子と婚約破棄になった娘が熱を上げているなんて、複雑な心境だろう。
今日がほぼ初対面なのに、自分への心証が良いはずがないことは容易に想像できた。
カチッカチッと、時計が秒針を刻む音だけが応接室を支配する。
そのまま、秒針が五周ほど回った頃。
「──君は」
「はいッ」
突然話しかけられ、カイラスは思わず声を裏返らせながらも背筋を伸ばした。アフロティーナよりも深い色をした真紅の瞳が、値踏みするように全身を巡る。
「ゼノス第一王子と、懇意の仲だそうだな」
「は、はい。恐れながら、目をかけていただいております」
「留学していたと聞いたが、どこへ行っていた」
「隣国の、グランデル共和国へ四年間赴いておりました」
「将来はどう考えている」
「国と子爵領のために尽力できる職に就けたらと、考えております」
世間話にしてはグラドから発せられる圧が強い。それに雑談というよりも、娘の相手に相応しい男かを見定めようとしている質問ばかりで、カイラスにとっては面接という名の尋問に近かった。
「……それで、うちの娘とはどういう関係だ」
「──ッ」
そしてついに、カイラスにとって最も聞かれたくないことを問われた時──
「カイラス様、お待たせいたしました」
鈴を転がすようなその声に、こんなにも救われたと思ったことは、後にも先にもない。
「いやっ、待っては──」
カイラスは会話を切るように立ち上がり、扉に目を向けアフロティーナの姿を視界に映した瞬間、言葉を失った。
いや、失ったのではない。その美しさを表すのに、どんな言葉も相応しくなかったのだ。
アフロティーナが選ぶドレスなら、瞳の色と合わせた情熱的な赤系統のドレスだろうと勝手に思い込んでいた。しかし彼女が身に纏っていたのは、淡くも気品ある輝きを放つ、シャンパンゴールドのドレスだった。オフショルダーから覗く白い肩、身体に沿うように仕立てられたマーメイドラインは、普段は制服の下に隠された女性らしい曲線を惜しげもなく浮かび上がらせている。
まるで月光を纏ったようなその姿は、月から舞い降りた女神と見紛うほど美しい。
その姿を前にしたカイラスの胸に浮かんだのは──
(……あぁ、綺麗だ)
そんなありきたりな言葉しか浮かばない自分が、少しだけ悔しかった。
「あぁ……やはりわたくしの目に狂いはございませんでした」
見惚れることしかできないカイラスを、アフロティーナもまた恍惚した表情で見つめていた。
「星が煌めく夜空を纏うカイラス様は、いつも以上に気高く高潔な風格を醸し出していて、まるで夜を司る王子様のよう。思わず見惚れてしまうほど魅力的で……本当に素敵ですわ」
しばらくうっとりとカイラスを見つめていたが、やがて満足したように頷く。そして今度は、期待を隠しきれない笑みを浮かべた。
「わたくしのドレス姿はいかがですか?」
見せつけるように、アフロティーナはゆっくりとその場で回る。シャンパンゴールドの生地が室内の明かりを反射し、彼女が動くたびに繊細な輝きを揺らした。
「わたくしが最上級に美しく見えるドレスを、厳選しましたの。……カイラス様、わたくし、いつもよりも美しく見えますでしょうか」
「……っ、それ、は」
アフロティーナは胸元に手を添え、小首を傾げる。言葉とは裏腹に、その表情はすでに答えを知っていると言わんばかりに自信満々。手の平で踊らされているようで癪ではあるが、美しすぎるその姿は、いつものように否定することすら憚れる。
熱い視線を向けたまま硬直しているカイラスを見て、アフロティーナは満足げに喉を鳴らした。
「ふふ。美しすぎて言葉も出ませんのね」
「くっ……」
「……ねぇ、カイラス様。もっと近くで、わたくしを見てください」
カツンッとヒールを鳴らして近づいたアフロティーナから、白百合やジャスミンを思わせる上品な花の香りが漂う。上品でありながら不思議と心を惹きつけるその香りに、カイラスの呼吸がわずかに乱れた。
そして、白い指が、熱を帯びた頬に触れようとした時。
「──ゴホンッ」
甘い雰囲気を消し去るように、低い咳払いが部屋に響いた。
我に返ったカイラスが飛び退くように一歩距離を取る中、アフロティーナはようやくその存在に気付いたように振り返る。
「あらお父様、こちらにいらっしゃったのね」
「……最初からいたが」
「カイラス様が素敵すぎてわたくしの目が奪われるあまり、見えておりませんでしたわ」
「……」
「それよりも、わたくしよりも先にこんなに素敵なカイラス様のお姿を見るなんて、ずるいですわ」
僅かに頬を膨らませる娘に、グラドは眉間に深い皺を作りながらどこか哀愁の混じったため息を吐き出した。
この父親も娘の暴走に巻き込まれる側なのか。先ほどまでの緊張は薄れ、カイラスはほんの少しだけ親近感を覚えた。
グラドは二人を交互に見やると、ゆっくりと立ち上がり扉まで無言のまま足を進める。そして部屋を出る直前、顔だけカイラスに向けると、深い真紅の瞳が静かに見据えた。
「……あまり遅くならないうちに、帰るように」
「かしこまりました、大切にお預かりいたします」
「それではお父様、行ってまいります」
カイラスは背筋を正し、誠実さを込めて深く一礼する。隣でアフロティーナが楽しげに笑うのを見ると、グラドは少しだけ目元を綻ばせ、それ以上何も言わず応接室を後にしたのだった。
二人はそのままグラドに続くように応接室を出ると、夜会会場へと向かうため待機していた馬車に乗り込んだ。車輪が静かに動き出し、ガタゴトと心地よい振動が伝わる。
密室空間で二人きり。対面に座るアフロティーナからの熱い眼差しが否応なく突き刺さり、カイラスは気恥ずかしさから窓の外へと視線を向けた。行きと同じくぼんやりと景色を眺めながら、気になったことを口にする。
「……ヴェルシェ侯爵、何も言わないんだな」
「何をです?」
「いや……子爵家の次男が自分の娘をエスコートするなんて、気分が良いものじゃないだろう」
名門貴族としての体裁や格式を重んじるグラドならば、苦言の一つや二つ言ってもおかしくないはずなのに。そんなカイラスの疑念に、アフロティーナは「あぁ、」と事も無げな反応をした。
「そちらは問題ございませんわ。お父様とはとうの昔に約束したことですもの」
「約束?」
「はい。ですので、カイラス様がお気になさる必要は何一つございませんわ」
「ご安心くださいませ」と、それ以上は語る事なく締めたアフロティーナに疑念は消えない。しかし、こうなっては何を聞いても無駄なことは、不本意ながらも今までの経験で嫌というほど思い知っている。
カイラスは「そうか」と短く返し、変わらず窓の外を眺めていると、不意に対面の座席から衣擦れの音が聞こえた。横目で確認すると、アフロティーナが身を乗り出しているのが分かり、心臓が大きく跳ねる。
「カイラス様、こちらを向いてください」
「……何で」
「カイラス様に見てもらうために、選んだ衣装ですのよ?」
少し拗ねたような、いつもより幼げな声が馬車に響いた。アフロティーナの香りと自身の香りが溶け合うと、上品かつ甘い香りが鼻腔を撫で、静かに理性を揺さぶってくる。
「……応接室で見ただろ」
「あれでは足りませんわ。──目を逸らさないで、わたくしだけをずっと見ていてくださいな」
こんなにも強い独占欲を含んだ甘いおねだりに、抗える人間などいるのだろうか。はぁ……と諦めの溜め息を吐いたカイラスは、覚悟を決めて前を向いた。
真っ直ぐに見つめ返した途端、アフロティーナの笑みがいっそう華やいだ。たったそれだけでこんなにも満足そうにされると、何だか気恥ずかしく思っていた自分が馬鹿らしくなってくる。
──結局自分は、『選ばせる』と告げられたあの日から、彼女から逃げられたためしがないのだ。
「カイラス様、アフロティーナ様。会場に到着いたしました」
御者の声と共に、二人きりの時間は終わりを告げる。馬車が静かに停止し、ゆっくり扉が開かれると、カイラスは先に馬車を降りた。外の空気を思い切り吸い込み、少し乱れた呼吸を整える。
今宵の夜会にどんな思惑が隠れていようと、今優先すべきことは一つ。
(エスコート……やるなら完璧に。そして、美しく──)
カイラスは馬車で待つアフロティーナに振り返ると、迷いなく右手を差し出した。
「──お手をどうぞ、レディ」
「──はいっ」
一瞬だけ目を見開いたアフロティーナは、次の瞬間には花が咲くような笑顔で白い手をそっと重ねる。
夜空を纏う令息と、月光を纏う令嬢。
夜空と月光は寄り添うように並び、眩しい光に満ちた夜会の会場へと足を踏み入れたのだった。




