第17話 不快な会話と悪意ある噂2
「なっ⁉︎」
あまりに酷い内容に、エリシスは思わず立ち上がった。その声は静かな図書室に否応なく響き渡り、何事かと他の生徒たちからの視線も集まる。
あからさまな悪意に晒された当人はというと、「……男狂い」と小さく呟き視線を落とした。
「私も噂を聞いた時は驚きましたわ。でも、アロン様との婚約が破談になった途端、別の男性に言い寄られてましたから……ねぇ」
「えぇ。それも、狡賢い第一王子になぜか気に入られている噂の、冴えない子爵家の次男なんて。驚きましたわ」
「身分も見境ないなんて……多くの男性を誘惑する男狂いだと思われても仕方ないかもしれないですね」
「本当に。私たちには到底真似できませんわ」
「……」
キュレナに続き、周りの取り巻きの令嬢たちも代わる代わる口を開く。普段逆らえない侯爵令嬢を見下ろしていることに悦に入る者。中には、以前から抱いていた嫌悪を隠そうともせず睨みつける者もいた。
普通の令嬢であれば恐怖で涙を流してもおかしくない状況だが、アフロティーナは黙り込むだけで何の反応も見せない。しかし、自分の侮辱には微動だにしない頬が、カイラスの名前が出た瞬間だけぴくりと痙攣する。
それを見逃さなかったキュレナは好機と捉えたのか、机に手をつき顔を覗き込みながら嘲笑った。
「反論しないんですね。……もしかして、男狂いという噂、真実だったりします?」
「ま、待ってください! アフロティーナ様はそんな人じゃありません!」
これ以上聞いていられないと、震え声で反論するエリシスは、大型犬に果敢に立ち向かう子犬のよう。実に庇護欲を唆られる姿だが、キュレナや取り巻きは、はっと鼻で笑い飛ばた。
図書室が息の詰まるような空気に包まれる中。ついにその中心にいる人物から発せられた第一声は、誰も予想していない言葉だった。
「エリシス様、お座りなさい」
「えっ……で、でも、こんな!」
「お座りなさい」
「……はい」
有無を言わせぬアフロティーナの圧に、エリシスはぺしょ、と眉を下げて大人しく椅子へ腰掛ける。まさに、飼い主にお座りと命じられた子犬そのもの。あまりに主従めいた予想外なやり取りに、キュレナたちも呆気に取られ目を瞬かせた。
そんな彼女たちをよそに、アフロティーナはさらりと、とんでもない爆弾を投下する。
「怒る必要はありませんわ、エリシス様」
「ど、どうしてですかっ」
「ある意味、真実ですもの」
「ぇ……えぇっ⁉︎」
(はぁ⁉︎)
エリシスの悲鳴と、棚の影で息を潜めるカイラスの心の絶叫が重なった。
──まさか、自分に向けられていたあの執着の全てが、演技だったとでもいうのか。
──いや、そんなはずはない。あれが演技なのだとしたら、世の役者は全員が廃業している。
──しかし、確かに今、本人の口から『真実』という言葉が出た。
(まて……待て待て待てっ! どういうことだ⁉︎)
カイラスの頭の中が大混乱に陥る中、キュレナもまさかすんなりと肯定されるとは思わず、困惑を隠せずにいる。
「へ、へぇ。男狂いであること、認めるのですね」
「えぇ」
虚勢を張り引き攣った笑顔で言うキュレナに、アフロティーナはいつも通り極上の笑みを浮かべながら答えた。
「それはつまり──わたくしの美しさが全ての殿方を狂わせてしまう、ということでしょう?」
『……は?』
この場にいる全員の思考が、綺麗に停止した。
周りの反応に気づいてないのか、あえて無視しているのか。アフロティーナはうっとりと頬に手を添え、ため息混じりに微笑む。
「いいのです。そう思われても仕方ありませんもの。この世に存在するありとあらゆるものの中で、最上級に美しい存在であってしまったわたくしが、いけないのですわ」
誰も何も言えない空気の中、アフロティーナの自己肯定感がイカれた発言だけが図書室に広がる。
「この世にいるだけで殿方を魅了してしまい、あろうことか狂わせてしまうほど美しいだなんて……」
胸元でそっと両手を組み、神に許しを請う修道女のように切なげに天を仰いだ。
「あぁ……なんて罪深いわたくし」
背景にステンドグラスが煌めく教会の幻覚まで見させるアフロティーナに、カイラスは額に手を当て棚にもたれかかった。
(そうだった……こういうやつだった……!)
安堵と呆れが混ざった複雑な感情に、焦った時間を返せ! と心の中で悪態を吐くが、もちろん当該人物に届くことはない。
先ほどまで図書室を満たしていた、張り詰めた空気はどこへやら。代わりに漂っているのは「自分たちは何を聞かされているんだ……」という生徒たちの困惑と戸惑い。
取り巻きたちは呆然と口を開け、エリシスでさえ「そ、それは何か違うような……」と珍しい引き攣った顔を浮かべるしかなかった。
そんな何とも言えない空気の中。
「……ッ」
一人だけ、ぎりりと奥歯を噛み締める者がいた。もちろんそれは、この状況が一番気に食わないキュレナである。
優位に立っていたはずだった。狼狽えたり、言い逃れに窮する、美しさが崩壊したみっともない姿を拝むはずだったのに。まさか『わたくしが美し過ぎるせい』という本人以外理解不能な持論で受け流されるなんて、誰が想像できようか。
キュレナはギリッと手のひらに爪を食い込ませ、苛立ちを隠せず唇を歪ませた。
「……相変わらず自分の都合のいいように変換するのがお上手ですね」
「わたくしが間違っていると?」
「むしろ、あの発言が間違ってない方がおかしいわよ」
「それでは、具体的にご説明いただいてよろしいでしょうか」
ルビーの瞳がすっと細くなり、その鋭い視線にキュレナは息を呑む。
「わたくしは確かにアロン殿下と婚約しておりましたが、白い婚約でしたわ。口付けの一つもしておりません」
美しい指が、薔薇色に色づく唇をそっと撫でる。その仕草はあまりに魅惑的で、男女問わず誰もが頬を染めた。
「カイラス様に好意を寄せているのは認めますけれど、それ以外の殿方に目を向けたことはございませんの」
カイラスだけに向ける激しい熱の片鱗を宿した瞳で見つめると、キュレナの背筋がぞわりと粟立つ。
「日々この美しさを磨き、その他の時間はカイラス様に費やしているわたくしに、他の男性と関係を持つ時間があるとお思いで?」
にこり、と。
有無を言わせぬ笑顔に真っ直ぐ射抜かれ、キュレナの喉がひくりと鳴る。
「それとも──わたくしが一体いつ、どなたに、何をしたのか。具体的な証拠でもお持ちなのかしら」
「う、噂話を聞いただけっ言いましたでしょう? なのにどうして、私が証拠を持っていないといけないのですか。ねぇ、あなたたちもそう思うわよね?」
取り巻きの加勢を期待して声をかけるも、返ってくるのは静寂。アフロティーナの雰囲気に圧倒され、最初の威勢などとうに消え去っていた。全員が視線を彷徨わせ、誰一人としてキュレナへ助け舟を出す者はいない。
完全に孤立無援。味方が一人もいないことを突きつけられ、キュレナの顔は見る見るうちに青白く変わる。逃げ道を失った彼女は悔しげに唇を噛み締め、苦しい釈明をすることしか許される道はなかった。
「わ、私はただ、酷い噂話を聞いたから忠告に来てあげただけよ……!」
「まぁ!」
それを聞いたアフロティーナは感嘆の声を上げると、すっくと立ち上がる。そのままキュレナに顔を寄せ、白くなるほど握りしめられた拳を両手で優しく包み込んだ。
「わざわざ時間を割いてまで、わたくしのために忠告に来てくださるなんて。キュレナ様はそんなにわたくしのことがお好きでしたのね、とても光栄ですわ」
「……ッ!」
それはアロンを慕うキュレナにとって、あまりにも屈辱的な言葉。でも、否定することはできない。否定したら、嫌がらせで噂を伝えたのだと、自白してしまうことになるから。
言い返す言葉もなくただ怒りで震えるキュレナに、アフロティーナは耳元でそっと囁く。
「──ですが、お気をつけを。証拠のない風の便りを吹聴して回っておりますと……うっかり虎の尾を踏むことになりかねませんから」
「──ひッ」
心地の良い声色から発せられた警告に、キュレナは握られた手をばっと振り払った。そして「もういいわ!」と涙声で捨て台詞を吐き、逃げるように背を向けて走り出す。それを見た取り巻きも慌ててその後を追い、図書室はいつも通りとはいかないが、ようやく平和な空気を取り戻した。
笑顔で手を振り見送ったアフロティーナは姿が見えなくなると、何事もなかったかのように優雅に腰を下ろす。エリシスは最後のキュレナの怯えようが気になり、恐る恐る尋ねた。
「……あのアフロティーナ様、最後何を言ったんですか?」
「お気になさらず。それよりもエリシス様、続きを始めましょう」
「え? こ、この空気の中でですか……?」
「あの程度のことで狼狽えていては、カイラス様の隣に立つ資格はありませんわよ? さぁ、ペンをお持ちになって」
「わ、分かりましたっ!」
(お前の中の俺は一体何なんだ……)
騒動を見守り終えたカイラスは、エリシスも納得するなと心の中でツッコミを入れつつ、本を抱え直すと今度こそ図書室を後にした。
「……にしても、どうにもきな臭いな」
西日が照りつける廊下を進みながら、先ほどの出来事を振り返る。
突然に湧いた、悪意ある噂。今回はアフロティーナの規格外過ぎる自己肯定感によって、あの場は収束した。だが、この手の噂は下手したら侯爵家当主が出てくるほどの大問題になり得るもの。カイラスのある種ネタのような噂話とは訳が違う。
そして、キュレナとその取り巻きたち。ゼノスが警戒する生粋の第二王子派閥がほとんどだが、中には初めて見る顔もいた。
──その人物が、やけに冷たい目でアフロティーナを睨んでいたのが気になる。
(もしこれが単なる悪意だけじゃなく、裏で糸を引いてるやつがいるとしたら──)
クラスメイトから噂を聞いた時の、首の後ろの痛みが蘇る。無意識にさすりながら、「あ゛ー……巻き込まれたくない……」とため息混じりのぼやきを吐き出した。
しかし、その言葉とは裏腹に。前を見据える灰色の瞳が、真意を探るように深い色を帯びた。




